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井の中の蛙

 高校一年の時の現国の先生が、「選ぶという事は、捨てるという事なのです」と言った。私は、『そうなのかもしれないな』と思った記憶がある。歳をとるにつれて、選択と決断の連続が続き、今に至っている気がする。生活というものを考えると、自然と物事は専門化して行く。これが天職ならば良いが、嫌で、もっと幅広く学びたいと思うと、何かを捨てなければならない。大学に入る前から、私は悩みの塊だった。入ってからも一緒。みんな自分の殻を固く閉じていた。女がらみで本能が理性に勝る事を知り、病的に悩んだ私は、神経が参ってしまい、大学二年の頃から精神安定剤を飲むようになった(後に医学部出身の友人の奥さんに聞いたら、内科では胃薬に使うと聞き、ズッこけてしまった)。転機が訪れたのは、大学三年の終わりの春休み、話せそうな友人と飲んで、全ての悩みを打ち明けた。徹夜で語り明かしたが、朝方、黙って聞いてくれていた友人が、「お前が正しい。周りが間違っている」と断じ、二冊の本を貸してくれた。そのうちの一冊(タオ自然学という本)が、私の価値観を180度肯定させてくれた。全てはそこから始まった。彼の部屋は家の離れにあったので、次第に一人増え、二人増え、という感じで、本音で話せる友人が増えていった。その友人達とは今でも集まる面子である。卒論も必死で書いたが、本の素晴らしさに気付いた私は、通学電車や実験の合間に片っ端から本を読むようになった。院に入ったのは、考える時間が欲しかったからである。学会発表をしてみて、重箱の隅をつつくような研究が嫌になった私は、その道で就職して食っていくのがどうしても嫌だった。幅広い学問がしたくなり、大学院の二年に上がった四月に退学届を出して、その時は、安易に物書きにでもなろうかと思い、旅に出た。が、そこで思い知ったのは、自分が井の中の蛙であること、つまり、自分の世界の狭さだった。物書きを軸に幅広く学問するには、のたれ死にを覚悟せねばならぬと思い知った。

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