書籍・雑誌

『13歳のハローワーク』を読んでみて

 『13歳のハローワーク』は実は名著なんだと聞いて、読んではみたものの、私にとっては駄作であった。もちろん、改訂版の方を読んだ。改訂版は前書きがしっかりと間違った道で、説得力溢れるように書いてあった。様々なことが数学の証明のように書かれてあったが、筆者は致命的なミスを犯していた。『金』が目的であってはならないと書いてある。金では買えないものの一例として、『信頼』を挙げて細かに書いていた。一方で、『地位や名誉』を得るために仕事を通じて、社会と関わり合う大切さを説いている・・・矛盾である。実際、現在働いている人の1%も、地位や名誉など得てはいない。家族を養うために、金を稼ぎ、我慢しながら働いているというのが現状だ。前書きを読んだだけで、これだけの疑問符が付くのだから、中身はあってないようなものである。採り上げている職種が少なすぎる。その割には具体的な職種が書いてある。これは、筆者の偏った主観によるものであり、現実社会に対して地に足が着いていないと言っても過言では無い。私から言わせれば、そもそも、人生にセオリーなんてものは存在せず、流れ着いた先に、待っているのが仕事である。向いているかそうでないかなど、自分で決められる人は少なく、みんな屈辱の中で、歯を食いしばりながら、『金』を稼いでいるのだ。それに誇りを持てるかどうかは、第三者の言うべき所では無い。それから、この本は、総合力に欠けている。様々な職種を半ば断定的に書いている。具体的には、対象の13歳に対して、科目ごとに向いている仕事を挙げている形式だが、人生なんて何が起こるか解らないのだ。トータルで考える人の方があらゆる面で伸びやすいということも欠落している。それに、13歳という初めてティーンエイジャーになった年頃というのは、悩みが溢れかえる年代でもある。大人が考えるほど、単純でも無い。純であればあるほど傷つく年代だ。そういう年頃のいわゆるガキどもの、考えるヒントにもなってはいない。一言で言うと、将来、働きアリになるためのHow to本に過ぎない。それ程にひどい悪著である・・・まだまだ言いたいことは山程あるが、こんな事を書いている時間がもったいない。ゴミ箱に放り込んでいい一冊である。

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どんな人であっても

 孔子にしろ、宮澤賢治にしろ、聖人と呼ばれる人々でも、論語や詩集の中で、ちゃんと自尊心をぶちまけているのは、いかにも人間らしい事だ。

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殺し文句

 ・三島氏が三輪氏に対して、「お前には、たった一つだけ、欠点がある。それは、俺に惚れないことだ」

 ・三輪氏が何処かの講演の際、女子学生相手に、「美しい日本語を喋りなさい。学ぼうと思えば、いくらでも、いい日本語を書いた本はあります。例えば、堀口大學さんの訳した詩集など・・・」と、ここまで読んで、その本をゴミ箱に放り投げた。私は、この、大學さんの詩集のために金をドブに捨てた様な者である。フランス語が少々お達者だったのかも知れないが、大學さんの訳では、『詩』に為っていないのだ。まだ、ヴェルレーヌなら、明治時代の『海潮音』、ランボーならば小林秀雄訳の方が、詩として伝わって来る。大學に全く才能が無いのは明らかである・・・本来、教科書が間違っている、などということは、どうでもいいのだ。私は、ヴェルレーヌがランボーの手を狙撃した一夜の惨劇に、心打たれる。

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テスト氏との一夜

・ポール・ヴァレリーの『テスト氏との一夜』、あれは、文学などではなく、予言だ。

・有機体を失うことよりも、無機体を失うことの方が私には辛い。

・ポーは発狂した時、「俺は、あの木と似ている。梢から枯れるのだ」と言った。

・ディープインパクトは知っている。。。だからトラウマとなり、心当たりが無いのだ。

・『ポーー』で始まる寺山修司の『ロング・グッドバイ』は見栄だ。証拠に彼には子がいない。

・『_bye』?白紙の解答用紙を出された気分。しらふでコミットしないと、また金で眠れぬ。

・レポートの雨止んで、光雲うるさく、重い真相カーテンは閉じられ、また立ち上がる。

・ほおら、徹夜だ。信じがたき本当を押しつける予言が当たる・・・やっと、解き放たれる!!

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『アレ』を待つのです

 女流作家の故有吉佐和子の本は読んだことはないが、母によると一作書く度に、入院していたそうである。私は入院したことはないが、このblogを真剣に書いている。すると、書いた後、最低一時間は食物が喉を通らない。一種の極度の集中により、そう状態になるのであろう。私の場合は、長時間寝ることによって、うさ晴らしにしている。食事も喉を通らぬから、その前に寝てしまう。ここ四日間も一日にフルーツゼリーを一個食べるのがやっとだった。我ながら、よく生きているな、と思う。起きたらほぼ毎日、ゴミ箱にヘドを吐いている。齢四十一にして死ぬかも知れないのは辛い。散々な親不孝である。しかしながら、私には大恩ある友人がいる。その友人との約束を守りたいのだ。この毎日blogだけが私の生き甲斐なのだ。誰に何を言われても止めることはない。このつとめは楽しい、と思う一方で、こんな読者数も少なく、お金にもならず、読んでもいない友達に、馬鹿にされることは許しがたい。書く前に毎晩泣く。金も地位も名誉も捨てて、真剣に書くからだ。それでも私はやりがいを感じている。昔、小林秀雄や大江健三郎にハマッた頃、私は大学院の二年生に上がったころ、退学届を出した。四年から研究室に入るのだが、院の単位を取って、修士論文のネタも山ほどあったのに、本に惚れたので辞めた。人間関係もあったが、私は実験中、本ばかり読んでいた。通学列車でも。その代わり、目を悪くした。退学届を出す朝、自分の進む道を半年以上案じていた私は、両親に土下座した。その前に、大学院の二年の学費は払わなくてもいいと言い聞かせてあった両親も黙っていた。それ程、誰かの役に立つ物書きになりたかったのである。それから私は大江健三郎のたしか、『私という小説家の作り方』という本を読んだ。すると、海が凪ぎになったり、シケになったりするように、どんなに優れた物書きでも、書けないときがあります。そういう時は、『アレ』を待つのです。と最後の章に書かれてあった。私にはそれが何を指しているか即座に解った。それは、手が脳みそに追いつかないぐらいの、一つのそう状態を指していると。しかしそれをやったら、反動で、恐ろしいほどのうつ状態が待っていることは私でも解った。私は長時間寝るだけで何とか持たせているが、故有吉佐和子は入院してまで作品を書いている。見習う気はないが、物書きとはそこまでしても、食べてゆけるのは一握りなのである。

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世に棲む日々

 高校の時の授業の際、尊敬していた英語の先生が、荒くれ者相手に、『世に棲む日々』を読め!と言った。そいつは黙っていたが、多分読んではいない。その当時、司馬遼太郎の『龍馬が行く』の最終巻を読んでいた私には嬉しい情報だった。早速本を買い吉田松陰と高杉晋作のことを知った。司馬先生の文章は、やや誇張が大きすぎる面もあったが、松蔭にも晋作にも憧れた。何度も何度も読み返したのは、晋作が久坂玄瑞と共に、松下村塾に入門する時のシーンである。松蔭にも晋作にも憧れた。幕末の志士に憧れる方は多いだろうが、司馬先生の本だと、あまりに晋作が粋なのである。多分、デタラメもお書きになったのだろうが、晋作の粋なこと粋なこと。フィクションを突き抜けている。読んでいるものが快感を覚えるくらい、突き抜けている・・・三十の時に車中泊で山陰・九州へ旅に出た。途中で、高杉晋作がクーデターを決意して、馬に騎乗したという寺にも寄った。地図を片手に、お守りを一つ買って、高杉晋作の墓の情報を仕入れた。向かったら、あいにくの雨。結構どしゃぶりだった。着いてみて、『東行墓』と見付け、お参り。気のせいか、オーラを感じたのは言うまでもない。その後、伊藤博文が作ったという、『動けば雷電のごとく 発すれば風雨の如し。衆目慨然、あえて正視すること無し。これが我が東行高杉君にあらずや』という有名な碑文を探したのだが見付からない。仕方が無いので、近くの保育所で聞いた。大まかな位置を聞いて、向かったのだが、見付からない。すると、園長さんが雨の中やって来てくれて、さっきは間違えてしまったから、と言って私を案内してくれた。ありがたきことこの上無きことである。お礼を言い、東行(高杉晋作)の墓の前で念仏でも唱えようかとも思ったが、晋作らしくないな、と感じたので、そのまま車へと向かった。

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のび太のユウウツ

・ガキの頃に読んだ、『ドラえもん』で、のび太がドラえもんに、「何で六月は日曜日以外休みがないんだろう」とユウウツそうに嘆いていた。

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人間の営み・・・『砂の女』と『死者の奢り』と

・医者にならないという条件付きで、理Ⅲをなんとか卒業させてもらい、作家になった、安部公房の作品で、私が唯一読んだ事があるのは、『砂の女』である。この作品、何も考えずに読んだら、退屈な感じなのだが、よ~く考えてみると、流砂にでも、のみ込まれる気分になり、人間の営みの虚しさを描写している作品だいうことが、嫌という程、伝わってくるのだ。主人公は、何のきっかけだったか忘れたが、蟻地獄のような砂の中にいて、崩れるのが分かっていても、砂を掘り続ける女と出会う。主人公は、その蟻地獄から脱出しようと、何度も試みるのであるが、何度も失敗しているうちに、段々と、その女がやっている事を真似し出すのである・・・そこら辺の所に人間の営みの虚しさというものを感じざるを得ないのだ。結局、主人公はその蟻地獄から抜け出せないのであるが、『我々が日常生活というものを営む事に、どんな意味があるのか?』という意味での、強力なアンチテーゼに思えて仕方が無いのである。はっきりいって、大江健三郎の『死者の奢り』で感じた寒気と同様な寒気を感じた・・・両者とも、小説では無く、人間の営みに対して、哲学的な問いかけをされているような気がしてならない。

・安部公房に医者にならないことを約束させた教授は、「卒業させといてやってよかった。一人の天才作家を潰すところであった」と語ったそうである。

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『男セン』

・私がblogを長期間連載してきて思ったことは、新聞に漫画などを書いている人というのは、もの凄い根性の持ち主だということである。毎日々々心の引き出しを開けては、ひたすらに描かれている姿は紙面からは見えないが、とてもじゃあないけれど、見習う所はあっても、とても真似のできるものではない・・・私がもっとすごいと思うのは、東スポの『男セン』での『いろ鉛筆』というエロ小説を毎日書いている奴のことだ。よくもまあ、スケベなことだけを考えて、毎回々々見せ場を作るスキルは半端ではない・・・私は、東スポとは、エロと馬とプロレスと、忘れちゃいけない、一面のゴシップ記事で成り立っていると考えている。友人などが飲みに来た場合、東スポがあるだけで話題が尽きない。わずか1P をめくっただけで喧々ガクガクとなる所に面白みがある。例えば、一面のゴシップ記事で、『プレスリー死亡』と書いておいて、折り目で『か!?』などと、こすいことをしている新聞でもある。ごまかすところにテクニックがある、などと編集者が言っているところは否めない。あのビートたけしでさえ、自分に向けてのバッシングを避けるために、東スポの『名誉編集長』役をやっている。このことは、たけしが、週刊ポストにコーナーを持っていることからも、明らかに護身術といわざるを得ない。ここに私は言いたい『ゴシップ新聞よ去れ』・・・でもお馬ちゃんの時は、本紙・渡辺、頼んだぞ。

・本紙・渡辺の人気薄での▲は要注意。押さえておくべし。

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芥川賞と直木賞

・芥川賞をもらった作家の中で、誰一人として、芥川龍之介を超えている者がいないのはいない。私が、芥川の作品で尤も好きなのは、晩年に書かれた、『侏儒の言葉』である。それに私の青春をなぞらえた。暗く孤独なのが、青春時代と重なったのである。

・自分は物書きとして、芥川派なのか、直木派なのかを考えた事がある。どちらかというと、私も凡人なので、直木三十五の様なものかな、と思った。それで、道を間違わずに済んだ。先日紹介した、『猫を殺したい』などという作品は、タイトルだけでインパクトを採っている気がしてならない。配慮の全くないタイトルである。その馬鹿馬鹿しさに付き合っている私も多分、阿呆であろう。

・今、現在では芥川賞よりも直木賞の方が格上なのは事実である。芥川賞をおとしめたのは、選考委員に、石原慎太郎や村上龍が居座っているおかげである。二人とも似た様な作家で、エログロナンセンスを突き抜けてきた作家で、芥川の鋭さを全く持っていない輩どもである。それだけで、現在、芥川賞を採っても、食いっぱぐれている作家がいる。その点直木賞みたいな、軌道に乗った作家を評する賞の方が、よっぽど格が付く。

・古い写真や思い出などが、よく、セピア色に染まると言うが、セピア色とはいかの墨の色で、大変切ないものである。

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