文化・芸術

エイプリルフール

 大学時代の同期で、某商社に勤めている、友人だが一度も喋ったことがないフェイスブック友達が、ワシントンDCからユーモア溢れる大ハッタリをカマしてくれた。三項目あり、エイプリルフールなこともあって、よっぽど『ダウト!!』とコメントしようと思ったが、会ったこともないという点で、私は騙される覚悟で、一項目にだけ、まともに反応した。また、日本時間のエイプリルフールだったので、アメリカの東部時間では3/31に書いたとしか思えなかったのも、騙された要因だった。しかし、不思議なことに、騙されて茶目っ気は生じても、悔しいとは思わなかった。きっとそれは、彼がまともに生活しているからだろう・・・まとも?食事とゴルフと麻雀の写真しか記憶にないが、商社マンとは、時に異常なスケジュールで行動する。彼はタフだなと、いつも感心させられる。会ったことはないけれど、遊び人で、根は真面目だということは解った。エイプリルフールで、つくウソを仕込むだけでも大変だと思ったが、そういう所に労力を惜しまない所が彼のサービス精神なのである。大ハッタリだったが、彼は毎年、エイプリルフールにはやっているそうだ。気を遣いすぎて疲れないか心配でもある。ついても許されるウソだから問題はないのだ。だから彼はみんなから愛されている。ついて許されないウソとは、ウソをついてまで他人をコケにし、笑いをとろうという輩だ。大学時代の知り合いに、一人、そういう奴がいたが、最終的には誰からも相手にされなくなった。『嘘つきは泥棒の始まり』というのも、まんざらウソではないのだが、いつもそれをしていたら信用がなくなる。せめて、エイプリルフールぐらい、罪のないウソで騙されてみるのもいいものだ。

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どこもかしこも桜・桜・桜

 どんなメディア(媒介)を見ても、桜・桜・桜。どこもかしこも桜・桜・桜。今日あたり、お花見にでも行こうか・・・ところで、内輪で盛り上げる為に他人の振りをした人のことを何でサクラと言うのだろう?競馬のサクラ軍団からは何故、最近強い馬が出ないのだろう?時代劇の遠山の金さんの桜吹雪の設定には無理がありすぎないか?・・・のんびりと花見酒で哲学してこよう。

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紙と文化

 私が高校生だった頃、よく、その国の紙の消費量は文化度のバロメータ、などという英文を読んだり、地理でも似たようなことを教わった。しかし、現在、果たしてそのセオリーは成り立っているのか疑問である。紙を発明したのは、昔の中国人であるが、それ以前までは竹簡や木簡などに文字を認めていた。これを考えると、紙とは偉大なる発明であることが解る。まず、良質な紙が無ければ、紙幣などというものは存在しない。高級和紙が世界無形文化遺産になった時には驚いたが、実は、この高級和紙は、欧米の絵画の修復には欠かせないものだと知って、納得がいった。一方で最近は再生紙なども編み出され、紙の再利用なども盛んである。確かに文化度の高い国は、紙の消費量が多いだろうが、問題は、紙の使われ方である。チラシやダイレクトメール(詐欺メールも含む)などを観察していると、どうでもいいものが大方である。最近では裏が無地の広告や、プリント用紙やコピー用紙の裏まで使うようになった。その際には大きなクリップがあると便利である。また、それまで発展途上国と呼ばれてきた国々が実際に発展し始めると、紙の価格が跳ね上がった。紙の原料であるパルプは木から作られる。その木がなくなりつつある。一方、紙は物を書くためだけではなく、それ以外の用途にも用いられる。ティッシュペーパーなどは明らかに一箱当たりの枚数が減った。値上げしない代わりに量を減らすという、事実上の値上げである。ここまで考えてみるに、紙とは文化度のバロメータなどではなく、富裕度のバロメータなのではないかとも考えられる。私達は、便利であるものほど、貴重なものであることを忘れてはならない。当たり前のようにあるものが突然無くなるのが世の中なのだ。

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『今ありて』からの連想

 春の選抜高校野球が始まったが、開会式の最後に歌われる『今ありて』(作詞:阿久悠 作曲:谷村新司)を聞くと、なぜか切ない思いになる。歌っているのは、母の母校の後輩の高三生。昔は別の曲だったそうだが、小学生の頃から親元を離れて単身神戸の祖父母の所に世話になった母は、歌わずに瀬戸の両親の元に帰ったそうであるが、それはどうでもいい。阿久悠さんが熱狂的な高校球児達のファンであったのは有名な話であるが、そこにはどこか、もの悲しさを感じる。整列した高校球児達に女子学生が『今ありて』を歌うという構図も、私には素直に受けとめることが出来ない。胸にしんみりと来る中、私は学徒出陣を連想していた。You Tubeで昭和18年の学徒出陣の神宮での映像を観ていた。どの人も覚悟を決めている顔だった。東条英機(戦後、東京裁判の時に拳銃自殺を試みるも失敗した男)がぶちかます。神宮で学徒を見送る女学生・・・そんな姿さえ『今ありて』を聞くと蘇ってくるのだ。一時期、私は高校野球とは、徴兵制が無くなった日本に残った唯一の徴兵もどきみたいなものだと考えていたことがある。考えすぎかも知れないが、戦後日本の初期に残った組織的規律というものは、そういう些細な所から始まったのかも知れない・・・その後、私は初めて『玉音放送』の全文をチェックした。昭和天皇の戦争責任にまで触れる気は無いが、私が高一の時に昭和という時代が終わり、万感、胸に迫る思いだったのは今でも覚えている・・・なんやらかんやらで、複雑な思い。しかし、弟と野球を観ると、二人とも熱く野球を語る。そっちの方は、もっぱら、プロ野球についてであるが。

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恵方巻きと豆の数

 ゴルフは来週へと延期となった。難しい判断だったと思うが、いたしかたない。ゴルフバッグを送ろうと思っていたので、宅急便会社と104でゴルフ場の電話番号を調べ、電話して聞いた。それまでの天気予報もチェックしていた。ぎりぎりまで友人からの連絡を待っていたが、午後三時前に延期が決まる。この季節だと、雪でなくて、雨でも寒い。現に今、家の中でキーボードを打っている指先が痛い。深く眠れたり浅い眠りだったりする中、時間調整はうまくいった。次こそは晴れてくれることを望む・・・さて、節分の昨日、海鮮の恵方巻きを食べた。今年は西南西の方角と、誰が決めたのか解らぬ基準に従った。それに、元々関東には、恵方巻きという風習があったのかも疑問だ。昨年他界した父方のばあちゃんが、たくあんといりこを入れて、毎年食べていたので、関西の文化だとばかり思っていた。みんなが恵方巻きに拘りだしたのは、ここ数年ではないだろうか。ゲンでも担がねばやっていられないという政治不信や生活の苦しさがバックにはあるのではないか。アベが再び、九条改正を言い出した。まあいい。節分の昔から変わらぬ行事といえば、豆まきである。それと、歳と同じ数の豆を食べること。私の場合、豆を食べるのは久々であったが、数えるのが面倒なくらい豆を選った。何だか、全然嬉しくない事であったが、豆を数えているうちに、何か、『自分史』みたいなものを考えてしまった。年輪が多くなったなあ、と思いながら五口位で食べた。昨日が節分なら、今日は立春。長い冬から目覚める日だ。野ばらでは、ツクシの芽でも出ているのではないか。しかし、まだ、我が家の梅は咲かない(というよりも、植木屋さんが枝をほとんど切ってしまった)。梅酒を楽しみにしていたのだが。

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秋田美人の要因とその反作用

 中高時代の新年会では、内輪ネタが多いのだが、そうでないネタで面白かった話があったので、それを書く。我々ぐらいの年齢で会社勤めしていたら、一度は単身赴任というものを味わうらしい。今回の目玉の一つが、熊本に単身赴任していた友人のカムバックであった。彼の話を楽しみにしていたが、後輩が、「熊本って極楽じゃあなかったですか?」との質問から始まった。当然、女性についての話である。「僕なんか、水戸に三年いましたけれど、がっかりでしたよ」と後輩が嘆く。何でも、昔、水戸の殿様が秋田へ転封となった時に、ごっそりと好みの女性を秋田へ連れて行ったそうだ。それで、『秋田美人』という言葉が生まれたらしい。熊本にいた友人も、福岡へ出張に行った際、羨ましがられたそうだ。こちらは熊本城を作った加藤清正が同じ事をしたから、そういう土壌が出来たとのこと・・・確かに、私が十年以上前に山陰・九州を車中泊で旅した際、熊本でもマイナーな漱石の記念館に赴いた所、相手をしてくれた若い女性は、美人だったし、説明を聞いている際に肩を寄せてきたので、驚いたことがある・・・つまり、『○○美人』という言葉の裏には、ちゃんとした歴史的根拠があったのだ。その反作用として、後輩曰く、日本で三大行きたくない所は、水戸、仙台、名古屋だそうである。しかし、これはあくまでも後輩の主観であり、一般的なのかどうなのかまでは判らない。男が何を持って女を選ぶのかも解らないし、逆もしかり。実際に、私自身が歳と共に女性を見る眼が変わっている。縁なんて解らぬものだ。

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厄払い

 元来なら、私は物事にゲンを担ぐタイプなのだが、拘泥し過ぎて裏目に出るのも嫌なので、占いやらおみくじといったものなどは、遊びの範疇に過ぎないものであった。他力本願では無く自力本願という仕組みが思考の基本をなす。何事も誰かが勝手に決めたこと故、根拠の無いものには、どうでもいい姿勢を貫いていた。その代わり、その根拠をしっかりと自分で納得できれば、大変信心深い一面も私にはある。仏壇を毎日拝むのも、ちゃんと自分の中に培ったものがあるからでもあるのだ。宿命論者であるというのも、長い目で観ての話で、その方がモデルとして美しいからという、自分なりの人生観の様なものである。その上で、自分一人の力ではどうしようも無いことというものが世の中にはあるという事、及び、その時の自分には解らないけれども、真剣に神仏などにすがる祖母の姿には何か意味があると、心の中で直感していた幼少の自分がいた事などは、自分という人間を掘り下げる上で欠かせない。ここで心理学を絡めて考えると、などとやっていては、面白そうだが埒が明かない・・・金を取る祈祷というものは、自分のためにしてもらったことが無かったが、昨日、親父の墓参りに行った帰りに、ひらめきに近い感覚で、厄除けの祈祷をしてもらった。本厄の今年が、余りにもひどい一年であったからである。別に心の安寧が欲しかったわけでも無いので、本能的としか言いようがない。たったあれだけの神事で運が開けると思うほど甘くは考えてはいない。ただ、厄年というものを甘く考えていた自分がいたのは確かである。こういう時は、もがかずに浮いているだけでいい。その確認のようなものだった次第。

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墓参りと買い物

 一昨日が彼岸の入り、ということで、秋分の日は混むだろうと、昨日、父のお墓参りに行ってきた。格安スーパーにも行く予定だったので、二時間半睡眠で、朝の四時半に目が覚めたこともあり、風呂に入り、身を清め、朝の六時頃には母と身支度をして出発。途中、仏花をコンビニで購入し、空いている道を、サラッと走ると、四十分ほどで到着。早くから来ている方々も多かった。何か、今回の墓参りでは、初めて、親父を身近に感じた気がした。お盆の七回忌に私と弟と母と三人で墓掃除をしたので、今回は手間が掛からない。父の好きだったビールを備え、線香をともし、教を唱えて車に戻ると、未だ朝の七時。しかし、その頃には既に多くの車が駐まっていた。早めに来て良かったけれど、格安スーパーまで一時間程。余りにも早く着きすぎてしまう。仕方が無いので、途中ガソリンスタンドに寄って、給油と洗車をしたも、格安スーパーに着いたのは、八時半・・・開店まで未だ一時間半もある。椅子を倒して寝ようと思うも、寝られず、ボーッとしていた。何とか辛抱の、一時間半が終わると、愛犬のご飯とか、洗濯用洗剤などと共に、食物や飲み物、香辛料などを購入。車に積みきれるかどうかは解らなかったが、何とか詰め込んだ。帰りは、高速で帰って来た。しめて、六時間掛かって、愛犬の家に待つ家に帰還・・・現在は余りの眠さに、頭が働かない。

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バベル BABEL 【WORDS】 の印象  その5

 帰路、産まれて始めてグリーン車に乗った。じっくり考えたかったからである。バベルという演劇が何を言いたかったのかを・・・舞台はまたセットが移動し、今度は多くの男女がペアになり、一組のカップルの男性が女性をぐるんぐるんと回転させていた、これは昨今の貞操観念及び性、及びSEXの堕落を物語っている様に観えた。学生時代から男も女も相手をとっかえひっかえ、就職できない女子大生の希望する職業の上位にキャバクラ嬢(男にも責任がある)という現状を連想させた。遊んで金になる時代・・・空しい。続いて舞台上で起こったのは暴力シーン。少し忘れてしまったが、みんな死ぬ。現代の人類の行き過ぎた科学への奢りと文化の堕落は、まさしくバベルの塔を作ろうとしている様なものなのではないか?その結果、再び、神の怒りに触れたのだ。ここで掃除婦役だった、時代に流されなかったおばあさんが、モップのようなもので死んでいる役者たちに触れると、倒れた役者たちが生き返る。横になったセットの中に入り、両脇でロボット役の女性と蘇らせたおばあさんが、美しい声で賛美歌の様なものを歌う。すると、各国の人々は、改心し、肩を組み、足を交錯させて、打ち解け合う。そして舞台奥に並んだ六つのセットの中に男女二人ずつ入って、エンディングとなる。ここで、私は悩んだ。この演劇は、現代の人類への警句なのか、神の怒りに触れても(多分同じ過ちを繰り返すだろうが)それでも人類は悔い改める英知があるはずだ、という人間賛歌なのか、グローバリゼーションの在り方のモデルを示したものなのか、それとも他に狙いがあるのか、と。おそらく、人によって解釈は異なるだろう。演劇とは文学と一緒だ。そこのところを考えさせるのが狙いなのかも知れぬ・・・鍛え抜かれた役者達の熱演に圧倒されもした。シナリオも素晴らしかったが、あれだけシンプルなセットで、ほとんどセリフもなく、様々なことを表現している演出家、振り付け師、音楽家、その他の全ての関係者の方々・・・全てに度肝を抜かれた。今まで観てきたセリフの多い日本の演劇は無駄銭だったとも思った。また、映画と演劇では全く別物だと言うことを思い知った。こんなに想像力をかき立てられたことは無い。今でも興奮している・・・ご紹介頂いた坂本龍一教授に心からの感謝をしたい。ありがとうございました。

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バベル BABEL 【WORDS】 の印象  その4

 バベルというこの演劇の副題である、【WORDS】というキーワードについて考えていた。言語という意味だけではなく、その裏には、【(KEY)WORDS】というニュアンスが含まれていたのではないかという気がする。確かに劇中の次のシーンでは、言語と文化の問題に触れる。アメリカ人役の俳優が、「今や、英語が世界共通語なのだ」と豪語したら、様々な国の人々が、様々な国の言語で自分の国の文化を訴える。日本人は英語さえ出来れば世界で通用すると考えがちだ。しかし、私がフランスで地下鉄に乗った際、『EXIT』とは一言も書かれていなかった。単に『SOITE』と書かれてあるだけだった。道に迷った記憶がある。どの国の人々も、自国の文化に誇りを持っている。その根底にあるのが母国語だ。郷には入れば郷に従え。この、当たり前のことを日本人は見失っている。アメリカ人はもっと見失っている。世界で英語を喋る人は全体の10%だそうだ。フランスでは、商売人は英語で話しても応えてくれたが、地下鉄の切符売りのおねえちゃんとケンカになった事がある。余りに腹が立ったので日本語で文句を言ってやったが、悪かったのは私かも知れない。後で友人から聞いたら、フランスでは、「ボンジュール」という挨拶から入るのが、常識だそうだ。台湾を旅行した時には、漢文の筆談も混じった。イスタンブールに行った時には、13ヶ国語を話すトラックの運転手の話を聞いて、驚いた。みんな、互いの文化を尊重し勉強しているのだと教えられた。日本人として恥ずかしかったが、若いうちにそれを知られて良かった。自分が井の中の蛙であることを思い知らされた・・・いろいろと考えが巡るうちに、舞台のセットの配置がまた変わった。今度は例のコンピューターロボットの女性を口説こうとする悪者ぶった男性の役者の出番。横にした直方体のセットをくぐると乱暴に女性を口説き、戻ると誠実な男性になる。これは、ドラッグ中毒とかアルコホリックとの問題だと認識した。コミカルに演じてはいたが、内容は深い。この劇はどこまでテーマが深いんだろうと考えながら、どうやってオチを付けるのかが気になりだした時間帯でもあった。

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