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2014年5月

ゴルゴ13のキャラ立ちとタブー

 ゴルゴ13(デューク東郷)は高額な報酬を受け取って、暗殺などの依頼を引き受けるプロのスナイパー(狙撃手)である。一匹狼で謎に包まれている。最初の頃のゴルゴ13は、やたらめったらよく喋っているのに対し、巻を増すごとに言葉数が減り、最後には『・・・・』がやたらと多くなる。著者のさいとうたかをは、前回挙げた、背後に人を立たせない習性の他に、握手をしないという習性を新しい読者にどう説明するかで依頼者を利用する。また、ゴルゴ13が通称である事も・・・つまり、依頼者に全て話させるのである。余計な話は、「・・・・」で、ゴルゴは必要最小限にしか話さない。具体的には、ゴルゴが新聞の広告欄などで依頼がある事を知ると、依頼者を人気の無い場所に呼び出す。依頼者はそこにやってくるが、最初はゴルゴが見当たらない。ゴルゴは安全を確認して壁などを背に現れる。依頼者が驚き、思わず「ゴル・・・」と言いかけるが、大慌てで、「Mr.デューク東郷」と言い直し(ゴルゴ13は通称だから)、右手を突き出すのだが、また慌てて、「おっと、あなたには握手という習慣が無いのでしたな」と言わす。するとゴルゴが「要件を聞こう」とだけ言い、依頼人が事情を話す。その間、ゴルゴはずっと「・・・・」で、「(スイス銀行のゴルゴの口座に)入金を確認次第、行動に移る」と、これで依頼は成功である。このパターンが何度かあった。また、もっとダイレクトに、ゴルゴが握手をしないことをゴルゴ自身に、「俺は、利き腕を人に預けるほどの自信家ではない」と言わせたこともあった・・・ここで疑問に思うのは、上の二つの制約だけで、ゴルゴの生活は成り立たないはずである。だから、ゴルゴが食事をしているシーンなどを想像することはタブーなのだ。女を抱く時でさえ、騎乗位ばかりである(背後を取られないためにだろう)。

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ゴルゴ13の名前の由来

 ゴルゴ13が今も続いているのかは知らないが、100巻前後までは、昔結構読んだ。デューク東郷ことゴルゴ13の名前の由来があまりにもマヌケな設定で始まっているのを、みなさんはご存じだろうか?第1巻の初っぱなで、(確か)マルセイユあたりの娼館で、ゴルゴ13は女を買い、部屋で葉巻を吹かしているシーンから始まる。娼婦が後から抱きつこうとしたら、思わず反射的に手刀で叩いてしまう(ゴルゴ13は背後に回られると必然的に攻撃してしまうからだ)。娼婦が騒ぐと、用心棒が数人入ってきて、取り押さえられ、(今のゴルゴなら手刀一発で用心棒など倒してしまうはずなのだが・・・)刑務所送りとなる。ゴルゴというネーミングは、デューク東郷の異様な雰囲気が、キリストが磔にされたというゴルゴダの丘を連想させるということから、ゴルゴというネーミングが決まる。13というのは、デューク東郷のムショでの部屋の番号が『1214』で13が抜けている事から来る。これで、デューク東郷は晴れて『ゴルゴ13』と呼ばれるようになるのである。また、この頃のゴルゴ13の顔は常人の顔をしているのだが、巻を重ねるごとに常人離れした顔つきになる。特に、眼が細くなり眼球の黒目の部分がほとんど無くなり、もみあげが強調されるようになって行く・・・故親父の会社のテニス仲間で、ゴルゴ松本なんかよりも、もっとゴルゴ13に似ている人がいたらしい。えらく男前で、みんなからツッ込まれていたそうだ。

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富士川と天竜川を歩いて渡ろうとするならば

 32~33歳にかけて、自宅から京都まで歩いた。一番の難所は箱根、富士川、であった。箱根の下りの旧道で左足の膝をやられた。それでも無理して、歩き続けたら、どんどん悪化。そんな中、田子の浦の温泉ランドの宿泊施設を出ると、初めて雨に降られた富士川を渡る予定だったが、橋がない。地元の方に聞くと、もっと上流とのこと。確かに海に近い所は、新幹線と第一東名(当時、まだ、第二東名はなかった)しかない。西に進むはずが、北に進む事になる。間もなく国道1号線に出たがバイパスになっていて、歩けない。半ばびっこを引き引き、さらに北へと進む。雨はじゃんじゃん強くなる。再び地元の方に聞いたら、まだまだ北だという。いい加減歩き疲れた頃、東海道線の駅を発見。『ああ、ここでは東海道線も北上するのだな』と認識。さらに一駅分歩いて、やっと、歩行者用の橋を発見。写真屋があったので入り、宿を聞くと、一駅分戻る事となった。悔しくて、体は冷え切っており、忸怩たる思い。ちなみに電気のコンセントの周波数が変わるのも富士川が境目だそうだ。それはさておき、日本の道路は歩行者優先かと思ったら、富士川は逆だった。北へ10Km以上歩いたはずだ。しかも、宿の関係で一マス戻る始末。一方、天竜川は、橋に歩道がないのだ。それはそれで命がけの歩行となった。いつもいつも車の旅がほとんどだが、歩きの旅というのも趣のあるものだ。

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ペニシリンはカビから造るんじゃあ、食うても大丈夫

 母の実家である瀬戸の家では、新正月よりも旧正月に多くの餅をついていたそうだ。母が小学校低学年の頃まで、一日がかりで杵と臼で餅をついていたらしいのだが、何しろ大量に作るので、杵は長く出来ており、てこの原理を利用して、故祖父が足でついていたらしい。鏡餅は直径25cm位のものが下段で上段は15cm位、上に鏡餅飾りをし、だいだいを乗せる。そして、神棚に向かって細長い板を床に置き、鏡餅中心に、『~の神様』という風に段々と小さい二段餅を線対称に並べていたそうだ。勿論、朝食用の餅も大量に作る。そちらは高さ1m位ある大瓶に入れて水を張り、保存したそうだ。しかし、いくら水を張っていても、最後の方はどうしてもカビが生えるらしく、母が食べるのを嫌がると、故祖父が、「ペニシリンはカビからつくるんじゃあ、食うても大丈夫」と言って、みんなに食べさせたそうだ。故祖父は、新しい物好きなので、まもなく、業務用の餅つき器を購入したらしいが、作る餅の量は変わらない。そんな中、故祖父は、餅の新たな食べ方として、バターを塗って食べる方法を発見した。私は当たり前のようにその食べ方をしていたが、故祖父の発見だという事は、しばらくしてから知った。故祖母は、唐揚げなどの揚げ物の時に、ビニール袋に小麦粉を入れて、まんべんなく肉などに粉がつく方法を早くから発見した(今ではみんな知っているが)。故曾祖父は、ふかしたさつま芋をお椀に入れ、牛乳と砂糖を入れる食べ方を思いついた。食べ物だけではなく、何事も、工夫するというのは面白い。なんだか餅が食べたくなってきた。

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あの卓何かに取り憑かれているんじゃあねえのか? その2

 時計が午前二時を回った頃、『短気』が久々に三ファンの役を上がった。『短気』は得点計算できないので、代わりに『肉のみ』が得点を言う。私は、『あれ?』と思った。点数がおかしいのである。でも、黙っていた。知らない『短気』が悪いのである。『チビ眼鏡』も黙っていた。みんなが適当に上がる中、『短気』が上がった時に『肉のみ』がまたやった。私は、ワザとやっているな、と確信した。『短気』は気付かない。気付いたのは、それから数局後だった。『短気』が眠気の中、猛然と『肉のみ』に文句を言った。『肉のみ』は必死にごまかす。『短気』は得点計算が出来ないので強くは言えない。『短気』は怒り心頭となった。私と『チビ眼鏡』はここがチャンスとばかりに、『短気』を狙い撃ちした。勿論、『肉のみ』も。どんな博打でも、頭に血が上るとやられる。『短気』は、まるっきり上がれなくなり、代わりに点棒がどんどん減っていった。それで余計に怒るから、他の三人の思うツボである。結局、朝の六時までやって、『短気』は+30P位までに落ち込み、『肉のみ』は大分、盛り返した。そこで終了。短気は怒って帰って行った・・・『肉のみ』もスッカラカンになったが、借金をしなくて済んだ。苦し紛れにやったのだろうが、『肉のみ』のやった事は、友情にはヒビが入るかも知れないけれど、博打である以上、スキのあった『短気』が悪いのである。悔しがるのは、帰り道でいいのだ。それまでは冷静でいなければならない。

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あの卓何かに取り憑かれているんじゃあねえのか? その1

 大学二年の時のクラスは、機械工学科という事もあり、男ばかりだった。それはそれで、いろんなジャンルの友達ができた。今回は、その中でも麻雀友達の話を書く。月に一度ぐらいは学生街の雀荘で徹マンを打っていたのだが、一度、凄い夜があった。私以外の面子は、皆、一年の時に同じクラスだったようだが、大学デビュー。一方、私は、小学校の五年生の時に父に仕込まれた。ただ、私はあまり麻雀が好きではないため、付き合い程度にしか打ってこなかったので、それ程強くはない。勝ち越してはいるが・・・その晩は、一番ヘボな『短気』君が、いきなり、親でダブル役満を上がった。みんな唖然として、私もかなりヘコんだ。『肉のみ』君と『チビ眼鏡』君は、『短気』をカモにしようとしていたので誤算だった様子。こういう時は、ミスを待つか、押し切られるかのどちらかである。私は『短気』が初心者なので、転機を待った。日付を過ぎた頃、『短気』にいい手が来ているのに、上がれない状態が続いた。一番やり込んでいる『肉のみ』が仕掛けたが、空振り。数局後、私に目の覚める配牌が入った。結果、大三元を上がる事が出来、一安心していると、なんと、次の半荘で、『チビ眼鏡』も大三元を上がった。一晩に役満が三回も出る事など、まずない。他の卓から、「あの卓、何かに取り憑かれているんじゃあねえのか」という声が聞こえた。これで焦ったのは、一人だけ大きくヘコんでいる『肉のみ』である。彼は非常手段に出た。 (つづく)

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とんだトラブル

 今日、5月25日(日)は、こないだも書いた、我が家の弥吉君の満六歳の誕生日である。毎年この日には、予め買っておいた牛肉の缶詰がご飯になる日でもある。いわば誕生日プレゼントだ(普段から、おすそわけで、弥吉君は肉の味を知っているのだが、専用の缶詰というのは、お誕生日だけである)。早いものだなと思う。と同時に、あとどれくらい一緒にいられるかという事も脳裏をよぎる、複雑な年齢でもある。幸い、まだ、眼に力がある。先代の弥七君に比べ、よく寝る。でも、思い出が少ないなあと感じるのは私が歳を取ったからであろうか。缶詰をあげたら、小躍りして喜ぶだろうな・・・などと考えていたら、電話が鳴った。お袋が取ると、弟からで、通勤に使うために、知り合いから六万円で買ったという250ccのバイクのタイヤがバーストして、バイク屋で修理してもらったというのだ。「怪我はなかったのか聞いてみて」と、私が母に言うと、会社に着いた途端に、前輪だか後輪だか解らないが、バーストしたという。怪我はないとの事。胸をなで下ろしたが、そのおんぼろバイクを観た時から、タイヤとオイルの事は弟に話していたので、嫌な予感が的中した。今日は、弟の中三の長男のリトルリーグの遠征で他県まで行くと言っていたし、負けたら引退らしい。大切な日に何をやっているのやら。お袋は、「安物買いの銭失い」と言っていた。どちらにしろ、マヌケである。

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チーズケーキを食べてみて

 一年弱前、お袋が長年使っていた電子レンジの故障と共に、母にサイズを聞いて、私がAMAZONで検索した商品の中から、やはり母に気に入った物を選んでもらい、注文した。どんな性能の品物が来るかは不明だったが、届いてみると、母は性能にご満悦だった。それから、度々、オーブン機能なども使って、いろんなものをこしらえてくれるようになった・・・今日は甘くないチーズケーキに挑戦。冷やしてから食べると、絶妙な歯触りとチーズの風味、微妙にしか感じない甘さに、二人して舌鼓を打つ。私がベタ褒めしていると、母も嬉しそうだった。とろけるようなチーズに、私は思わず、「これだったら、父さんでも食べられたんじゃあないかなあ」と語りかけた。母も、「うん。もっと早くに気付いてあげれば良かった。あと、あの頃、圧力鍋があったら、いろんな物を作ってあげたんだけれど、忙しくて余裕がなかった」と悔いていた・・・今年は親父の七回忌である。舌がんと食道がんの併発から始まった親父の闘病生活は、八年に及んだ。最低4回の再発と8回の入院。舌がんは完治したのだが、舌への放射線治療で歯はボロボロになり、味覚は、辛い物や熱い物だけではなく、最後には、苦い物も食べられなくなっていた。メロンでさえ駄目だった。食事前、歯にはスプレー麻酔を掛け、黙ってテーブルを叩いている姿は痛々しかった。親父は八年間、一度も『痛い』とか『つらい』と言わなかった。私の記憶にある限り、一度も、溜息さえついた事がない。家族は皆、尊敬していた。没後三年間、私は引きずっていたが、今度は私が母を支える番だと、臨終の時に決めていた。父が黄泉の人となっても、母も私も弟も一切涙を流さなかった。最近では、父との思い出を消そうとしている自分がいるような気がして怖い。母とそんな話をしているうちに、夜になり、弟が仕事から帰ってきた。私と母は話題を切り上げて、三人で夕飯。その後、チーズケーキを食べた弟の一言は、「美味しいんだけど、フォークが見付からなかったから、ケーキをスプーンで食べちまった」だった。これには場が和んだ。

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禁酒はどこまで続くか

 風邪を引いたのと、食欲不振が続いたため、去年の十二月に一週間禁酒をして以来、再び禁酒をしている。今日で丁度、一週間である。禁酒して三、四日経つと、食欲が出てくるから不思議だ。自然と風邪も良くなる。肝機能も復活するので、一石三鳥といったところか。前回は一週間で止めてしまったのだが、今回は、出来るだけ長く続けようと決めている。最高で三ヶ月禁酒した事があるが、私の場合、禁酒中は、たとえ誰かがお酒を飲んでいたとしても気にならない。欲しいとは思うが(現に、このblogを書く前の仮眠の際、缶ビールを口に近づけている夢と共に目覚めた)、無くてはならない物ではないし、冷えたウーロン茶を飲んでいれば充分。ただ、外で誰かと飲む時には、私一人飲まないと場がしらけるので、飲もうかとは思う。禁酒する度に気付くのだが、飲むと睡眠時間が長くなる。本を読んでいても次の日になったら内容を忘れてしまう、喜怒哀楽が激しくなる、時間を無駄遣いする、などの、よろしくない点が浮き彫りになる。これでは人生がもったいない。しかしながら、まるっきりお酒が飲めない人も、人生で損をしている気がする。これは酒吞みの理屈だが。まあ、呑める呑めないにかかわらず、物事には分別が必要だという事であろう。

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弟との生活の傾向と影響

 弟が会社から実家に帰ってくるようになって、約一ヶ月半が過ぎた。その間の傾向と影響を考えてみた。朝の五時に起きて、朝食を採り、身だしなみを整えてから、「行きたくねえ!!」と言って、六時に出勤。バイクで通いだしてから、やたら雨の日が多いので、『雨男なのではないか?』と密かに疑っている。ちなみに母は四時半起きで弁当造り。夜型の時の私は、その母を起こしに向かう。ほとんど徹夜だ。帰宅は、おおよそ七時半頃。シャワーを浴びて着替えたら、食事の時間。必ずTVを観る。最初は嫌だったが、『こいつも疲れて帰ってきているんだし、気分転換がしたいんだろうな』と、黙る事にした。朝は先手を打ってNHKを点ける・・・また、弟は、夜中に腹が減ると、冷蔵庫から食物を物色し、天才的な嗅覚で、好物を発見する。『ゴキブリみたいな奴だな』と考えると面白い。もちろん、好物のスナック菓子のありかは、台所の何処にあるのかも、来てからすぐにチェック。ポトチップス一缶を十五分で食べる強者・・・しかしながら、三食きちりとお袋の飯を食べ、スナック菓子やお袋が作ったケーキなどを間食したため、来てから10Kg体重が増えたらしい。食事の量は、それ程、多くないので、やはり、間食が原因だろう・・・何はともあれ、弟が来てから家が明るくなった。よろしき事である。

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弥吉が殺人犯!?

 うちの室内犬の弥吉君は、もうすぐ満六歳の誕生日だ。幼い頃、気管支炎だったせいか、時々、喉鳴りの様な音を出して呼吸する事がある。とにかく食いしん坊で、ドッグフードだけでは物足りないらしく、人間の食べる物も欲しがる。ミルク系と肉系には特に目がない。ほとんどの物は、平らげる。ネギとチョコレートはやってはいけないので、やらないのだが、そんな時は、「僕にもくれよ~」という眼で訴えかけ、意地でも欲しい事をアピール。しかし、犬でも言葉が解るので、最近は、「ネギが入っているから」と言ったら、諦める。昔から、水桶の水を大量に飲む。甘えん坊で、気が付いたら、座っている時の膝の上に乗っている。気配を消す名人でもある。気が優しいので、怪しい音などがしない限り、吠えない(ただし、寝ている時には、口を閉じて静かに吠える)。犬も夢を観るんだなあ、と知った。毛が多いからか、痒がる様なポイントをいつも持っている。その度に薬を付ける。犬の毛アレルギーで、自らの毛でなっているのではないかと疑う・・・弥吉君の事を書いたら、きりが無いので、今日の表題に書いてある事を説明すると、先日、NHKーBSの時代劇を母が観ていた所、兄が店の後を継ぐのが気に入らない弟が、兄を殺し、乗っ取ろうとしたのだが捕まる、という話だったそうだ。その弟の名前が、他でもない『弥吉』だったらしい。「珍しい事もあるね」と私が言うと、母は、「縁起でもない」と気分が悪そうだった・・・我が家の弥吉君は、現在、私の足下で寝ている。

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間抜けな事を言う英語教師

 中学生の頃か、まだ、パソコンが使えない頃、いろんな会社がワープロを単体で発売し、プリンターではなく感熱紙で印刷していた時代に、親父が会社のワープロを仕事で持って帰る事があった。親父が、「空いている時間は使ってもいいぞ」と言ってくれたので、キーの配置を覚えるためには何を打つのが一番いいかという風に考えた結果、ローマ字だとアルファベット全てを網羅しないので、英語の教科書を写してみた。最初は面倒だったが、すぐに覚えたので、印刷し、ノートに添付。授業の時に持っていった。しかし、感熱紙というものは、爪がこすれても黒くなるので扱いづらかった。授業中、英語の教師が私のノートを見て、「皆さん、私はワープロで試験問題などを作りますが、タイプライターも取ってあります。何故だか解りますか?」とクラス全員に質問してきた。みんなが、「解らねえなあ」という中、その教師は、これ見よがしに、「それは、停電になった時に、いざというときの仕事が出来なくなると困るからです」と勝ち誇ったように自慢。しかし、誰かが、「夜まで掛かる仕事の場合どうするんですか?真っ暗闇でタイプライターを打つんですか?それって、不可能じゃあないですか?」と反論したら、クラス中が大爆笑した。その英語教師は赤面し、黙って授業を先に進めた。その矛盾に気付かないのも間抜けというものである。

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明太子の天ぷら

 30歳の時の山陰・九州への車中泊の旅で、九州は初めてだったので、当然、福岡にも寄った。福岡の繁華街を『天神』と呼ぶのだが、24H・2000円以下で打ち止めの駐車場がある事を聞いていたので、探した挙げ句に見付け、無事駐車・・・車中泊の場合の鉄則は、駐車場が階層式なら面倒でも、必ず屋上に駐めることである。一酸化中毒を恐れてのことだ。他にもあるが、また書く・・・さて、街を観察しながら、土地勘を身につけていると、あのご高名な『中州』があった。本当に二本の川に挟まれていた。天神からJR博多駅方面に歩いていると、オフィス街らしく、決して面白いとは言えない。九州新幹線が走る前だったので、今、どうなっているかは解らないが、人気はあまりなかった。再び中州に戻る途中で、ダイエーを見付けたので入ろうとしたら、ふくやの明太子の店があったので、住所が解った友人に購入。勿論宅急便で送る。翌日の朝食のバナナを買いにダイエーに戻り、ゲットすると、二階に行く階段の所に喫煙所を見付けたので、吸っていると、若い男性社員も吸いに来た。これは丁度いい、と中州にある屋台で好きな店を尋ねると、「う~ん、おばちゃん姉妹が二人でやっている、天ぷらの屋台が好きですね」という返事。礼を言って、中州の公園みたいな所に、それらしき屋台をみつけた。いろんな天ぷらを食べたが、(辛子?)明太子の天ぷらが絶妙・・・昨日はそれを思い出し、昼食に食したところ、周りホクホク、中はちょっと塩が利いたジューシー加減の明太子。パワーをもらった。

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幾分体調回復

 きつい風邪薬を飲んで、一日中寝ていた昨日、何もするパワーが湧かなかった。勿論お酒も飲んでいない。フルーツゼリー二個を食べるのがやっとだった。しばらく禁酒しようかとも考えている。咳ばかりしていたが、現在は納まっている。寝っぱなしだったので、背中の筋の古傷と腰が猛烈に痛くなり、目覚めた様なものだ。今日は幾分体調が優れている様子なのであるので、とりあえず、何か栄養のある物を食したい。朝と昼の寒暖の差が大きい時季、私は風邪を引く。昨日は朝晩と昼で、掛け布団を代えた。水分を多めに採ったら、特に頭部からの汗が止まらなかった為である。昨日に比べて、食欲が出てきたことと、タバコがうまくなった事からも、快方に向かっていることが伺える。油断は出来ないので、今日も無理はせずに、のんびり過ごす。何しろ、まだ、頭が回らないので、書くことが浮かんでこない。こんなにつまらないblogになってしまい申し訳ないが、一応、今年の風邪の傾向報告ということで許して頂きたい。せき、鼻水、気だるさ、といった所であろうか・・・って、毎年、同じような風邪を引いている気がする。

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風邪だあ〜

薄着をして寝たら、風邪を引いたのか体調不良。薬を飲んで寝ている。

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フォアグラのムース

 世界三大珍味と言えば、キャビア、フォアグラ、トリュフである。私は友人の結婚式でフォアグラを食べてみて、感動した。駅前のデパートでは、フォアグラを置いているのだが、なにせ、母が調理法を知らない。コックさんでも苦労して料理するものを、お袋の腕では、こなせないのである。仕方がないので、お袋に、まともに料理してもらわないことにした。味が違いすぎて、もったいない感じがしたからだ。その代わり、同じフォアグラならムース状にしてくれと頼んだ。そうしたら、お袋は本当に作って見せた。お袋に言わせると、「これなら楽勝」と語っていた。私は小さじのスプーンで、貴重に貴重にちょっとづつ頂く。気が付けば二時間かけて食べていた。室内犬にも分けてやったが、彼は、私は最後にしかくれないことを知っている。長時間掛けて食べていたら、根負けしたようである。でも、最後に分けてやったら、大喜び。嬉しそうな顔をしていた。フォアグラも正式に食べる方がいいのだが、素人では調理しかねる。結局、美味しく食べられればいいんだな、と思い知った次第。何しろ、濃い味であった。

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親友からのショートメイル

 寝て起きるとショートメイルが入っていた。

親友:「Katsuに飲みに行ったけれど、あいつだいぶ悩んでいたぞ」

 私:「赤坂出店のことか?借金してまで店出さなくてもいい」

親友:「うん、そうなんだよな」

 私:「誰も責任取ってくれないからな。失敗は二度許されない」

親友:「久々だけどうちに飲みにこねえか?」

 これは最高のおもてなしだと受け止めるも、運動不足。

親友:「運動した方がいいぞ・・・歩くことからだな」

 私:「それは解っている、と言うよりまずは食うことからだな」

親友:「飢え死にだけはするなよ」

 私:「当たり前じゃあねえか。死んでも死に切れねえ」

 この時、親友の『おもてなし』を断った事を悔いた。死んでも行くべきだったのである。

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北へ北へと・・・

 かつて、NHKで、『国家の品格』でご高名なる藤原君が数学者の話をしていた時、天才とは美しい風景の元に育っているんだ、と力説していた。かつて母とケンカした際、起きたら、『二泊ぐらいで五色沼にでも行かない』という置き手紙が置いてあった。早朝に起きた私は、すぐに母を起こし、出陣の支度をした。朝早かった。お袋は東北に行ったことがない。私は、一気に花巻まで行くつもりだった。あまりに疲れたので、今日はホテルでもいいかい?と聞いた。いい、と言うので、PAのコンビニで、宿の雑誌を要求した。そして、二人で話し合って、宿が決まった。独り旅の時にはユースを使うのだが、さすがに親子連れだとユースは使いにくい。ホテルに入ると、仲居さんが挨拶に来た。おひねりを渡して、受け取った瞬間に、私が宮澤賢治記念館の開館時刻を聞いた。そうして朝一番に朝食を採り、速攻で向かった。私は三回目なので、お袋を案内する役に徹した。案の定、朝食をたんまり食べたツアー軍団が私達の後にやって来た。それから車を出した私は、「いい所に連れて行ってあげるよ」と言い、賢治先生の家へと向かった。穴場なのである。お袋も大層気に入ってくれ、花巻って町が、宮澤賢治みたいな人を育てたっていうのが解る気がする、と言っていた。それを聞いた私が一言、詩集は解るのか?と聞いたら、解らないという始末。開いた口がふさがらなかった。

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何で神奈川には、旧帝大がないんだ

 浪人の時、東大の授業にモグッた。ギスギスし過ぎていて、嫌気が差した。本当に嫌だった。それで他の大学を受けた。現在付き合っている友達でも、大学の中では、ピンのピンばかりである。東大にだけは行くなと親から言われた友人も多数知る。だから、東大生の少なくとも三割は間違って合格しちゃった奴等だと解る。あんな試験は楽勝なのだ。ただ、彼等は、自分の事を『神童』だと思っているのが多いのが厄介だ。多分、全国から集まっているのだろうが、私に言わせるとバカが多すぎる。多くは教育ママにしこまれ、挫折もなしにいったのであろう。確かに、中には本当に優秀ないる輩もいる。しかし、ガリ勉しても主席をとれなかった某都知事などはお話にならない。人生には、もっと、もっと、多くの楽しみと苦しみがある。国Ⅰを受けるために、大学生になっても塾に通うバカがいると聞く。大体、あの合格発表での胴上げは何なのだ。うちの大学では、入学式に親が同伴することを禁じていた・・・私は言う。下から見ろと。みんながみんな塾講師をやっているときに、私は肉体労働から始めた。税金も払った。税金を取られて喜んだのは、私だけであろう。成人式なんかより、はるかに大人になった気がした。大人になる道は多種多様であるが、苦しい道を選ぶべきだ。

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年金問題とアベノミクス

 

 年金を70歳以降にしよう、という案が出ている。税金だけが増え、福祉になんかは一銭も使っていないことにないことになる。これは明らかな公約違反だ。その上、年金を納めなければ法律違反になるという法案が、先日通った。それで、さらに、集団的自衛権の法律も先延ばししないという。滅茶苦茶だ。貧乏人は死ね、と言っているようにしか聞こえない。どんな金持ちでも三代で滅ぶ。持ったのは藤原氏ぐらいだ。安倍の子孫が果たして、長続きするだろうか?国防軍を作り、徴兵制を敷くならば、真っ先に自分の子供を入れなけば矛盾する。株価がちょっと上がって、円安になっただけで、みんな喜んでいる。春闘だって軽く収まった。しかし、恐ろしいのはこの先で、本当に貧乏人が泣く社会を作ろうとしている。今の政治家は、どいついもこいつも、お坊ちゃまだから頭にイメージできないのだ。腹が立つ。真剣に腹が立つ。大体、あいつの言っていることがおかしい。輸出企業だけを優遇して、国内の中小企業は潰す。それでアベノミクスと言っているのだからおめでたい。株価も反発しながら落ち、為替も円高傾向にある。大体、己の一存で、一度辞めた首相が復帰するのがおかしい。今朝、日経で集団的自衛権に伴う憲法解釈議論の付いて、先延ばしする気はない、とスポークスマンが言った。『こいつ、どこまでふざけりゃあ気がすむんだ』と考えざるを得なかった。大体、徴兵制より先に、優秀な士官学校を作る方が先だろ、と思った次第である。

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母と弟と仏画

 弟も仕事に追われているせいか、営業の仕事をしだしてから、丸くなった。私は彼がいないと寂しいと思うようになった。口ゲンカをしても彼から折れるようになった。営業をやっているが、苦労しているんだな、と解る・・・このblogを始めてから、もうすぐ七年になる。このblogを初める前に、大学時代の親友の奥さんに頂いた仏画の話題になった。初めて弟がこの仏画を見たとき、中華街で同じ仏画の写真を見たことがあると言っていた。3.11の後、お袋が混乱した際、私は、「この仏画と問答してごらん」と話した。そうしたら、母が、「この仏さん、自分の心を照らし出してくれるね」と言った。私は、『やっと気付いたか』と思い、母はこの仏画によって救われた。それからというもの、母は落ち着きを取り戻し、毎日、お経を唱え、仏画と問答するようになった。母曰く、「この仏さんは、泣いているようにも、笑っているようにも、怒っているようにも、観える」と言うようになった。優れた仏像や仏画というものは、人の心に響くのだ。私も毎日対話している。自分の心を確かめるために。ところが、弟といったら、「この仏画を観ていたら、自分が見下されているように見える」などと言う。私は改めて、『こいつ、相当苦労しているんだな』と思ったが、「それは、お前の心が奢っているからだ」と話した。弟は怒りもせずに、「なんだかなあ、いっつもそう感じるんだ」と言った。すると母が、「この仏さんは自分の心の鏡なんだよ」と言ったが、弟は、譲らなかった。弟には信心が欠けていると思った次第。無神論者なのかも知れない。

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われわれ家族の時間帯

 弟が来てから二度目のもめ事となった。弟とは仲がよいのだが、弟が来てから、二度の拒食症に陥った私は、弟が帰ってくるなり、その事を言った。はっきり言って、私は六日間、ゼリー一つで過ごしてきた。いつ、ぶっ倒れてもおかしくないと思った。餓死することも頭をよぎった。仕方がないのである。弟は昼型、私は半夜型、母は超朝型、となってしまえば、食事がかみ合わないのも事実なのである。起きたてから、トンカツを食べられる四十男がいるであろうか?寝る前にゼリーと味噌汁で過ごせるだろうか?これは無理である。夜中はblogを書いた後、一時間は食べられない・・・これでは拒食症になって当たり前なのだ。自炊したいが、何処に何があるのか解らぬ冷蔵庫だし、炒め物などは、音が出るので作りたくない。そんなこんなで、弟中心のメニューに代えた母と、三人で上手くやって行くにはどうしたらいいのか(途中からは弟も含めて)譲り合いながら、三人で語り合ったのだが、埒が明かない。時には、怒鳴り合う。一番きついのは母なんだ、と言って、なだめながら、私が言ったら、弟が、突然、場の空気を変える。コロッと部屋の空気が丸くなった・・・ああ、やっぱりこいつ、成長しているな、と感じた私は感心した・・・それからは弟の仕事の話などで、盛り上がり、忙しい中、夜遅くまで付き合ってくれた。最後は梅酒のロック、ワンフィンガーで乾杯し、明るい酒で自分の部屋に行って爆睡した。

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井岡弘樹とガッツ石松

 井岡弘樹(以下井岡)といえば、無念の惜敗をした井岡一翔の叔父で、二十年以上前に2階級制覇を成し遂げたボクシングの元世界チャンピオンである。先日の甥の試合でも、セコンドに付いていた(多分今までの試合もそうだったのだろうが、観ていないので、曖昧なことは書けない)。しかし、私の尊敬するボクサーの一人に変わりはない。ボクシングからではなくて、ある事件がきっかけだ。新聞沙汰にもなったのだが、井岡が車を運転していると、いつまで経っても渋滞が止まない。井岡が様子を見に行くと、ケンカしている二人の男がいたそうだ。井岡が仲裁に入ると、殴られたらしいのだが、井岡は決して手を出さなかったそうだ。ボクサーの拳は凶器とみなされるからである。と同時に、井岡は自分より弱い一般人に手を出したくなかったのであろう。当時の私はそのコラムを見て、感激した・・・一方、ガッツ石松(以下ガッツ)も遙か昔、世界チャンピオンを五度も防衛したボクサーだ。ある時、自分の弟分一人が、深夜、近くの公園で七人に囲まれたとき、ダッシュで助けに行ったそうである。そうして、公園に着くと、「俺は世界チャンピオンだ。おまえら七人ぐらい、相手にならない。もう、ケンカは止めろ」と怒鳴ったらしいが、襲いかかられて、本当に、ぶちのめしてしまったそうである。本当に七人相手に勝つガッツも凄いが、しかし、これも、当時、問題になったらしい。いろんな意見が出たらしいが、警告をして、先に手を出していないということから、ライセンスは剥奪されなかった・・・今まで私は、『ガッツ、井岡を見習え』と思ってきたが、確かに七人同時にやりたい放題にされると、選手生命どころか殺される可能性もある。ガッツさんについて考え直さされた。

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井岡一翔、悲願3階級制覇ならず。

 数年ぶりにボクシングを観た。長谷川穂積の全盛期以来である。弟が帰ってきて、「今日、井岡の試合あるんでしょ」と言ったので、一緒に夕飯を食べた後、前座の試合から観ていた。前座と言っても、それも日本人同士よる世界チャンピオンと挑戦者とのタイトルマッチだったが。二人ともタフだったが、パンチがないのでそう見えたのかも知れない。何ラウンド目かにチャンピオンがフックを空振りして、挑戦者の目尻に肘を当てていた。左右のフックで、それをやったので、挑戦者は目尻を切った。また、場数を踏んでいるチャンピオンが、挑戦者の隙をついてKO勝ちした・・・それはともかく、叔父の2階級制覇した元世界チャンピオンの、井岡弘樹の悲願であった3階級制覇を狙った井岡とタイ出身のチャンピオン(名前忘れた)が共に無敗同士で激突した。これまでのタイ人ボクサーとは、全然、パンチのスピードが異なるし、重い。ただ年齢が、チャンピオン34歳、井岡25歳と離れていたので、井岡は、前半様子を見て、ちなみにこのチャンピオン、囚人歴があるそうだ。私は井岡一翔のボクシングは観たことはなかったが、ゴングが鳴って、最初の5Rまでは変則的なボクサーで、井岡はガードを堅めながら様子を見て上下に打ち分けていた。しかし、私が観た限りでは、井岡は直線的に攻め過ぎていた。しかし、相手も歳である。井岡のしぶといボディ攻撃にバテ気味だった。クリンチばかりするようになり、タックルみたいな真似をされ、1P減点された。井岡がラッシュしようとするとクリンチと、つまらない試合になってしまった。「11Rと最終12Rで決まるな」と私が言うと、「チャンス逃したからなあ」と弟。11Rが始まると、「井岡、もっと、手を出せよ」と弟が言う中、「こりゃあ、井岡もバテてんなあ」と私。12Rにも井岡は手が出なかった。試合終了のゴングが鳴って1-2で井岡は判定負け。一人、チャンピオンサイドに11Pも差を付けたジャッジがいて、おかしくも思ったが、他の二人は井岡114-113チャンピオン、もう一人は井岡113-114チャンピオンで、1Rでも僅か1ポイントをひっくり返していれば、という惜敗だった。観ていてスカッとするボクサーになってほしい。まだ若いのだから、諦めないで欲しい。井岡はチャンピオンみたいにクリンチばかりで逃げる卑怯な真似は、しなかった。

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こんな日もあるさ

今日は書けない。こんな日もあるさ。

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仮面の理由

 物事が全て上手く行く人生などない。たとえどんな人生を歩んでも。仏教でいうなら四苦八苦に泣かされる。そんな時、人は悩む。やがて、それを己の日記帳に書き下して、心休める。そうして人生を渡って行く。しかし、そういうことにハマってしまった人間は、やがて物書きとなる。私もそうであった。エンジンが好きで理系の機械科に行ったが、物書きの道を選んで、院の二年の時に大学を辞めた。それから、無職、つまりは金を稼いでいないという辛さと、正面から向き合った。しかし、幸い、私には友達がいた。大学時代の友達は皆、社会不適応者である。今の社会がおかしいのだ。みんな大学でピンを張りながら、サラリーマンにはなって行かなかった、というより、行けなかったのであろう。物書きを選んだ私もそうだ・・・物書きの世界とは恐ろしい。まず、アイデアが浮かばなくても〆切りが絶対であること、これは地獄道だ。大江健三郎が『アレ』という通り、一種のそう状態にならなければペンが走らぬ事、この時、物書き達は自分自体の世界へと浸る。その快感を覚えてしまっては、麻薬みたいに抜け出せないのである。当然、そう状態の反動として、うつ状態が来る。私は、それをごまかすために、馬鹿みたいに酒を飲むか、長時間の眠りによってごまかしている。確かに、書いてる間は興奮する。しかし、その時は、車で言えば毎回レッドゾーンまでアクセルを踏んでいるのと同じ状態なのだ。私は真剣にこのblogと向き合っている。やりがいも感じている。いつ、自分がくたばってもいい覚悟も持っている。こんなにつまらない文章でも、私にとっては、たった一つの誇りなのだ。

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『アレ』を待つのです

 女流作家の故有吉佐和子の本は読んだことはないが、母によると一作書く度に、入院していたそうである。私は入院したことはないが、このblogを真剣に書いている。すると、書いた後、最低一時間は食物が喉を通らない。一種の極度の集中により、そう状態になるのであろう。私の場合は、長時間寝ることによって、うさ晴らしにしている。食事も喉を通らぬから、その前に寝てしまう。ここ四日間も一日にフルーツゼリーを一個食べるのがやっとだった。我ながら、よく生きているな、と思う。起きたらほぼ毎日、ゴミ箱にヘドを吐いている。齢四十一にして死ぬかも知れないのは辛い。散々な親不孝である。しかしながら、私には大恩ある友人がいる。その友人との約束を守りたいのだ。この毎日blogだけが私の生き甲斐なのだ。誰に何を言われても止めることはない。このつとめは楽しい、と思う一方で、こんな読者数も少なく、お金にもならず、読んでもいない友達に、馬鹿にされることは許しがたい。書く前に毎晩泣く。金も地位も名誉も捨てて、真剣に書くからだ。それでも私はやりがいを感じている。昔、小林秀雄や大江健三郎にハマッた頃、私は大学院の二年生に上がったころ、退学届を出した。四年から研究室に入るのだが、院の単位を取って、修士論文のネタも山ほどあったのに、本に惚れたので辞めた。人間関係もあったが、私は実験中、本ばかり読んでいた。通学列車でも。その代わり、目を悪くした。退学届を出す朝、自分の進む道を半年以上案じていた私は、両親に土下座した。その前に、大学院の二年の学費は払わなくてもいいと言い聞かせてあった両親も黙っていた。それ程、誰かの役に立つ物書きになりたかったのである。それから私は大江健三郎のたしか、『私という小説家の作り方』という本を読んだ。すると、海が凪ぎになったり、シケになったりするように、どんなに優れた物書きでも、書けないときがあります。そういう時は、『アレ』を待つのです。と最後の章に書かれてあった。私にはそれが何を指しているか即座に解った。それは、手が脳みそに追いつかないぐらいの、一つのそう状態を指していると。しかしそれをやったら、反動で、恐ろしいほどのうつ状態が待っていることは私でも解った。私は長時間寝るだけで何とか持たせているが、故有吉佐和子は入院してまで作品を書いている。見習う気はないが、物書きとはそこまでしても、食べてゆけるのは一握りなのである。

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ウグイス鳴きの廊下を歩いて

 奈良から京都に行った際、途中の宇治で、宇治金時を食べようと寄った店があった。宇治茶の飲み方を教わった私は、そこで、茶器ごと買った。地元の常連さんに可愛がってもらい、バナナを頂いた。私は話を聞いた後に、場を盛り上げて、京都の二条城に向かっているのですが、近くに駐車場とかありますか?と聞いた。すると、東側にたくさんあるという情報を得た。昼過ぎ頃、二条城に着き、車を停めて、場内を探索した後、あの、ウグイス鳴きの廊下をl歩いて、徳川十五代将軍、徳川慶喜が大政奉還した間を観た。大政奉還のアイディアは坂本龍馬による。しかし、あの当時、いわゆる『武士道』が基本だった時代に、何故、慶喜が大政奉還をしたのだろうかと、悩んだ。裏庭を散歩しているうちに、いろんな説が浮かんだ。そうしているうちに、売店に着いた。私はお茶を買って、「すいませんけど、A4のコピー用紙三枚といらないボールペンを貸して頂けませんか?」と頼んだ。それから三時間私は妄想しながら、必死に大政奉還の時の慶喜公の根性について書いていった。三時間は集中していたと思う。紙が足りなくなり、おばちゃんの所に行くと、「紙でおますか?」と言われ、もう三枚くれた。礼を言って、まとめ上げると、それはかけがえのない私の宝物となった。帰る際、おばちゃんに、ボールペンを返そうとすると、「あんたさんみたいな人、学生さんでも観たことありまへん。そのボールペンならもっておかえりやす」と言われ、「ありがとうございます」と礼を言い、去って行った。そのおばはんの事も気になるのだが、司馬先生の書かれた、『最後の将軍』を読んでも未だに合点が行かぬ。『竜馬が行く』を読んでも合点が行かぬ。私の勉強不足かもしれないが、真実は藪の中である。

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プロの通訳とアマの通訳

 私の大学時代の友人の中に、帰国子女なのだがToeic一回で満点、英検一級という男がいる。彼が言うには、「その国の文化、歴史、世界情勢における利害関係、国民性などを把握していないと、いい訳は出来ない」と聞いた。当然のことである。また、彼に、「一番手っ取り早い英語の身に付け方を教えてくれ」と聞いたら、「外人の彼女をつくることだ」とも語っていた。こんな事はどうでもいいのだが、彼ほどの英語の能力の持ち主は、翻訳するよりも通訳をすることの方が楽に儲けられるそうである。私が、「俺の場合、日本語が浮かんで、それを英訳するんだけど、どうしているんだ?」と聞いたら、彼は「英語で考える」といっていた。ある時、彼が学生時代に、ある中小企業と海外の会社との通訳を任され、言葉巧みに通訳した所、商談が成立して、現金で十万円を稼いだそうだ。学生としては、破格のバイトである。彼は深い下調べなどしていかないが、きっと同時通訳も出来るであろう・・・アマチュアだが。昨日、NHKのプロフェッショナルで70歳でも頑張っているプロの同時通訳の女性の戦う姿を観た。英語の発音もとても綺麗で私でも聞き取れた。邦訳も見事だった。そのために専門用語や世界中のニュースを見て、下準備をしていくそうである。福島に行く際、外国の専門家相手に、『ふるさと』という言葉がキーワードだと見抜き、どう英訳しようか相当悩んでおられた。私だったらどう訳すだろう?と考えてみた。It's our home town which have been livinng from long years ago.We love the home town and still lovein' many peaple like us. と浮かんだ。しかし、これでは長すぎるのである。想いが伝わらない。その方の訳は考え抜いた後の一言だった。確か、The Soma City is long time like our home.と訳していた。かなわないないなあと感じたが、この方は数学は0点ではなかったのだろうではないかという疑惑が私の心に付きまとった。しかし、その疑惑はすぐに打ち消された。あれだけの完璧な同時通訳をしようとしたら、あらゆる勉強をしなければならないのだ。猛省した。

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『連ドラ、花子とアンを観て』

 私には長文読解も出来ないし、英作文も苦手である。しかし、英文和訳は性に合った。尊敬する先生の授業があると、眠い目をこすりこすりで、予習に励んだ。その時の努力のおかげで、三十まで飯が食えた。私は、高一になるまで、まともな英語教育を受けていなかった。高校に入って、訳の解らないまま一学期を過ごした。通知簿では、初の赤点をくらった。ショックであった。くやしくて、夏休みには参考書一冊分の宿題を出され、解らないなりに二日二晩徹夜して持っていった。ハンコは押されたが、無言だった。私はそれを、相当の屈辱と受け止め、チャンスを待った。その頃の私は数学の勉強に夢中だったのである。すると、その英語の先生は冬休みに、どぎつい宿題を出してきた。私は懸命に英文を写し、訳した。問題もといていった。全部でノート三冊。びっしり埋めていった。そのノートにハンコを押してくれていた先生が、初めて、「お前はきっと伸びる。近いうちにだ」とおっしゃって下さった。私は初めて認めれた気がして嬉しかった。現在のNHKの「花子とアン」を観ていると、あの頃、翻訳をするのが楽しかった自分を思い出す。何が楽しみかというと、英語を辞書を読みツブシながら、文法通りに直訳しても、日本語にならないのである。そこのところで、英英辞典を引くために英和辞典などを引くのだが、なにしろ、直訳では通じないのである。そこに私は面白さを見つけた。直訳でなくて、意味を外さず、どのように日本語らしく訳すかということに熱中した。二時間睡眠の日もあった。でもその先生は毎日三時間睡眠で働いていらしゃった。誰も何にも言わなかった。もちろん、付いていけるやつとそうでなかった奴とは、差が開いた。

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「なぜ、貴方達は勉強するですか?」

 前の週に、「何のために大学行くのですか?」と言う師匠に、私だけが、「解りません」と言ってボロクソに言われた。でも、私は死ぬ気で耐えたと同時に、自分なりに悩むようにもなった。自分以外の生徒は、「~になりたいからです」ということを言っていた。自分上のクラスに入らして頂いて、自分だけが子供のように思った。高二になる直前の疑問だった。私は間違っているのかと葛藤。すると次の週、再び親玉の小平先生が登場。一言、「何故、あなたたちは勉強をするのですか?」と言って原稿用紙二枚、来週までに、と去って行った。この時、私が試されているんだ。と感じた。「解りません」も立派な答えだったのと。「~になりたいからです」という連中の作文は大抵筋書きに読みが着いた。「これこれこういう者になりたいから数学を必死で勉強しています」というオチがほとんどうなあ。としか書けないだろうと読んだ。一人だけ反対の道を行った私は、チャンスだ、と思った。まず、『勉強』という言葉の定義が解らなかったので、辞書で引いて移しているうちに、これはおかしいという論点が出てきたので、そこから疑問符を投げかけた。私はこんな理由でこの塾に通っているのでは無い。と書いて、私の高校は高二から私立なので理系と文系に別れる。私は数学が好きなので理系に進む。悔いは無い。しかしながら、文系の生徒ほど国文学を学べるでも無く、ましてや、私の好きな美術などはセンター試験にも入れられてはいない・・・美術ほど(絵画にしろ置物にしろ人を癒やしてくれるものはないと思うのだが)好きなものがセンター試験の科目にも入ってはいない。こんなアホな事はありえません。文部省考え直すべきです。そこで切り上げたかったのだが、それも時代の趨勢、一年の時覚悟して臨みますわ、と書いた後に、僕が大学に行きたいのは、もっと大きな人間になりたいからです。で、締めくくった。

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