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2015年7月

3000話目のひと区切り

 今回のblogで3000話目となる。歳月にして八年と一ヶ月弱。この間、ずっと、24時間縛りでblogを毎日発信し続けてきた。いろいろな事があったが、これを区切りに、毎日書くのは辞めようと思う。体を壊してまで続けることに疑問を持ったし、そろそろ生き方を変えてもいい頃だとも考えている。書く事自体は好きなので、気が向いたらblogをアップするし、文筆業も止めるわけではない。私の人生の節目が訪れただけのことだ。仮に毎日々々blogを書く事が修行だとするならば、満足はしていないが納得のゆく状態である以上、私は次に進まなければならない。達磨大師だって九年座ったら立ち上がったではないか・・・当初、私は、文章が上手くなりたくてblogを毎日書く事にしたが、やがて続けることに拘泥しだし、いつしか生活の中心軸となっていった。裏返せば、そういうちっぽけな尺度でしか生きてこなかったということである。世の中はもっと広い。様々な生き方がある中で、いつの間にか自分を殺し、人生を決め打ちしてしまっている自分はどうしようもない馬鹿である事に気が付いた。愚直なまでに八年以上、同じ事を続けてきたから観えたのだろう。密度が濃いようで、実は薄っぺらい生き方・・・そんなものはいらない。もう、過去を振り返っている暇は無い。前向きに生きる。焦らずに急ぎ足で・・・きっと達磨大師も立ち上がった時に、足を鍛えることから始めたことだろう。同時に、人形の達磨さんは起き上がりこぶしの様に出来ている。私の心も、折れること無く何度でも立ち上がることだろう。長いトンネルを掘り続けたら、眼も眩む光が差し、目の前は風光明媚・・・さあ、歩き出そうか。

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入院中の思い出話  (お誘い&退院)

 退院前日の朝、斜め向かいのフジさんが、看護師さんに、「三日三晩苦しむって言葉はあるけれど、四日四晩とは言わないもんな。痛みもピークを越えた」と言うので、おかしくて、「おっちゃん、そのガッツがあれば大丈夫」と声を掛けた。私の血液検査の結果は良好。28を超えていた炎症値が0.7まで下がっていた。翌日の退院が確定した。病院社会というものは生き物である。その流れの中で、困っている患者をケアする看護師さんの献身的な姿には感心していた。看護師さんの名前も大分覚えた中、一人々々には個性があり、確かにいやらしさを感じる人もいたが、みんな頑張っている。一週間観察してみて、よく解った。そんな中で、一人だけ気になる看護師の人がいた。何かきっかけはないものか、と考えていたら、その日の晩の夜勤で、運のいいことに私の担当がその人だった。声を掛けて、他の看護師に知られたら、看護師社会の中で、その人もやりにくかろうと、手帳に飲み会の誘い文句を書いて見せることにしてみた。退院前の晩、当たってくだければいい。機会を伺った。深夜なので、他の看護師は少ない。デイルームに行き、チャンスをうかがっていると、その人が、「どうしたんですか?眠れないんですか?」と心配して声を掛けてきてくれた。素早く手帳を見せると、「いいですけれど、私、結婚していますよ」との返事に、自分が間抜けに感じられた。その看護師さんは他言するような人ではない。結局、軽い睡眠導入剤を頂いて、寝に就いた。思い残すことはもう無い・・・退院の日、バタバタしている中、荷物をまとめ始めた。すぐに終わり、忘れ物が無いか二度確認して、入院中に着ていた甚兵衛から、外出着に着替えた。片付けで出てきた残ったティッシュをスエさんに、TVのイヤホンをアサさんに、手紙をカワさんに、ガッツポーズをフジさんに、余ったTVカードをタナさんにあげた。会計の人が伝票を持ってきたので、いよいよ退院である。部屋を出るときに皆に、「お世話になりました」と挨拶し、ナースステーションでも挨拶し、デイルームで母と落ち合って、会計を済ませて無事退院した。若いうちの入院というのも、いろいろと勉強になったな、と思いながら、シャバの空気を味わった。午前中に退院したので、午後からは紹介状を書いて下さった近所の先生の所に菓子折を持って報告に行く。久々の帰宅の印象は、旅から帰ってきたときの様に、家の雰囲気に違和感を感じた。弥吉君とも一週間ぶりだったが、迎えてくれた。しかし、私が思ったのは、外に出なければ男は駄目になる、という感覚。短い入院生活だったが、得たものは大きかった。

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入院中の思い出話  (さらなる観察及び病院社会)

 結局、入院中の平均睡眠時間は四時間だったのだが、何かが吹っ切れた私は、多少、寝不足気味でも動く。点滴の針は全て抜かれ、食事療法になっていたため、自由度が拡がった。前日に引き続き読書にしようかとも考えたが、今まで以上に動き回って、先生と看護師、スタッフ、患者からなる病棟社会をじっくり観察することに決めた。退院まであと二日。同部屋の方とのコミュニケーションは勿論、デイルームに行ったりなどして、流れを観ていた。流れの中に身を置くと気付かされることが多い。いつも風景の一部でしかなかった、身寄りの無いお年寄りや面会人のいない人達がリアルに感じられた。いつしか私はそういう方々の話を聞き、ふれあいを持つようになっていった。いろんな方がいろんな悩みを抱えていることに気付かされる。中には主治医さえ信用できないと言う方もいた。それでも辛抱強く、その人の目線で聞いていると、本音で語ってくれる。私はその人の心のコリをほぐすだけだ。余計なことはしないし、邪魔だと察知したら立ち去る。そんな私の様子を観ていた同部屋のタナさんが、私に話しかけてくれた。私はアルコール性急性膵炎、タナさんは肝硬変。決定的に異なるのは、タナさんはお酒を全然飲まないのに、先天的なもので肝硬変になったそうだ。何だか矛盾している中、タナさんは私にお酒を控えるようにやさしく語りかけてくれた。これは効いた。また、同部屋でも、ほとんどの方は早期退院できそうだったが、隣のカワさんだけが、長引きそうだった。毎晩、仕事帰りに母親らしき人がやって来ているのも知っていた。私は退院が近いので、売店に行く振りをして、その方に話しかけた。すると、母親だと思っていたその人は、カワさんの奥さんだった。一階のベンチでカワさんの病名を知った。肝臓がんである。子供の頃に受けた手術での輸血により、C型肝炎にかかり、元気だったものの、三十の後半で肝硬変、現在、肝臓がんになり治療中とのこと。気の毒に思ったのは言うまでもない。カワさんも奥さんも。疲れた顔をしている奥さんを病院出口まで見送り、私と会ったことはカワさんには内緒にしてもらうことにして、病室に戻ると、私はカワさんに掛ける言葉を独りで模索。退院の時に同部屋の他の方に掛ける言葉は、全部、整っていたのだが、がんとなると、難しい。ふと、故親父のがんの時の闘病生活の時に紹介した本を思い出し、手帳にメモった。二度のがんに打ち勝った、碁打ちの故藤沢秀行名誉棋聖の本である。宜しければ読んで下さいと書き、退院の時に手渡すことに決めた。時計は深夜の零時近く。短いblogを書いて寝た。翌日の血液検査の結果が良ければ、二日後には退院である。

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入院中の思い出話  (ブレイクスルー)

 四時間ほどで目が覚めたが、寝る前に悩んでいたことは妙に払拭され、頭はスッキリしていた。窓からの夜景を眺めながら、ベッドの上であぐらをかいて座る。焦っても仕方が無いな、と思いながら、静寂の中、心の中で般若心経を唱え、座禅。一段落して、馬鹿馬鹿しく感じながらもスマホでblogを更新。朝を迎える。俺のような者でも、何か生き方はないものか?と、司馬遼太郎氏の『播磨灘物語』を手に取る。読んでいるうちに没頭。運がいいことに、天は私に必要なときに必要な本を与えてくれた。欲の無い黒田家の人々が、ちょっとしたことがきっかけで、運が開ける所、参考になった。その日一日、読んでいたが、次々と閃きの種が芽吹いた。手帳にメモりながら、自分が卑屈になる必要など無いどころか、人生で回り道をした分、これから先の人生が楽しみになり、前向きな気持ちが芽生えた。その為に退院後にどういう生活するかということや、blogを毎日更新することの馬鹿馬鹿しさに気が付いた。もはや何かに拘泥する時機では無く、外の世界に飛び出すのに、ぎりぎりのタイミングだということも見えた。幸い、もう少しでblogも3000話目を迎える。私の手かせ足かせとなっているblogは、それをきっかけに、毎日ではなく、気が向いたら書こう、と決めた。とにかく外に出て世の流れを観察しなければ、何も始まらない。早く退院したいという願望が強くなっていった。血液検査の結果はどんどん良くなっている。退院が待ち遠しいな、と思いながら、その日は就寝した。私の胸の中で何かが吹っ切れ始めた。

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入院中の思い出話  (体温が30分で8分下がる日)

 収まりが付かない気持ちの中、「母にはもう帰っていいよ」と言ったが、病室まで母はついてきた。二人とも黙っていたが、ボソッと母が、「あの人もあんたに良かれと思って言ってくれたことなんだからね」と呟く。私は大分落ち着いていたが、「それは解る・・・でも、何だか心の傷に土足で踏み込まれたようで、無性に悔しかった。あの人に対してなのか自分に対してなのかは微妙な所だけれど・・・」と言い、溜息をついた。母はそれ以上何も言わない。と、午後の検温と血圧測定が始まったので、私は体温を測った。朝に計ったら平熱だったのに、何と、体温計は37.5度をマークしていた。こりゃまずいと思って、自分の番が来る前に、水を飲み、深呼吸をして横になって計り直したら、37.2度に落ちた。それでも、まずい。と思って自分の番を迎えたら、新人看護師で明るいタケチャンが担当の日だったので、少し待ってもらった。その間に点滴の管に逆流した血を流してもらった。そして、血圧を測ると、最大141と普段より20以上高い。そしてようやく熱を測ると、36.9度まで下がった。「栄養相談でちょっともめてね」と申し訳なさそうに話すと、タケちゃんは明るく、「こんな日もありますよね」と言ってくれたので助かった。タケちゃんが去った後もしばらくして熱を測ったら、36.7度まで落ちた。これには私もびっくりした。30分で体温が0.8度も落ちたのだ。どうやら、人間、本当に興奮すると血がたぎり、発熱するものらしい。お袋も落ち着いた私を観て帰ったので、カーテンを閉めて、独りで窓の外を眺めていた。すると、しばらくして、さっきの栄養士の人が私に「勉強になりました」と謝りに来たので、私も頭を下げて謝った。その後も、タケちゃんや主治医が来た時に、私はワビを入れたが、何だか空しかった。考えても仕方が無いと思い、TVを点けてみたが、面白くないのですぐに消した。いろいろ考えてその日を終えたが、考えても解らない。一つだけ解っていたことは、私は自分に腹が立っているのだということだけだった。埒が明かないときには、眠るに限ると思い、その日は翌日の朝方にblogを書くことにして、消灯時間前に寝た。起きたら何かが変わることを望みながら。

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入院中の思い出話  (屈辱の壁)

 その日も睡眠不足で、朝の散歩に行くと12時間ぶりの一服は体がクラクラした。雨がしとしと。既に私は売店で散歩用のビニール傘を購入している。そうだ、今日は栄養相談だったな、と思いだし、午後の一時前には母と私と、栄養相談を受けるべく別棟の一階の椅子に座って待っていた。間もなく栄養相談が始まったが、いきなり体重と体脂肪率を計られた。肥満気味だと言われ、食事の説明について話が進むのだが、私は酒を止めたら痩せることぐらいは解っていたので、退院後のお酒とのつきあい方を考えている旨を伝え、黙って聴いていた。すると、食事のカロリーがどうのこうの、油は採るな、工夫しろと解りきっていることを話し出したので段々私は腹が立ってきた。聞いているとカネがかかる話ばかりなのだ。母は黙って聴いていたが、私はついに逆に質問しだした。「失礼ですが、ご自分で食材は購入してらっしゃいますか?」「はい」「だったら、ここの所の食材の半端じゃあ無い値上がりもご存じですよね」「はい」「うちは、週に一度、激安スーパーで買いだめをして、安く抑えることに必死なんです。それにうちの母だって、食物科を出ているんだから、先生の仰ることは解ります」「・・・」「肥満気味と仰られていましたが、私が二十歳の頃は57Kg しかなかったんです。二十歳の頃にクスリを飲み出して、太りだしたんです。母だって若い頃は痩せていた。でも、クスリを飲み出して太ったんです」「確かにそういう薬を飲むと太る傾向がありますね」と言われた頃には、私は頭に血が上りだしていた。栄養指導をするのが仕事なのは解るが、人にはいろんな事情があり、好きでそうなったのでは無い事を無視して、心の傷に土足で踏み込まれている気がしたからだ。続けて私は、「あなたはこれまでの人生で何か捨てたものはありますか?」と聞いた。「?」と沈黙。「私は二十歳でクスリを飲み出した時点で、結婚を捨てました」「・・・」「病気と闘いながら、大学院まで行きましたが、心の傷が癒えないままに、大学に退学届を出して、大学も捨てました」「・・・」「七年前に親父は死にました。八年間のがんとの闘病生活の後にです。その後は、私一人で母を支えてきたようなものです」「・・・」「貴女にはお子さんはいますか?」「います」「・・・そうですか。あなたは一人になるのは恐くありませんか?」「恐いです」「誰も好きで独りぼっちになる人なんていませんよ」と言った所で、「お袋だって食物科出ているんだからカロリー計算ぐらい余裕で出来ます。問題は、人には様々な事情があるということです。誰も好きで不摂生する人なんかいない。そこのところがあなたには解りませんか?」とまで言った所で、私の眼からは涙がこぼれていた・・・栄養相談が終わり、私は、お袋と散歩に行った。ぐちゃぐちゃな気持ちの中、雨に打たれながら、自分を落ち着かせるべく、病院の壁をにらみ続けながら、タバコを四本吸った。点滴の管を観ると、血が逆流している。お袋は黙っていたが、私はその壁を、『屈辱の壁』と名付けた。

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入院中の思い出話  (入院してまでblog?)

 三日目の晩は寝付きも良く、爆睡するはずだったが、四時半には目が覚めてしまった。トイレに行くためにである。尿がどれぐらい出たかと時間をメモしなければならないのだ。四日目、外は白み出し、窓際の私は自然と目が覚めてしまう。それでも、一階の入り口近くの新聞の自販機で朝日を久々に買ってみて、怪訝な気持ちで読んだ。しかし、将棋欄を見ているうちに、家の新聞を日経から朝日に変えようと決めた。その日の血液検査で、順調に数値が回復しているとのことで、順調ならば一週間での退院が打診された。嬉しかったが、入院生活をエンジョイし始めたばかりなので、もっと、吸収しようと考え出した。全員の名前と顔を覚え、面会時間に来た母に、用件だけを伝え、寝不足だからと言って、早めに返ってもらった。しかし、寝付けないので本を読んでいると、向かいのアサさんのカミさんがうるさく、集中できなかった。アサさんは、カミさんが来るのを嫌がっている様子で、「来なくていい」と言っていた。お互いカーテン越しだが・・・そしてその隣のフジさんは、夕方から手術の様子。ぼんやりラジオを聞きながら横になっていると、いつのまにか看護師のフカさんに起こされていた。三時間ほど寝たので、やっと頭がスッキリした。夕飯を食べ、散歩に行くと、私は本を夢中で読み出した。消灯になっても読みたかったが、スマホblogに時間が掛かるので、ランプを点けて打っていた。その日も十二時就寝だったが、三時間しか眠れなかった。私は、何かの矛盾を感じ始めていた。毎日blogを八年以上続けたストレスで入院した様なものなのに、何で入院してまで無理しなければならないんだ、と。

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入院中の思い出話  (久々の食事と人間観察)

 三日目の昼から、食事が出るようになった。点滴の針が一本外れ、食べ物のありがたみが身にしみる。点滴も一日三回に減った。同時に、栄養士の方との面談の予約を依頼されたので、二日後の面会時間前の午後一時で予約を取った。母も同伴せねばならないからだ。この頃には入院生活にも慣れ始め、朝六時起床後、採血が二日に一回、七時から食事、朝の看護師の検温と血圧測定と様子伺いのワンセット、主治医の朝の回診、十時頃ゴミ掃除、十二時昼食、二時から面会、昼の看護師のワンセット、夕方の主治医の回診、六時半夕飯、看護師のワンセット、九時消灯といった具合だった。その合間に時々、外を散歩(タバコ)する、といった具合。ちょくちょく病室や患者、看護師、スタッフさん、医者、見舞いの方などの観察をするようになってきた。本なども読んでいたが、環境観察や人間観察の方が面白かった。入院三日目だが、移った部屋は初日なので、観察していた。すると、一階の売店に行った帰りのエレベーターでおじいさんから話しかけられた。同部屋のタナさんだった。すぐに気が合って、仲良くなった。看護師さんの名前もできるだけ覚えるようにしたし、誰がどんな人で、ナースステーションという女性多数の世界も観察していた。三日目の夕刻、隣のベッドのカワさんに見舞いに来て、面会終了時間ぎりぎりまでいる女の人がいた。カワさんは声だけ聞くと若い。ただ、自分で用を足せないらしく、看護師さんに助けてもらっていた。同部屋では、この二人をまず覚えた。私とカワさんと後に知るスエさん三人以外はタナさん含めてじさまだった。一生懸命観察していたが、逆に、私も観察されていることに、私はまだ気が付いていない。消灯時間以降はblogのことしか頭に無かったのだ。スマホで打つのは異常に面倒なことが、ユウウツだった。十二時過ぎに更新し、爆睡するはずだった。やっと静寂を手に入れたのだから。

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入院中の思い出話  (27号室)

 入院二日目の昼は、静かだった。私の点滴は断食中なので左腕の二本の針を通して、一日にのべ7回交換。寝不足で頭が働かない中、夜となる。すると、隣のじさまが、また騒ぎ出した。絶対安静なのに、起き上がろうとして看護師さんを困らせる。しまいには雄叫びを深夜零時まで挙げ続ける。そのじさまは、看護師達に、ベルトでガチガチに固定されて、叫びまくり、終いには、「死ぬ~、死ぬ~」と我が儘放題。すると向かいのベッドのじさままで、「おかあちゃん」と叫び出す始末。結局、隣のじさまは睡眠薬を飲まされていた。私はよっぽど何か言ってやろうかと思ったのだが、辛抱。blogを更新して寝たのは、夜中の一時半のことだった。また、そのじさま、寝ても鼾が凄く、どこまでもうるさい。結局、その日も三時間睡眠。断食をしているので余り眠れなかった。ひどい部屋に入ったものだ、と思っていたら、看護師さんが再び私に、「他の部屋に空きが出たので移りませんか」と打診された。三回ほど打診されたが、私は、「次にここに来る方が可哀想でしょう」とか、「私も決してきれいな人間ではありませんから」などと言って、断った。すると、四度目は、三人の看護師さんがやってきて、部屋の移動を頼まれたので、仕方なく了承。新しい部屋の窓際に移動することになった。後で知ったことだが、この27号室、ちゃんと意味があったのだ。手に負えない患者ばかりを扱うための部屋なのだ。だから、ベッドに固定バンドが備え付けられていたのだ。何故私がこの部屋に入れられたのかは、後でお袋に聞いた話だが、アルコール性急性膵炎で入ったために、私にアルコールの禁断症状が出ないか様子を観ていたらしい。お酒は好きだけど、別にアル中って訳じゃあないのになあ、と馬鹿馬鹿しくなった。私はいくら飲んでも、決して酔うことは無かった。まあいい。新しい部屋は静かで快適だった。最初に入った27号室には、ちゃんと意味があったのだ。問題患者ばかりを扱う部屋だったのだ。病棟にはそういう部屋も確かに必要なのである。別にプライドが傷つくことも無かった。むしろ、それをきっかけに、看護師さんたちの私への対応が柔らかくなった。三日目には膵臓の炎症値も半分ぐらいまで下がり、主治医から、「順調に行けば、一週間位で退院できるでしょう」と言われ、安心した。この先生は感じのいい先生で、粋でもあった。ここから、私の入院生活は好転しだすのだ。

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入院中の思い出話  (入院初日)

 私が病室でベッドに仰向けになり、天井を見つめていると、他にも二人、入院してきた患者がベッドで運ばれてやってきた。いい歳をしたじさまばかりだ。間もなくお袋が家から戻ってきて、入院セットを持ってきてくれた。暗い感じの部屋。私が考え事をしていると、横のじさまが喚きだした。こんなものかなと、思いながら、私はのんびりTVを観る。食事は無く、点滴のみ。最初は断食療法なのだが、全然辛くは無かった。初日の晩、隣のじさまが、うるさい。しかし、こんなものだろうと消灯時間を過ぎてから、スマホでblogを書き始めた。手間が掛かる上に、以上に面倒くさい。その上、隣のじさまの所に、しょっちゅう看護師がやって来る。別段、イライラもせずに、深夜十二時頃就寝。その日は枕が異なるせいか、3時間しか寝れなかった。隣ののじさまは、大鼾で寝ている。まだ外が暗い頃に外にタバコを吸いに行こうとしたら、病院の入り口の警備員さんに、五時からしかでられないことを知り、仕方なく、前の日に買っておいた雑誌や、自販機で買った新聞に眼を通しているうちに朝になった。七時過ぎ、外に出てタバコを吸うと、頭がクラクラした。朝食と朝の採血とそれに基づく主治医の話と、朝の検診とが終わったら、私は再び外に散歩(タバコを吸うこと)に出かけた。病院という所は、夜中と朝が一番バタバタしている。点滴を取り替えてもらい、しばらくすると、腰の下にあったベルトが外され(巻かれてはいない)、他の部屋の空きがあるので部屋を移らないかと打診されたが断った。何でこんなものがあるんだろうな?と思っていたが、その理由は、その日の晩、知ることになる。

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早く寝ねば

退院の日。訳あって早く寝ねば。

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入院中の話の中断

明日、退院することが決まった。バタバタするので、続きは、帰宅してからにしたい。

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入院中 (休めってことか?)

入院が決まると、母は荷物を取りに自宅に向かい、私は心電図の検査とレントゲン撮影の後に、病室に向かった。8階の東病棟だ。ナースステーションで挨拶すると、827号室に、通された。暗い部屋だ。その部屋の一番通路側のベッドに、母が置いていった新しい仁兵衛を着て根っころがった。 蒸し暑い。何故か、そのベッドには、腰のところにベルトが付いていた。間もなく、看護師さんが入ってきて、利き腕でない左の腕にベテランのシブさんが点滴用の針を二本刺してくれた。あまりの見事さに、この人、針師やっても食っていける、と思った。同時に、点滴が打ち込まれ、お礼を言うと、独りになったので、仰向けになって寝っ転がり、ジッと天井を見上げた。なにか、久しぶりの不思議な解放感に浸っていた。神が俺に与えたもうた時間だと思ったが、それは、大きな間違いだった。

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入院中 (即入院)

総合病院の新患受付で書類を作ってもらっている最中に、新患の受付終了のアナウンスが鳴った。私と母は顔を見合わせた。時計を見ると午前11時きっかり。12時迄だと勘違いしていた私達は、実はギリギリセーフで、その日、一番最後の新患だったのだ。書類を受け取り、内科に提出すると、間もなく呼ばれ、主治医となる先生に私は症状を話した。私より若い印象。血液検査をし、CTを撮ること一時間半。この間お袋は買い物。内科で待ち合わせ、待っている間も私は気楽だった。帰ったら、買い出しにでも行こう、と話したら、母は、私の古くなった甚兵衛の事を思い出し、デパートで安売りしていた最後の二着を買ってきたと言う。縁起でもねえと思ったが、黙っていた。私の番号が表示され、診察室の前の中待ち合いで待っていると、看護師さんが出てきて、まだ、血液検査の段階だけれど、と断って入院の話の準備話
をしだした。おふくろを呼んだら、と言うので、余計な心配をかけたくない旨、伝えると、看護師さんは、引っ込んだ。CTの画像待ちらしく、独りになる時間に、まず頭をよぎったのが、このblogのこと。次に考えたのが最悪のケース。どちらも、なるようにしかならない事なので、覚悟だけは決めた。間もなく、診察室に呼ばれ、主治医から、CTの画像で、急性膵炎との診断を受けた。入院期間は、一、二週間。点滴で断食をし、数値が良くなったら徐々に食事療法にしてゆくというものだった。私は、少し考え、blogの話をし、病室にパソコンを使える環境はあるかどうかという事、それが駄目ならばスマホはいいんですか?と質問。ネット環境はないが、スマホは大丈夫との事であった。そして、膵炎は最悪の場合、死ぬ確率が高い病である説明を聞き、私は初めて、母を呼んできていいですか?と聞いたら、勿論、との事で私の入院が決まった。

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入院中 (死んだ振りをする蟻)

予想通り、帰宅した母は、先生が、説明してくれたことを話し、入院の可能性も指摘された、と話した。それでも、私は、気楽に考えて翌日にしようと思っていた。しかし、紹介状の先生は当日のもの。私は、強いメッセージ性を感じた。そして、紹介状を書いてくださった先生本人が、かつて、水頭症になった際、速攻で開頭手術を受けて助かった事、また、先生の患者さんで、近所の方の息子さんは、皮肉にも同じ水頭症でも手術以外の対処療法を選んだが為に亡くなった事を、私は思い出していた。この先生は、私の事を本気で心配してくれている、と感じた私は、迷わず行動に出た。このblogの心配はしつつも、なんとかなるだろう、とスマホの充電器を持って、総合病院に向かった。入院の可能性もあるので、母も付いて来ることになった。バス停でベンチを観ていたら、蟻が数匹歩いていたが、私の気配を感じたら、動かなくなって、死んだ振りをしていた。この発見には驚いたが、まだ私は気楽。日差しの強い日の事だった。

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入院中 (非尋常値)

受話器を取ると、前日に、診察を受けた、先生からだった。内容は血液検査の結果についてで、急いでいる様子。胃も、十二指腸も、肝臓も、悪くはないのだが、炎症反応の数値が通常0.3位の所、私は28をマークしており、前代未聞の状態なので、膵炎が疑われるので、朝一番に電話をくださったのだ。すぐに紹介状を書くから、来なさい 、とおっしゃて下さったのだが、その日には、母が先生の所に副鼻腔炎で一番乗りしていたので、母に説明し、紹介状を渡して頂く事となり、礼を言い電話を切った。実は、この電話がいのちの電話であったことに私が気づくまで、もう、数日掛かる。私はその日に行く気はなかったし、以前、診ていただいた先生が丁度、翌日の予定だと聞いていたので、それでお願いしたし、以前、総合病院で膵臓の血液検査も、CTも検査で、異常が無かったこと、何より、自分の体調が快方に向かい出していたので、気楽に母を待っていた。きっと、血相変えて帰って来るに違いない、と。

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入院中 (気が付くと)

気が付くと、寝汗の中、イビキに囲まれ、左腕には、針が二本。そうだ、俺は昨日から入院中だったのだ。病名は急性膵炎。手術も何もなく、点滴だけの断食療法。 別に、辛くはないが、蒸し暑さがコタえる。順調にゆけば、一週間から二週間で退院予定。しかし、この入院、退屈。しかも、いきなりだった。既に腹部の痛みが消えた昨日、副鼻腔炎で病院に行った母と買い出しに行くべく、弥吉君と自宅待機していたら、家の電話が鳴った。何だろう?、とその電話を取った所から、全ては始まった。

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