経済・政治・国際

私達はどうあるべきなのであろうか?  その5

 これからの時代、どうなってゆくのであろうか?過去の時代の流れから現在へと回帰してみると、IT革命が一つの大きな転換点であること、スマホの出現により、さらに加速的に時代は変化した、というよりも、し続けているという現実を前にして、果たしてこれでいいのか?という疑問符が付く。二極化した社会、能力の無い政治家達、そして、朝日の没落に伴うマスメディアのこれからの在り方、教育の問題、高齢化社会を実際に迎えだした現実、赤字国債を抱え込んでいる日本と経済の諸問題、異常気象、相次ぐ天変地異、原発の問題、新興国とのつきあい方と国益の問題、まだまだ数え切れないその他の事情・・・日本だけとは限らないが、とりあえず、近い将来、誰しもが直面するであろうこれらの現実に、現時点で私達は目をつむってごまかし続けているのが現状なのではないのだろうか?確かに私も様々な事を考えては来たが、どこから手を付ければいいのか解らない位に、時代の流れは加速し続ける。ただ、一つだけ解っていることは、このまま行ったら間違いなく破綻するということだ。これは、日本だけではなく、世界規模でかもしれない・・・人は誰しも、現実から目を背けたがるものだが、それに立ち向かわなければならない日がいつか来る。自分でなくても、自分の子孫が。そこに、現在の貧富の差やら勝ち組負け組とやらは通用しない。どんな立場の人間でも絶対に逃れられない。なぜならば、どんな人間にも生老病死の苦しみ(仏教でいう四苦)を味わう時が必ず来るから・・・昔ながらのやり方で上に挙げた日本の問題に対処しようとしても不可能なのだ。これは、文明の便利さにどっぷりと浸ってしまった現代人全体が抱える業なのかも知れない。もしくはエゴイズムの問題なのかも知れない。もしくはコマーシャリズムの問題なのかも知れない。もしくは・・・というように、その根拠でさえも、いくらでも浮かび上がる。結局は、人類全体の責任なのであり、逃げ道など無い・・・その上で、『私達はどうあるべきなのであろうか?』という問いを発してみたのである。私自身も迷える子羊であることに変わりは無いのだ。

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私達はどうあるべきなのであろうか?  その4

 朝日新聞のボロとは言うまでもなく、捏造された記事が明るみに出たこと。主な所では、従軍慰安婦関連の『吉田証言』を、他の新聞社とは異なり、32年間黙認し続けた問題、また、先に挙げた珊瑚のでっち上げの問題、東京電力の福島第一の所長のコメントについての『吉田調書』問題、池上彰氏の問題、などなど、多々ある。要は社風に合わない情報を握りつぶし、さも、自分達の書いている事だけが正義だ、と勘違い甚だしい認識で多くの国民をアジり続けた責任は重い・・・そして今回の朝日新聞の木村社長の辞任の根拠の主旨と、朝日新聞社内(パスワード込み)メール『風月南天』での木村社長が社員宛に出した社内メールの内容との食い違い。これには、朝日新聞社内部でも、社員達が怒号をあげたという。当たり前である。社長が部下を置いて敵前逃亡したようなものなのであるから・・・朝日新聞はコマーシャリズムの時代の中で、ジャーナリズムを無茶苦茶にし、従軍慰安婦問題の『吉田証言』に於いては、国の形態を無茶苦茶にし続けてきた面は否めない。実際に国民の朝日離れが生じだしている事実は否めない。しかしながら、踊らされてきた多くの国民にも責任があることも事実である。確かに、情報というものを扱う以上、間違いも生じる事はあるであろう。しかし、朝日新聞のケースは許されるものではないのだ・・・これら一連の問題を顧みて、私は、歴史や政治思想に『絶対』が無い以上、個人の思想の自由として右だ左だというのはあるにしても、ジャーナリズムには、それがあってはならないのであることを改めて認識したし、これだけ朝日が叩かれている現在、右翼が勢いづくな、と感じたと同時に、時代がマスメディアの在り方としての大きな転換期を迎えているような気がするのだ。その様な中で、私達はどうあるべきなのであるのだろうか?ということを、考えてゆきたい。右だ左だという論点ではなく、もっと時代というものについてをである。

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私達はどうあるべきなのであろうか?  その3

 戦後、各新聞社が論調を変える中で、朝日が最も部数を伸ばしたことには、様々な意見もあろうが、紛れもない事実である。原因は様々あろうが、いち早く時代に迎合したという見方も出来る。そして、日本が経済復興してゆく中で、新聞各社はコマーシャリズムの波に呑まれて行くことになる。部数を伸ばすためなら、手段を選ばなくなる時代がやってきた。新聞社が新しいマスメディアであるTVを利用し、戦後の日本のイデオロギーを作り、多くの国民を先導したという事実も否めない。そんな中で、朝日系列の先導の仕方は、とりわけ左寄りであった、ということも周知の事実。先に挙げたテレビ朝日の『ニュースステーション』を多くの国民が支持したことからも明白である。時はバブルの時代、朝日新聞のペンにも力が入る時代であった。珊瑚に朝日の契約社員がK.Yと彫ったでっち上げ記事は許されるのに、朝日新聞の記者が赤報隊と名乗る団体に殺されると、躍起になって、ペンは剣よりも強し、などと書いていたのも事実・・・しかし、バブルが弾け、不景気となり、さらにIT革命を迎え、時代(多くの国民)の流れが、徐々に新聞社やTVからコンピューターに移行し出すと、特に新聞社が多くの国民を先導する時代ではなくなってしまった。スマートフォンも急激に普及し、新聞社に虫のいい時代では無くなった。ここで新聞社の中でも、一番の部数を誇っていた朝日新聞も昔のようには立ちゆかなくなり、徐々にボロが出始める次第となったのである。

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私達はどうあるべきなのであろうか?  その2

 ある頃から、私は、戦前から存在した新聞が、何故、戦後も大手をふるって、存在しているのかが疑問でならなかった。それは、無論、日本が敗戦国だという認識があったからである。戦前の新聞など読んだことはないが、夏目漱石が明治時代に今の朝日新聞に当たる新聞で様々な名作を連載していた事くらいは知っている。それに、戦前の治安維持法のむごさや政治犯を厳しく取り締まった事実もある。となると、何故、戦前の新聞社が現代まで生き残っているのかという疑問を、ガキの頃に漠然と抱いたことがある。最初は記者を全部入れ替えたのだろうと思っていた。しかしそんなことは、あり得るはずがない・・・物事がある程度、解る様になってきた頃、日本の敗戦と共に新聞社を辞めた記者がいたことを知った。つまり、戦前は各新聞社とも、軍国主義、及び戦争を煽っていたのである。私は、故祖父母に戦争中について話を聞いたことがある。何で、敗れる確率の高い戦争に突っ走ったのかを。すると故祖母は、「あの頃はそんなことを言ってられる状況じゃあなかった」とだけ話してくれた。太平洋戦争時の海軍司令官であった山本五十六も開戦前に何度シュミレーションしても、アメリカに勝ち目がないことから、開戦には反対であったにもかかわらず、開戦に踏み切らざるを得なかったことからも、世論が許さなかったということであろう。その世論を煽ったマスメディア(巨大媒介)のうちの一つが新聞社であるとすれば、敗戦と同時に、責任問題として、軍部のみならず立派な戦犯なのである。その扇動に乗った、国民にも、もちろん責任はあるが、ここで問題視しているのは、戦前の新聞社が戦後、論調を手の平を返したかのようにコロリと変えたということである。

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私達はどうあるべきなのであろうか?  その1

 朝日新聞社長引責辞任とのニュースをネットで見てしまったが故に、また、朝日か、今度は何だ?と、調べ物をしているうちに、三時間ぐらいが経過していた。ジャーナリズムや政治思想、ひいては、個人の在り方、及び国の在り方ということを考え込んでしまった。これは、私が夜型にしたのでは無く、二時間弱しか眠れなかったのがきっかけである。この国の政治を見捨てていた私は、政治的関心と共にニュースも新聞ではなく、ネットでチェックしていた。新聞もニュースもデタラメだらけであることが解っていたからである。何故、ネットかというと、気になるニュースがあった時にいろんな角度から情報を仕入れやすいからである。四年ぐらい前、朝日の夕刊の『素粒子』のコーナーの揶揄の仕方や、デタラメな記事及び応対(イラク戦争の時に、天声人語と国際面が同じ記事を同じ新聞で正反対の見地から書いていることに腹が立ち、朝日にクレームの電話を入れたら、受付の女性社員は、私が、「あの、今日の」とまで言った瞬間、電話をクレーム係に回し、男が出てきた。私が矛盾点を指摘すると、その男は黙り続けたので、嫌気が差し、電話を切った)の非道さに腹が立ち、日経にすぐに変えた。そもそも、私の家が朝日新聞を取り始めたのは、中・高時代に国語の教師陣が、天声人語の漢字が受験によく出るからと、夏休みの宿題にし、夏休み明けには全校統一漢字テストというものを行う風習があったからなのだ。高校になると社説まで加えられた。確かに漢字には強くなるのだが、思想的な意味では、考え物だと思われる。実際に、高校にもなると、朝日新聞の記者になりたいと言う奴もいたし、テレビ朝日の『ニュースステーション』が一世を風靡した時代でもあった。『ニュースステーション』の久米宏が、初めてニュースキャスターとしてニュースにコメントを入れ出したことは画期的であり、TVニュースの報道の在り方を変えた革命的な番組で、当時は視聴率が25%近くあった人気番組だった・・・それと今回の朝日新聞の社長辞任問題はどこにあるのだろうか?単なるコマーシャリズム(商業主義)だけの問題だけでは無いのである。

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北方領土問題

 昔、祖母が存命の頃、神戸のセンター街の古本屋で、棋士の升田幸三の『名人に後者を引いた男』という有名な本を見付けた。本の裏を見ると初版。帯も着いていて、状態も良かった。恐る恐る手にとって値札を観ると、千円。発売当初の価格と同じだった。これは安い買い物だ、と受け止めた私は迷わず買った。何度も何度も読んだ。面白おかしい話だらけだったので、このblogでまた紹介する機会があるかも知れない。私が唯一ブックカバーを着けている本だ。政治的な思想とは関係なく、その中で、北方領土なんかどうでもいいと考えている方がいらっしゃる様だが、私は重要だと思う。将棋にたとえれば、丁度、『歩』の様なものですな、と書いてあった。なるほど、と観えた。歩の無い将棋は勝てるはずがないのである。それはつまり、北方領土が無かったら、いきなり北海道に攻めてくる可能性を否定できないのと同じ事だ。世界史を少しかじれば解ることだが、第二次世界大戦の時にソ連(ロシア人)が一番汚い真似をしている。ヒトラーばかりが反発を受けるが、スターリンが同じぐらいの人間を虐殺していることは、あまり知られてはいない。現在の日本のポジションとは、敗戦国としてアメリカの極東の軍事基地の様なものだ。それに対して、どれだけアメリカにカネを貢いだことか。ロシアが北方領土で軍事演習を始めたと聞いた。欧米の経済制裁に対するストレスのはけ口なのかも知れない・・・冷戦を収束させたゴルバチョフは確かにノーベル平和賞に値する人物だった。しかし、今のロシアの状態は何だ。歴史に挑戦している様なものではないか・・・しかし、私が思うに、日本は無くなってしまって、敗戦以来、アメリカの従属国になっている様なものではないか。最近は若い男の腑抜けた顔を観るのに耐えられない自分がいる。

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安倍君、いいかげんにしたまえ

 一国の総理大臣が国の中で、ある県だけをひいきにしては為らない。こんな事は当たり前のことだ。随分前の話だが、今の内閣総理大臣である安倍晋三君が地元である山口に帰る度に、墓参りをし、先月は下関の東行庵を訪れ、決意を固めたというニュースを観た。はっきり言って、相当にシラけた。そんなくだらないニュースなどよりも、下関で安倍君が何を晩飯に喰ったのかの方が気になるほどに。自腹で喰えよとだけは言いたかった。あの人の政治理念には疑問を抱かざるを得ない。政権交代して、何故か、一度は国政を放り出した、あの人が首相で、副首相も、民意を無視して勝手に決められた。結果、元首相の小泉と同じような道を踏襲している。法的に言えば、おいしい法案だけを先に通して、国民の知らぬ所で滅茶苦茶な、ポリシーも無い法案を通している。ヤバくなったら外交に出る。はっきり言って、あんなのはバカンス以外の何物でも無い。彼等が内閣を牛耳って、国民の生活は幸せになったのであろうか?先日、北海道電力が17%以上の値上げを表明し、続けて乳製品も10%余りの値上げを表明した。その一方で、トヨタは法人税を払っていなかった・・・こんな無茶苦茶なことがあるか!馬鹿に馬鹿と言っても、どうしようも無いことぐらいは判る。NHKのニュースで取り上げない記事があるのも知っている。安倍君は、やたらと、「私も長州人として・・・」という表現を使う。これは間違いだ。会津の人にも意地がある。時流というものだけで判断していては、道を外す。私はアベノミクスなんて全く期待していない。国民は、集団的自衛権だけで政権を観てはいけない。その裏で、汚い法律を通そうとしている事に着目せねばならない。

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アンコールワットの最終壁画

 カンボジアにあるアンコールワット遺跡(ヒンズー教)の一階の廻廊にある、人類史を物語った石の壁画については、以前触れた。簡略に書くと、過去、現在、未来の人類史が一階の廻廊四面にわたって彫られている。その最終画が、人類同士が争って紅蓮の炎に包まれていたのには考えさせられた、というものだった・・・私は、最近、あれが炎だったのか、血だったのかで悩んでいる。

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あいつら・・・

 結局、自公の奴等は、自分達の給料だけを増やして、何もしなかった・・・あいつら、W杯休みでも取っていたんじゃあねえのか?

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真ん中が一番いい?

 真ん中が一番いいことぐらい解っていた。現に私の母方の曾祖父の名字が『中道』であった。しかし、不思議なことに、中道家は金には困らなかったのに、滅びた・・・ニュートラルでありたいということは、車の空ぶかしと一緒で、動かないものなのだ。仏教の中道思想とは、理想であって、現実的じゃあない。人は生きていくために様々な業を背負っている。何事についても、もの申したり、実行したり、ということには思想が伴う。その時点で、ニュートラルでは無いのだ。右か左かということは、車を前進させるか後退させるかということに他ならない。日本人には、沈黙の文化というものがある。ニュートラルであるとは、沈黙に他ならない。もし、外人が見たら、あいつは何にもやっていないだけだ、と解釈するであろう。幼稚なのだ。だからこそ、日本人の根底には、『滅美』の文化がある。これを誤解しているのが、アメリカに与えられた民主主義と憲法と物質文化である。ベネディクトの『菊と刀』は日本人の本質を突いているという意味でも深い。与えられた、無茶苦茶な土壌の上には、エゴイズムだけが横たわる。人々は歴史を学び、自己哲学の基で言動しなければならない。今の日本には、残念ながらそれが無い。金を右から左に動かして、儲けることなど、あってはならない資本主義の形態だ。砂上の楼閣であることは、バブルで借金作った連中に神の手が降りたのだ・・・神?それはアメリカに深く根付いている、ある民族のことかも知れない。あいつらは、人々が欲深いことをようく知っている。ただ、それを利用しているだけだ。エゴでものを言う民主主義もエゴで動いている資本主義も、必ずエゴによって滅びるであろう。人間が醜さをさらけ出している自由なぞ自由では無い。人類は行き着く所まで行き着いた。取って代わる思想など無い。懐古思想も駄目だ。人は一度覚えた味を捨てることは出来ない。『今は昔』には歴史観を感じるが、実際は逆で、『今は未来』なのである。少なくとも私は、『今』に希望を見いだせない。従って『未来』は暗い。

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