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2014年4月

どっちの方が弔いになるんだ?

 私が高校の頃に通っていた数学塾は、私と東大に現役で合格した友人の二人を、私立ということで、一学年上のクラスに入れてくれた。もちろん、一番できない私がいわゆる『怒られ役』だったのだが、すぐに、ワザと私を怒られ役にしていることに気が付いたから(私の学校の先輩はもっと出来なかった)毎週、謝り通しだった。親玉の先生は、日本人で初めて数学のノーベル賞ともいえるフィールズ賞を取った、あの小平邦彦先生の娘だった。幼少の頃から病弱で、早朝に勉強していたらしい。終電で帰らせる先生で、その代わり月謝も高かった。私の家などは毎月払えず、ボーナスで高校生が何十万と持って行っていた。講師の先生に、ぶ厚い月謝袋を差し出して、「数が合っているか数えて下さい」と言う時の、快感な事快感な事。先生は月謝を滞納しても、何一つ言わずに、実力で評価してくれた。授業の途中で、いきなり入ってきて、「何故大学に行くのか?」という質問をぶつけ、私以外は「~になりたいからです」という返事の中、私は、「解りません」と応えた。どんなにボロクソに言われても、「解らないものは解りません」と、意地で突っぱね返した・・・今考えるに、そういう答えも当たり前にあるし、みんながみんな、「~になるためです」というのはおかしいと思った。高校生と言っても、たかが、17~18歳である。私はもっと自分の可能性を試したかったのだ。すると、翌週、また親玉の先生が入ってきて、「何故勉強するのか?」というタイトルで原稿用紙2枚書いてこいと言われた。作文の内容は今でも覚えている。しかし、その事については後日、詳しく書く。作文を書いた後、ある日、電話を取ったら、先生からだった。私の作文が非常に優れていることを褒められ、スタンダードクラスとハイクラスと両方に来い、との命令だった。真っ先に私が聞いたのは、「月謝はどうなるのでしょう?」ということだった。今まで通りでいい、という返事を聞いて、「感謝感激です。これまで以上に頑張ります」と応えた。丁重にお礼を言って、電話を切らさせて頂いた。高二の春、この時、心に火がついた。しかし、高二の冬に先生の訃報を聞いた。まだ五十代であった。この時、私は悩んだ。先生の葬式に参加すべきか、学校の授業を受けるべきかで。私はバカクラスにいたが、授業を真剣に聞いていた。先生の霊魂への最大の供養は、成績で返すことだと信じた。悲しくて自分の部屋のベッドの中で泣いた。泣き疲れて、うたた寝していたら、誰かにどつかれた気がして、目が覚めた。ああ、喝を入れられたのだな、と思った私は、高二の三学期は真剣に授業を聞いた。聞くべき授業で眠気に襲われたら、シャープペンシルで足のモモを刺してまで、聞いた。結果、私は事実上、バカクラスの中で1位を取った。しかし、後一点足りなくて、優等生を逃した・・・これじゃあ香典を忘れて葬式に行くようなものである。先生は東京は鶯谷、谷中霊園の中に眠っていらっしゃる。

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弟の根性

 弟の長男は、かつて、チームのエースで四番を張っていた。しかし、投げすぎたがために効き腕の肘をやってしまった。今日もリトルリーグの遠征に行くらしいが、きっと補欠である。補欠の選手の気持ちが解るというものだ。それだけでもリトルリーグに入った価値があるというものである。基本的に男の子は、親父の背中を追いかける。弟も父親になって、立派な生き様を見せて来た。弟のカミさんに当たる女が、首がヘルニアで、心臓まで弱っていると聞いた長男は、「僕の肘の手術なんてどうでもいいから、お母さんに心臓の手術をしてあげて」と弟に告げたらしい。私は弟に、「あいつもいっちょ前になったな」と語る。弟は、「まだまだですよ」と言う。私が、「自分の子供を信じてやれなくて、誰が自分の子供を信じるんだ」と言って焼酎を渡しながら、乾杯。本気で金を貯める気になったのか、晩酌用のビールも買ってこなくなった。仕事明けに一杯やりたいというのが、男の本性である。しかし彼は、本当に一杯しか飲まない。すぐに理由は解った。酒に弱いお袋の血を引き継いでいるのと、車で廻る営業の仕事だからだと。二、三日前、給料日の晩、弟は家に納める金と借金を返した。それからスマホ代と税金も・・・私と母の携帯代は二人合わせて6000円位である。弟に、「ますは、そこから始末せい」と言った所、「ハアハアァ~」と胸襟えを正していた。でも、弟の肉屋の原価の肉を定価で買ってやるってことにすると言ってみたらどうだ?と母に提案したのだが、弟は、「現ナマで借りた以上、現ナマで返す」と譲らなかった。このことを聞いて、「あいつも親父の子供だなあ」と、しみじみと、母と話した。

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クロックスって何だ?

 弟がこの家に来てから、間もなく一ヶ月になろうとしている。弟は、朝、昼、晩と食事を採るようになった。そこで、母の日(今年は5月11日(日)の日曜日である)にお袋に何かプレゼントしよう、と提案し所、快諾してくれた。予算は五千円以内で弟とのワリカン。普通はカーネーションを贈るものだが、五千円では、花束も買えないぐらいに、母の日は物価が高騰する。そこで、弟がいない間に、母に、「今、何が欲しい?」と聞いた。すると「家を建て替えてほしい」などと言うので、「それは俺が出世したら、いくらでもしてあげる。下関の『ふく』長嶋食いして、南極にも連れて行く」と約束している。しかし、私自身は、長年の肝臓のアルコール消毒の中、持って、あと三年とも考えている。私が貯めてきた貯金と、このblogの権利は全部、母にくれてやるつもりである。そこらのクソ坊主らに高い金を出して戒名を付けられるのは納得が行かないので、『一笑居士』と自分で決めた。お袋も『釈尼恵笑』と決めてある・・・ところでクロックスのサンダルの件だが、お袋に、「五千円以内で欲しいものはなんだい?」と聞いてみたら、こないだ弟が語っていた、『サンダル』と応えた。私は大慌てで弟に、「こないだ言っていたサンダルのメーカー名何処だけ」っと聞き、AMAZONで調べた。サイズは24.5cmとチェックしてあったのだが、英語表記で、何にも解らない・・・もう、こうなったら靴屋に行くしか無い。

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男子校の掟

 私は中高男子校で、大学は機械科。女っ気の無い生活をしてきた。兄弟も男のふたりっこ。弟は共学で、早くに結婚し、男の子二児の子宝に恵まれた。大学の機械科で私を知らない奴は、男でも、モグリと言われていた位に言われていた。あるとき、アトピーの友人に向かって、「お前、昼から酔っ払っているんじゃねえのか」と言った奴を、死ぬほど殴った。彼がいっつもメンソレータムを持っていたことを知っていたからだ。友達に止められた。私は男子校ルールを通しただけのことである。男子校ルールとは、1やらられたら、少なくとも3にして返せ、というものだった。じゃああないと、イジメ続けられる。そして、イジメを見かけたら、自分も犠牲になる覚悟で止めに入る・・・いじめられた友人から、その年、年賀状が届いた。驚いた私は、平々凡々な年賀状に、男子校ではナメられたら、終いやぞ、と書いた。彼も変わってくれたのは嬉しかった・・・ところで、先週書いた、おバカさんの家が、商売仲間なのか、物置を移動させるということで、やかましくて目が覚めた。これでは、いいネタなぞ浮かばない、と母に、虫のような声で語ったら、「がまんしなさい」と言われたが、昼休みが終わった後に、隣の親が雨戸を開けた際に(嫌々ながら、家はいつもしめている)親父が咳払いをしたので、十倍の聞こえる咳払いをわざとした。お袋が台所から走ってきて、「そういうことは、するべきではありません」と私に怒ったが、私は、「男子校じゃあ、こんなの当たり前だよ」と黙って話した。それから業者と隣の親父とが黙ったのは言うまでもない。

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思いやりというもの

 弟は中小の肉屋の営業をしている。社長と息子とトサツのトップを除いては、あっという間に営業のトップに立った。従業員では二番目にいい給料である。そんな弟でも外食したり、駅のそばのマンションを買っていたりしたので、背伸びをしていたが為に、自己破産するようになってしまった。お互いウミを出し合って、弟の起きている時間には、TVを点けようが、ゲームをしようが、黙っていた。彼が寝ている間に、母は弁当を作ってやり、私はこのblogを打つ。弟がTVを点けながら寝るのも、サッカーゲームをするのも、仕事のストレスを忘れるためだと、最近気が付いた。しかし、弟も、私の24時間縛りのblogが深夜書かれていることに気付いたようだ。私のやっていることはお金にならない。それでも、間二回抜けたとはいえ、七年弱、毎日毎日打って来た(たまにはサボることもあるが)。結婚を二十歳で捨て、二十四歳まで勝ち続け、大学も捨てた私にとって、このblogは子供の様なものなのである。大事に大事にしているのだ。弟も我が家に慣れるにつれて、我が儘を言わなくなった。私も彼のリラックスの時間を邪魔しない。彼がベッドで寝ているときに、母はソファーで、私は座椅子で寝ていることが何回かあった。弟もバカではないので、今では私の、このblogの作業も認めてくれているし、自分が来てからの母の苦労も理解している。私が座椅子で寝ていたら、好きなTVも点けないそうだ。営業だから、その日のニュースをチェックしなければならないのに、スマホで読んでくれている・・・そんな弟に、私は五千円以内でワリカンで母の日にプレゼントしようじゃあないか、と提案したら、弟も快諾した。私がサプライズでいきたいから、お袋に、今何が欲しいと聞いたら、弟が話していたサンダルだった。X作戦と弟と呼んでいるのだが、ネットの指定日配達で買うのが私の役目である。弟も母に感謝しているのだな、としみじみと感じたのだが、肝心のメーカー名を忘れた。しかし、母が寝ている間に、靴のサイズはチェックしておくつもりである。

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理系の論文の書き方

 理系の論文にしろ、文系の論文にしろ、論文というものは、考察が命である。ここで、考察を書く場合、絶対に感想文形式の『~だと思う』という書き方をしてはいけない。しかし、ここも逃げ道があって、『~だと思う』という書き方にせずに、『~ではないだろうか』という、日本語のアヤを使えば、問題提起式の、充分な考察だとみなされる。理系の論文の場合は、実験に基づいた、データの裏打ちが必要だが。要するに、考察の元となる、『根拠』が必要になるのは理系でも、文系でも変わりは無い。私の研究室でもデータだけもらって二日で書いた奴と、審査する教授が毎年替わるのをいいことに、二年前の先輩の論文を丸写しにしていた女がいた。男の方はデータを納得し、論文発表も上手くこなしたが、女の方は丸写しだから、『え~っと』とか『~だから』というような言葉遣いを使っていた。他にも、自分だけで書いた奴でも、学部で就職する友人は、実験したらデータがこうなりました、というだけだった。私は研究室の上司に当たる先輩に、「俺は卒論手伝わないからな」と、釘を刺され、言われた当初は意味が解らず、「あたりまえじゃあないですか」と言い切った。私は自分が大学で何をやって来たのかを知りたくて、創造性のある論文を書きたいと必死になっていた。結果だけを発表する論文では無くて、定説を進化させる論文が書きたかった。秋になって、データが集まっても、中々まとまった考察が書けそうに無い私は、苦しんだ。院に行くことも決まっていた。もがいた。あらゆるジャンルの先輩の論文も、何度も何度も読んで、幅広く実験をした。そういう論点に絞ろうかとも思ったが、(当時の)助教授が、「駄目だ」と言った。修士論文以降は引用してもいいはずなのなあ、何でだろう?と考えたら、過去の論文を読んでいるうちに、就職が決まっている院生のデタラメな論文にハンコを押していたんだなと気が付いた。私は追い詰められた気がしたが、悩んで、悩んで、あることに気が付いた。ブレイクスルーが起きたのである。それからは、研究室に泊まり込んだりして、必死に論文を仲間達と書いた。そうしていると、先輩達が努力を認めてくれて、コンピューターなどの解らない所を手助けしてくれた。機械学会に私の論文が載るのは一年後なのだが、創造的な論文が大学人生の集大成が出来た・・・今、旬なSTAP細胞の小保方君、女性で理化学研に入るだけの優秀な頭脳は認めるが、写しと、ウソはいかんよウソは。

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つらい中で・・・

 一種のそう状態であったのである、昨日は。私は母から、「一緒に話していると、あんたほど面白い子もいない。いろいろな経験したし、ラジオの深夜放送聞きながら、笑い話を覚えたのも判る」と言われた。私は、『この人、何にも解っちゃあいねいな』と思ったので、「ラジオで学んだのは、人にどう面白く聞かせるかということを、間とか呼吸とか、ボケやらツッコミやらを学んだだけだよ。だから、高三の時と一浪したときには聞いていない」と語った。私はそれから黙った。すると母が不思議がるのである。この子は何処でこんな話術を身につけたのかと・・・男子校ともなれば敵も多い。私は受験勉強をしながら、いかに敵を作らず、人を笑わせて味方をふやすかという事を真剣に考えた。結果、大勢を笑わして味方を増やし、敵は相手にしないという方針を採った。大学時代でもそうだった。私は幸せだった時代の話は全て覚えている。母が、「兄ちゃんの話は面白いねえ」と言ってくれたら、もっと、面白おかしく話す。私が一度興に乗ったら、飯も食わずに話す。少しでも生きている証を残したいからだ。下手なお笑い芸人より、よっぽど私の方が話がうまい。話しているときは、間を計らいながら、機関銃のように話すのだが、もちろん相手の話も聞く。だが、これは、相手を喜ばせたい一心でやるのだが、一種の躁状態になる。すると、次の日、うつ状態が待っているのだ。食欲も出ない。物書きとは、話を創るのが使命である。私は食えない物書きだが、自分のやっていることには誇りを持っている。だから、認めてくれない方がいると、認めてくれるまで、文章で勝負を挑む・・・私は、それぐらいの負けず嫌いなのだ。

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若竹

 『若竹』といえば、長い間、『笑点』の司会を務め来た先代円楽の作った、落語の(たしか常打ち小屋)の名前であるが、バブルの頃に作ったので、借金まみれだという。それだけ落語を愛していたということなのだろうが、これは、師匠が弟子達の事を思って建てたものでもある。だから、師匠亡き後、弟子達がその志を受け継いで、落語に精進し、借金を返さなければならない。しかし、私は、先代円楽が作った『若竹』の事に触れる気は無い・・・タケノコについて触れたいのである。昨年、弟の次男がタケノコ掘りに行った時のタケノコは旨かった。甥に当たる次男は、それから野山をかけずりまるわるのが、自然と触れるのが大好きになったようである。私の家の側には今も自然が残されている。私は竹林には蛇が多いことを知っているので、今でも苦手だ。弟の長男はリトルリーグでエースでクリーンナップを打っていたが、投げ過ぎで、肘を剥離骨折してしまった。でも、あんなに野球が好きなのに、母親の心臓の手術に莫大なお金が掛かるのを知っている歳で、「俺の右肘なんか手術しなくてもいいから、母さんの病気にお金を使って頂戴」と父親である弟に言ったそうだ。その話を聞いたとき、私は泣いた。エース張っていたのに、レギュラーだったのに、初めてベンチ入りの子供達の気持ちが解ったんだろうな、と思い。男は七転び八起きでは甘い。九転十起っである。苦労しなければ、人の痛みが解らない。努力しなければ、何者にもなれない。「辛いだろうが、頑張れ!!」と言っていた。弟曰く、「掘ってきたタケノコのでかいのはみんな他の家族にやっちまった」と言っていた。その後、充分、旬なタケノコを味わったが、母は、「今の母親になっている女の子達にタケノコの調理法が判るのかしら」と囁いていた。しかし、弟とその次男、お手柄である。

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ワガママ

 隣の家というのは、近所付き合いというものが、ハナから解っていない。自分の事しか考えないバカなのだ。だから、近所中から相手にされていない。私の家の前の通りは狭い。だから、短時間でも車を止めるのには神経を使う。一回おきに必ず車庫入れするのだ。だが、隣は違う。狭い道に平気で車を停めているのだ。家には関係ないが、向かいの家の人は、いっつもクラクションを鳴らしている。可哀想である。隣の親父は、3.11以降まるっきり不景気な様子。犬を飼ったみたいだが、これまたバカ犬で、やたらに吠える。するとそこの親父が、うるせえ馬鹿野郎、と怒鳴る。私は、こいつにペットを飼う資格は無いな、と思うと同時に、お前の怒鳴り声の方がうるせえんだよ、と、いつも思う。最初は二匹いたのだが、知らぬ間に一匹になっている。犬鍋でもしたんじゃあないかと疑う。疑われても仕方の無い家なのだ。犬は飼い主に似るという。その通りで、家の室内犬の弥吉君でさえ相手にしていない。それほどバカな家なのだ。大体、業者さんにガス管まで調べさせるなど言語道断。雨の降る中、土方のおっちゃん達でも休む日に、土を掘り返させ、自分達は家の中で悠々自適。私には信じられなかった。挙げ句、ガス管には問題なく、普通なら平謝りする所だが、メーターの異常な所に気が付いた人がいて、それで一件落着。お礼も何にも言ってはいなっかが、完全に業者さんを敵に回した。バカである。ガス管だからよかったものの、水道や電気の業者さんだったら、バレない様に無事な管や配線をぶち壊されてもおかしくない態度だった。普通は、下働きの人ほど大事にしなければ、組織は成り立たない。そういう意味で、おっさんは現役の時、部下のためを思ってしかるのではなく本気で怒っていたのだと解る。それは、絶対にやってはいけないことなのだ。

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業者とケンカするバカな家

 昨日の夕方頃、blogのアイデアをひねっていたら、隣の家が、三日ほどガスが使えなかったらしく、業者の人が来るなり、おばはんが、「こちとら、(中略)、怒り心頭してんのよね」と怒鳴っている声が聞こえた。それで、ガスメーターやら何やら調べさせていた。それが、何時間も続き、業者の人も夜の九時頃まで使われていたので、ブチ切れ、口ゲンカになっていた。うるさくて、仕事にならない私は、早寝した・・・家の場合、何かトラブルを生じると、業者さんに頼むのだが、腰を低くして接する。そして、最後に会計を済ませると、必ずお袋がウーロン茶を渡す。業者さんも喜んでくれる。これが普通の業者さんとの関係だと思うのだが、隣の家は違う。我が儘ばかり言うので、近所中の誰からも相手にされてはいない・・・昨日の夜九時過ぎまで口ゲンカしていたので、もう納まっただろうと、起きてきたら、インターフォンの音で目が覚めた。なんでも、ガス管のチェックをするので、車をお宅の前に止めさせてもらいますけどけど、今日、車を使う予定はありませんか?とか、工事するので音が出ますので、申し訳ありません、とワビを入れてくれた。ああ、隣はそこまでしろ、とゴネたのだな、と解り、お疲れさまです、と言った。そうして、今、現に轟音の中、地面を掘り返している。私がお袋に、「もしガス管に異常があったら、請求書で解るのになあ・・・やっぱりバカだな」と言ったら、「あそこの家は我が儘だからねえ」とささやいた。なんか、業者さんも意地になって掘り返している様子。私としては、ガス管に異常が無いことを願っている。そうして、赤っ恥をかいて、大量の請求額が行くのを楽しみにしている。それぐらい、自分勝手な近所づきあいしかしていないからだ。

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兄弟船

 『兄弟船』といっても、あの、演歌歌手の豊川豊の兄貴である、伝説のマグロ漁船に乗って、ケンカばかりしていていて、先手必勝で包丁まで投げたという、演歌歌手の鳥羽一郎のことでは無い。ここ最近、家に寄るだけに帰ってきた、私の弟との話である。当初、弟は、私と母の暮らしに合わせようとしなかった。最初は黙っていた私も、少しづつ弟に文句を言った。しかしいくら言っても聞かない。また、私はこのblogを集中して書いた後には、夜中でも、常に興奮して眠れない。打つのは一時間ぐらいで済む。しかし、ネタ出しや、出だしを考えている内に、ネタが無い時には、案生困り果てる。そういう時は、何か違うことをやってみるのだが、中々出てこない。ストレスがたまる。そんなことを7年弱24時間縛りでやっていると人間がおかしくなる。blogを書いた後には疲れ果て、一服しなければ物が入らない。それが1時間ぐらい続くのだ。心の虫の居所も悪くなる・・・弟が来てから、私が最初、機嫌が悪くなったのも言うまでもない。一週間ほど前、徹夜で弟の弁当を作り終わった母親に、弟のことで、本気で怒鳴り散らした。一階の寝室にいた弟とは、それまでギクシャクしていたので、夜中でも、怒りをぶちまけた。弟も本気で言い返してきた。すったもんだの末に、お互い黙った。私が話題を変えて、一段落した。若い内なら殴り合いになっていた所だが、お互いに口ゲンカで止め、お互いが譲歩する話し合いとなった・・・翌日から、弟も、我が儘を言うのを止め、私も弟には、「寝タバコするなよ」と言うぐらいにしかいわなくなった。私はお袋に、「あいつもバカじゃあねえんだから、自分のやっていることばかりが、この家では通じないって、考えたんだろうなあ」と言った。お袋は深夜起きで、弟の弁当を作るし、私が深夜にパソコンを打っている姿を観て、弟は変わった。私も勿論変わった・・・男同士のケンカとは、最初にウミを出してしまった方が、不思議なことに、お互い気を遣って、まとまるものなのである。まさに、雨降って地固まる、だ。その点、女は面倒だ。

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冒険家・植村直己さん没後三十年

 一昨日辺りに、NHKBSで、冒険家・植村直己さんの没後三十年北極の犬ぞり横断12000Kmのドキュメンタリーをやっていた。平成生まれの方には、ピンとこないだろうが、偉大な冒険家である。世界五大陸の最高峰登頂を人類で初めて成し遂げ、日本人で初めてエベレストの登頂を成し遂げた、偉大な冒険家である。植村さんが、明大の山岳部だということは知っていたが、大学から山登りを始め、身長も僅か158cmということは知らなかった。番組の内容は、主に、エスキモーの村で十ヶ月、北極圏での生活と犬ぞりの操り方を学び、二年に渡って犬ぞりで北極海の12000Kmのアラスカまでの冒険をしたことだった。-40℃の中での犬たちのふれあいと、孤独を描いたものだった。植村氏の本は、その後の冒険家達のバイブルとなった。私も、別の本で、冒険をするときの気持ちを綴った本を読んだことがある。そこには、植村さんの言葉として、『途中、何度も、何度も、引き返したい、帰りたい、という思いになることがあった。しかし、私の背中を押してくれたのは、妻の顔、後輩達の顔、スポンサーになって下さった方々の顔が浮かんできたからであった』と書いてあった。私が小学生の、30年前のことアメリカ大陸で最高峰のアラスカのマッキンリーの冬山に登頂し、下山中に行方を絶った。塾の先生が、クレパスに落ちたのだろうと言うほど、植村さんが行方不明になった時には、日本中のTVで騒がれた。懸命の捜索も空しく、植村さんは冬のマッキンリーに散った。当時の日本人は、植村さんを誇りに思っていたので、みんなが悲しんだ・・・あれから30年、早いものだ。植村氏は一人での冒険をしていたが、集団行動が嫌いな自分を、『社会人不能者』と言っていたようだが、人々の胸に、強烈な星として、今も生き続けている。また、40年前に植村氏が北極横断の偉業を成し遂げてから、北極の気温は、温暖化で、10℃上がり、北極海が全て凍り付かなくなったそうだ。今の人間達がやっていることは、北極海の資源争いである。その為のプラントを作り、スノーモービルで移動し、北極海航路ができれば・・・などと言っている。事態の深刻さを思い知るときが来るはずだ。

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体調が・・・

 ここ二日間体調が優れないので、昨日は休肝日にしました。身も心もなんだかボロボロです。今日もベッドに横になっているつもりです。

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南極の氷、到着!!

 南極の氷が届いた。クール宅急便の速達で。中高時代の友人で、第55次しらせに乗った、防衛大学に行った友人が送ってくれた。お礼の電話を入れたら、「届いたかい?後でウイスキーも送るよ」と言ってくれたので、「是非とも送ってくれ。あと、ゴルフも行こうな」と言ってしまった。足が弱っている私としては、これで、大学時代の友人のゴルフのお誘いも断れなくなった。それもまたよし。鍛えて、練習するだけである。ギャグが飛ぶゴルフは楽しい。ところで、南極の氷が到着したあと、仕事帰りの弟と乾杯したいと思い、財布を持って、4000円するサントリーの『響』の12年ものと炭酸水を買いに行った。でも、最初っからハイボールはねえだろと思って、弟が帰ってくる中、待ち続け、帰ってきたら、ロックで、何万年もの南極の氷を楽しんだ。まず、送ってくれた氷を割るのが大変だった。巨大な直方体なのである。最初は、ワインのコルク抜きの先っぽで砕いていたのだが、ラチがあかない。トンカチの鋭い方で叩き割った。南極の氷は少し白みがかっている。なんでも、何万年も前の氷河から取った氷で、その頃の気泡が入っているそうだ。だから、いざロックで飲んでみると、『パチ、パチ、パチン、パチン』という音がする。酒のみとしては、その音だけでも酔う。このblogを書くために、氷を噛んでみたもしたが、普通の氷より、異常に硬かった。南極の氷で、ロックで酒が飲めることなど、今後、一生無いと思って買ったウイスキーは12年ものだが、500mlで4000円した。涙が出そうだった。今度はブランデーでなどと考えているのだが、例えばヘネシーのXOなどは、免税店でしか買う気がしない。どちらにしろ、最高の贅沢をさせてもらっている友人に感謝である。

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ラドン温泉?

 私がガキの頃、家から車で20分ほどの所に、『ラドン温泉→』という看板があった。私は幼心に、『ラドン温泉』て何だ?と考え込んだ。映画のゴジラの敵の鳥みたいなラドンの模型でも温泉に浸らせているのか?と思い、多分、店先にはラドンとゴジラの模型があってなどと想像を膨らませていた。その頃は、ラドンが元素の一つであることなど、全く知らなかった。だから、ラドン温泉には店先に紫色の羽の『ラドン』の模型が飾っていて、側にはゴジラシリーズのラドンを中心とした資料館でもあるのかと思っていた。まだ、四歳ぐらいのことである。結局、そこのラドン温泉には行かないまま、側に温泉ランドが出来て潰れたが、福島の裏磐梯のユースの風呂がラドン温泉だった。私は昼から気持ちよく入り、夕食の後も泊まっている方と一緒に入った。私は決して大きな一物を普段持っているわけでは無いが、大人になったら誰もそんなことは気にしない。私のblogでも、『一物論』なるものを書いたが、立てば男はほとんど同じでかさである。友人と一緒にはいる風呂が、『こんなにいいものか』と感じるようになったのも大人になってからである。裸の付き合いというのも、いい。特にゴルフ場などで運動した後に入る温泉は絶品である。昔、大学一年の頃、箱根の芦ノ湖までチャリンコで行って、ボートを漕ぎ、40時間寝ないで帰ってきたときも、途中で温泉に入ったら、みるみるうちに疲労がとれたのが解った。まあ、その時は、最後には眠りながらチャリンコをこいでいて、『これは死ぬ』と思い、眠りながらチャリンコを押して帰ってくることになったのだが・・・家に帰って、浴槽剤を入れて風呂に入って爆睡したのは言うまでもない。

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ゴルフのお誘い

 昼から寝ていて午後9時にお袋から起こされた。なんでも、私の携帯が鳴っていると。観てみると、大学時代の親友からのショートメールだった。そこには、「ゴルフどう?」と書かれてあった。彼は熱海の山頂のゴルフコースの会員権をゲットしている。二年前に初めてラウンドした時には、『Katsu』の店長とバカ三人組で廻り滅茶苦茶楽しかった。『Katsu』の店長は親父さん譲りの白いゴルフバックに四本しかクラブを入れてこなかった。バカである。でも、私は、『ああ、こいつ、ゴルフってものが本当に楽しいものなのか試しているんだな』と思った。そのバカ店長も、後でドライバーを買ったと聞いた。楽しかったんだなと思った。そりゃそうである。彼がバンカーに入れたら、私は、「ナイスイン」と喋ったり、私が寝不足で腹が減っている中、ハーフでビールを飲んでしまい、ヘロヘロになって坂道を転げ落ちて、一瞬だが気絶し、肋骨を二本折ったりしたからだ。今でも飲み会では笑い話にされてしまう。後で、整形外科で肋骨が折れていると知ったが、ラウンドしている最中は、『ただの打撲だ』と思い、ドライバーを振り回していた(痛み止めを飲みつつ)。18ホール廻った後、みんなでゴルフ場の温泉につかり、一服して、車で来ていた私が熱海駅まで送った。気合で家まで帰ったが、翌日、全身筋肉痛と肋骨の痛みでベッドから起き上がれなかった。今日の親友のお誘いも、即答したかったが、肋骨を折った時に医者から全治2ヶ月と言われ、ネットで車のプラモデルを作って過ごした。すると、足が全然だめになってしまった。ただでさえ、この、毎日ブログをやっていたら、ネタに詰まることもある。そんな時は一日中考える。33の時には、最高で一日40Km歩いて京都まで行った健脚が弱っている。ゴルフは歩くスポーツだ。粗相は出来ない。しかし、私が使っているゴルフ道具はその親友からの贈り物なのだ。ぜひとも、バカ三人組で笑いながら廻りたい。中高時代の友人からのお誘いもあったし、ということを昨日書いたら、このblogを毎日読んでくれている親友からもお誘いがあった。どちらも断れない。このblogが終わったら、久々に撮りだめておいたゴルフのレッスン番組を観て、今日辺り打ちっ放しにでも行こうかなあ。なにしろ運動不足だし、二人に早いこと意思表示をせねば。精進精進。

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ウィスキーがお好きでしょ

 日曜なので、昨日はベロベロに酔っぱらていた。普段の日でも、とことん吞む日はあるが・・・そんな私が土曜日に、 南極観測船の、『しらせ』に乗っていた友人が、もう、帰っているはずだと思い電話をしたが、通じなかった。すると翌日、私がしこたま酔っ払っている時に電話が鳴った。取ったが内容はあまり覚えてはいない。たしか、「ウィスキーと南極の氷があるんだけど」というような話だったが、私は一発で目が覚めた。「ウィスキーもありがたいけれど、南極の氷を送ってくれるのか!!」と大喜びした。確か南極の氷は、パチパチはじけると聞いたからである。私が堺雅人演じる『南極料理人』って映画は観たかい?と尋ねると、「観た観た。あれ、滅茶苦茶面白いよね」という返事が返ってきた。人間の基本は食べることである。南極に行くような料理人とは無い所から何でも作っちまうのである。水は無限にある。南極大陸は氷河の上に出来ているから。彼から、「またゴルフにでも行こうか」と誘われたが、私は一年ほどサボっている。足腰も弱った。でも、短期練習を積み重ねて、行きたいのが私である。レッスン番組をよおうく観て、打ちっ放しに行くのである・・・白瀬矗は南極点まで辿り着けなかった。しかし、隊長として、全員の命を守るために引き返した。白瀬矗部隊が辿り着いた所は昭和雪原と名付けられた。その魂に震えて、昭和基地での越冬に寄る観測のリーダーは、若い頃に、かのアインシュタインからアドバイスをもらった人である・・・どうでもいいから、南極の氷でウイスキーを飲んでみたい。

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何事も工夫次第

 私の故父は、工夫する天才だった。いかにお金を掛けないで効率よく物造りをするかと、いっつも考えていた。だから、ガキの頃から、為にならないおもちゃは買ってもらえなかった。しかし、私が自分で作る、と言ったらお金を出してくれた。それで、私も工夫することを覚えた・・・先日の昼食は冷凍チャーハンだったのだが、そのまま食べても、あまり旨くない。その時、定食屋などで出てくるチャーハンがお椀か何かに入れて、ひっくり返して、ドーム球場の屋根みたいになって出てくるのを思い出した。そこで、お袋にそういう風にしてくれ、と頼んだら、大きなお椀にチャーハンを盛って皿の上でひっくり返して食べさせてくれた。お袋も私の真似をして食べていた。不思議なことに、見た目だけでも、そのチャーハンは旨かった。同じ冷凍食品のチャーハンにもかかわらず・・・料理というのは不思議なものである。いくらいい食材を使って旨い物を作っても、見栄えが悪ければ、まずく感じてしまう。奥が深いなと思った。見栄えを良くする工夫で、冷凍食品でも美味しく頂けるのだ。今の私は貯金するために、ほとんど外食していないが、その店その店の工夫があることは知っている。こんな事をblogで書いていると、腹が鳴る。書き終わったら朝食を採るつもりだ。確かに人生は辛い。でも、工夫次第でより良いものに出来る。這い上がろう。

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しらせ

 人類で南極点に一番乗りしたのは、ノルウェー隊のアムンゼンであった。この部隊は無事に生還したが、争っていたイギリス隊のスコットは南極点に着いたものの、帰路、全滅した。日本でも白瀬矗(しらせのぶ)隊が、他の部隊に、あんな船で来たのか、と驚くほど、小さな船でやって来た。外国人達は驚いたそうだ。白瀬隊長は南極点まで到達しなかったが、行ききった所を大和雪原と名付けた。当時の南極では、隊長の判断が狂うと、命を落とす時代であった。薄氷船の『しらせ』とは白瀬矗から取った名前だ。友人によると、前進と後進を続けながら、氷をガンガン割って進んだそうである。そもそも南極観測船というのはいろんなメーカーが力を合わせて、国の威信にかけて造られた。第一次の時には、艦長と観測隊隊長がもめた挙げ句に、昭和基地での越冬が決まったそうだ。観測隊の隊長の名前は忘れてしまったがNHKのプロジェクトXの本で読んだ。京都出身。貿易商の出。若い頃、京都の街中を、アルバート・アインシュタインを案内したそうだ。言葉は英語。アインシュタインは、寺の鐘を観て、何であれはああいう文様になっているのか?と聞いたそうだ。難しい質問である。私だったら銅鐸の話と仏教の話を絡める。シルクロードの話も絡めるかも知れない。そんなアインシュタインから後に第一次南極越冬隊の隊長になる方は貴重な言葉を頂いたそうだ。それは、「何事にも好奇心を持ちなさい」という一言だったが、この青年は大志を抱いた・・・今では日本の南極の基地は二カ所ある。友人が帰ってきたら、堺雅人やきたろうが出ている、映画の『南極料理人』でも勧めるつもりだ。

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今になって着いた年賀状

 南極砕氷船、『しらせ』が数年ぶりに南極の昭和基地に到達した。実は、この第55次のしらせには、私の中高時代の友人が乗っていた。彼は二浪して、防衛大学に行き、海上自衛官となった。今は3佐である。去年の五月二日には、もう一人の中高時代の友人と共に、ゴルフを楽しんだ。そんな彼が、「秋には南極に行くんだよね」と言っていた。海上自衛官の仕事は金は貯まるが、転勤やら家を留守にすることが多い。もう結婚もしていて、子供が二人いる。奥さんも大変だ。結婚式と披露宴によばれた。私は一浪した時に、現役で受かった友達から参考書をもらいまくった。足りない分は買ったが、それで勉強した。彼の二浪が決まった時にスクーターを走らせて、彼の家まで、受け継いだ参考書を全部あげた。もちろんトップは東大である(私は一問も解いてないし、受けもしなかった。行きたくなかったからだ。しかし、数学塾時代の友人で、現役で東大に受かった友人がいたので、お守り代わりにしていた)。そんな『しらせ』に乗った友人から、この、桜の季節に年賀状が届いた。彼はお酒に弱いのとスケベなのが欠点なのだが、男同士の友情には厚く、しかも筆まめなのである。地球をはるばる縦に来た年賀状かと思うと感慨深い。二枚重ねの葉書で、中にはしらせの写真やらペンギンやらオーロラや氷山の写真もある。でも、一番嬉しいのは、大晦日と元旦に押してくれたスタンプである。切手も珍しい。『これって、お宝なのかなあ』などと考えてしまう自分が情けない。でも、大事にしまっておくつもりだ。私は年賀状などは全部輪ゴムでくくって取っておく主義なのだ・・・しまった、今年は瀬戸のばあちゃんが他界して、喪中だった。

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春の贅沢

 弟が我が家に住み着く様になって二週間が過ぎた。弟は午前六時前に会社に行く。昨朝、母親が寝ぼけて、座椅子で寝ている私を弟と勘違いされて、午前四時半にたたき起こされた。こうなったら、もう、意地でも花見に行ってやる、と思った。ダメモトである。毎年行く森林公園はお花みスポットで、賑やかなのがいい。子供さんが多いのだ。電車を降り、ビールとハイリキを買ったら、タクシーに乗った。ワンメーターで行く。運転手さん聞いたら、もう、三分咲きだと言う。それでも行ってみたら、下の方の桜の木が二本だけ咲いていた。そこにゴザを敷いた。母の弁当を食べながらの花見である。風が吹く度に、残り少ない花片が散っていた。桜の花片が散る度に、『ひさかたの』という歌を思い出す。これは、太平洋戦争のスローガンにもなった歌だ。うちの瀬戸のじいちゃんは、幸いなことに五体満足で帰ってきたが、戦死した人達も多かったらしい。じいちゃんは、死んでも軍歌を歌わなかった。花片が舞う中、数多の英霊を偲んだ。桜にはそういう儚さがある。母がゴザの上に寝転んでいる時に、「戦前の昭和って時代は嫌だったね。司馬さんも昭和は書いてはいない」と語ったら、「うん」と言っていた。続けて、「戦後になって、平成になって・・・今のガキ、特に男は、昔の人ほど締まった顔していないんだよな。情けないことに、体育会でもそうだ」と話した。そうして弁当を食い終わり、酒を飲んだら、酔っ払ってしまった。家に帰ったのは午後三時。弥吉君はお利口さんにお留守番をしていてくれた。

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病院はなぜ混むのか?

 父と焼酎を買いに行った際、母を迎えに行ってやろうと携帯から電話した。すると、内科の心臓の検査で、踏み台昇降をしているうちに、コケて右足のくるぶしの周りを複雑骨折したとの一報が入った。半月ほど入院して、退院となった。親父の没後、母はくるぶしに入っているボルトを抜きたい、と言いだした。そうして受け取ってきた書類には、主治医から、『当方としては手術を到底行える気ではございません』と汚い字で書いてあった。病院内の事故だし、こちらが告訴すれば勝ち目がないからなんだろうな、と推察した。その書類を読んで、改めて母の意思を確認した。すると、ボルトを取り損なってもいいから、手術してほしいとの意向だった。そこで私も立ち上がって、一緒に病院に行った。早朝に行ったので、四番目だった。でも待つ時間は長かった。私は待ち時間も無駄にはしない。質問したいことの要点を手帳にまとめる。母の意見も聞く。随分待ったが、順番が来ると、手短に質問した。先生は真面目に応えてくれた。一通りの質問が終わった後、お袋に意思確認すると、その先生はOKサインを出してくれた。そして、自ら執刀し、母のボルトを全部抜いてくれたどころか、母のベッドを自ら引っ張ってきてくれた。ありがたいことこの上無かった。私はお袋の意識が戻るまで一緒にいたが、退院の日には自宅で寝ていた。お袋は先生から、信じられないくらいの湿布を処方されたそうだ・・・ところで、何故、病院は混むのか?それは自分の体の症状について理路整然と手短に説明できる人が少なすぎるからだ。あーでもない、こーでもない、という人が多すぎるのだ。私が行った時には、五分で済んだ。

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お花み知らず

 家の瀬戸のじいちゃんのおふくろさんは、はなみ婆さんという。とりわけ容姿に優れた訳では無かったが、風(運)のいい人じゃ、と言われていたらしい。私が考えるに、人生で一番大切なのは、『運』がいいことである。決して『カネ』ではない。そこのところを勘違いしている方々が多すぎる。運はカネでは買えない。生活していくためには必要最小限のカネがあればいいのだ。そりゃ、多いに越したことは無いのだが、カネは人を惑わせる。欲深くなる。そうなると、きりが無い。だから、運を取った方が絶対にいいのだ。故瀬戸のじいちゃんも、戦争から五体満足で帰ってきた。お袋も私も、はなみばあさんの運を受け継いでいる。母は長女だが、弟の叔父さんも受け継いでいる。カネばっかりに走っているのは、母の妹だけだ。あの叔母ちゃんは可哀想だね、と母に言った事がある。母も、あんなことしてたら、いつか、泣きをみるだろうよ、と言っていた・・・さて、花見知らずと書いたのは、今年はお花見に行けそうに無いからである。それまでの我が家では、桜を観ながら弁当を食い、私と親父が酒を飲むのが風物詩だった。親父はお盆に死んだが、春には花見に行っていた。それ位の伝統行事が今年は為されない。弟が来たドタバタで、不可能になってしまったのだ。そうなると、TVとかで観る桜の中継までもが憎たらしい・・・って知り合いでさくらちゃんていう名前の子が二人いたな。

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月に祈る

 かつての戦国武将である山中鹿之助は月に向かって、「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったそうである。それだけ戦国時代は過酷だったということだ。しかし、現代でも、それは変わらない。私も同じ考え方である。自分を殺して生きているのだ。月に願わくとも、私の人生には艱難辛苦が待ち受けていた。少しながら克服しているうちに親父が死んだ。一番の理解者を失った。それからは形式的には、お袋を家長として持ち上げてきたが、実質的には私がサポートしまくった。お袋も女だから、滅茶苦茶言うこともある。そこをグッと耐えるのだ。そうして、時間を置いてから説教である。お袋は何も言えない。私が理路整然と文句を言うからだ。でも、お袋には感謝している。いつも旨い飯を食わせてくれて、足が痛い中、買い物にも行ってくれる。これには言葉が出ない。自分だって悔しい思いを何度もしてきたのに、私と弟のために生きてくれている。もし、私が早死にしたら、全財産(このblogも含めて)をお袋にあげるつもりだ。月・・・月と言えば親父の言っていた言葉を思い出す。親父は私が産まれる晩に、自分の場所に行って、父親となる自覚をかみしめていたそうだ。その時の、お月さんが満月だったんや、という話は死ぬほど聞いた。そんな親父もいなくなった今、私が母を支えなければ行けない。

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懐刀(ふところがたな)

 母はとろい。だから、私のことを家族の中でも、懐刀として重宝していると言う。私も期待に応えたいと頑張る。母曰く、私は人の気付かない所まで気づき、戦略を練り、自分を助けてくれているそうだ。弟が来ても変わらない。私は本音でものを言う・・・しかし、そんな私が先日、母に説教した。弟は隣の部屋で寝ていた。昼は母の愚痴ぐらいなら我慢できるが、感情的にも言葉的にもひどいことを言われ、夜は弟の我が儘と私に対する蔑視の念に堪えきれなかったからだ。私は、本気で怒った。夜中に。勿論自分の私利私欲などは捨てて、真剣に怒った。三時間以上怒り続けた。母は何も言えなかった。自分を捨てて、母のために怒ったからである。私が怒ると、本気で怒る。必然的に声もでかくなる。近所迷惑だと思ったが、そんなことは関係ない。ひたすら説教する。怒ったというより、しかったったのかも知れない。それは、弟に対しても、示しを付けるためでもあった。一段落して、夜中に弟が起きてきたが、私には何も言わなかった。この家で生活していくための最低限のことが解ったのだろう。何も言わなかった。私は起きてきた弟に、金を貯めろと言った。現金のみで生活していくことが、どれだけつらいか解っているからだ。弟も黙っていた。その後、弟が仕事に行った後、しこたま酔っ払った。自分が嫌になったからだ。そして寝た。しかし、次の日から弟は我が儘を言わなくなった。母もしこたま懲りたそうだ。やさしい。半分本気で半分誠実に母と弟を諫めたのである・・・後日、母が、やっぱりあんたは私の懐刀やねえ、と言った。私は、恐悦至極に存じます、と笑って応えた。

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ゴーストタウン

 私は、この町が好きである。幼い頃から過ごし、毎日、野球をやっていた。しかし、あれから三十年。若者は去り、都会へと出て行った。私の家はバス通りから一本離れた所にある。確かにやかましい。だから私は、夜の静寂の時間に逃げ込む。そうして、物を書く。自分の支配した様な時間を・・・と思うと、族か何か知らないが、イキのいいヤンキーのバイクがエンジンを吹かしながら通って行く。『20Km/hで俺を捕まえるくらいなら、アイツ捕まえろよ』と内心で思う。それぐらい集中力をかき乱される。もっとひどいのは、救急車である。前にも書いたかも知れないが、一日に三回は出動している。米軍機や自衛隊の飛行機の音もやかましい。やつらは、低空飛行しているだけに、家ごと響く。ある時、なぜ、私達の国なのに、米軍機が家の上を飛ぶのか疑問に思ったことがある。結論は、敗戦国だから、無条件降伏したから、で終わりである・・・ところで、一日に三回は救急車が通るのにはもう慣れた。しかし、こないだ七回か八回鳴った時には驚いた。私の家の隣近所には子供もいる。毎日、サッカーボールを蹴っている様だ。時々、家の車のボンネットに当てる音がするのだが、私もガキの頃、そうだったので何も言わない。しかし、この町は、じさま、ばさまばかりになっている。学校のクラスの生徒も激減した。かわいそうだ。このままでは、本当にゴーストタウンになってしまう。そうなる前に、何かいい手立てはないものだろうか。

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中島誠之助が2億円をつけた日

 あれは、まだ、島田紳助が司会を務めていた頃であったが、『開運!なんでも鑑定団』で、あの、中島誠之助が2億円をつけたことがある。これには、私も驚いた。出てきた依頼者は、私の知らないプロの囲碁棋士で、若い頃、アメリカで手に入れた物らしい。世話になった知り合いに、給料三ヶ月分のカメラと交換したそうだ。面白いのは、その価値の解らないガラクタみたいな物と本当に交換してしまう無欲さである。普通の人ならば、カメラを取るであろう。しかし、その人はお礼も兼ねて、そのガラクタと交換した・・・そして、いざ、鑑定してもらうと、2億円。中島誠之助が、「私がこの番組に出だしてから、最高の物に出くわした」などと褒めちぎる中でも、その囲碁棋士は普通だった。無欲だからである。そして、「これをどこかの博物館にでも寄贈したいと思います」と落ち着いた口調で語った、と同時に紳助がその人の前に入り、(そんなこと言ったらあかんみたいなニュアンスで)必死にフォローを入れていた。この人は、本当に無欲なんだな、と感心。あんな人が出てくることもあるんだなあ、と考えさせられた。なぜなら、あの番組は、出てくるお宝を観るのは楽しいが、出演してくる依頼者の顔を観ていると、誰も彼も欲ボケしているのが気に入らない。そういうのを観ると嫌気が差す。骨董なんて、たとえ5千円でもいい。自分が気に入ったものを、ただ眺めているだけで充分ではないか。

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家庭というもの

 家族で、誰が我が儘を言っても成り立たないものが、家庭というものである。帰ってきた弟がバイクを車の前に止める、と言いだしても、私も母も文句を言わず、出来るんならそうした方がいい。朝の忙しいときに車の出し入れをしていては、面倒すぎるよなと思っていた。会社まで片道一時間だそうで、くたびれ果てた中、弟は試行錯誤していた。車をぎりぎりまで後に止め、何とかバイクをおいていた・・・ちなみに、そのバイク、何故6万円なのかが解った。シートにでっかい傷が入っているのである。走行距離も相当らしい・・・そうだ、タイヤもチェックするよう言っておかなくては。家に入った弟は、顔と手を洗い、着替えた。弟はTVにこだわったが、一昨日よりは物腰がやわらかくなっていた。彼も家族なのだ。母が出した食事を黙って食べる。当たり前のようで難しい。母は私の現在の体調のことを考えてくれている。量を少なめにしてくれるのだ。申し訳ないと思いつつ私は頂く。しかし、寝不足で空腹の母は、時々、ぶち切れる。大概、私が悪いので謝る・・・これも家族だ。『してもらう』ではなくて、『してあげる』でなければ、家族など成り立たない。『我慢する』ではなくて、『譲り合う』でなければ、家族がいがみ合い、家の空気がギスギスになって、丸くはならない。『仲良きことは、美しきかな』である。

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ハイキック

 弟が来たと書いたが、昨日、私はblogがあるので午後九時から午後十一時まで仮眠を取り、blogに臨んだ。書いた後には一時間は休憩を取る。それからアイスクリームを一個食べ、歯を磨いて寝た。就寝時間は午前二時。弟は午前五時には出ていくからというので、午前三時四十五分に目覚めた私は、お袋に、「今日が初日だから、早めに起きたら?」とお袋に弁当作りを促す。お互い寝不足だ。でも母は、弟に弁当を作ってやっていた。水筒も用意していた。しかし、肝心の弟が降りてこない。なんでも、午前五時起床ということらしく、相変わらず時間にルーズな奴だ。起きたかと思うと、「おはよう」と二人が言っても返事無し。起きたてから、ご飯を頬張る。こっちが、滅茶苦茶、気を遣っているのに、弟はあくまでマイペース。多くのバイクの為に私が車の出し入れをし、母の朝食が終わると私は寝た。母の異常動作をしていたTVのデッキへのクレームの電話で目覚める。寝ていなかったらしい。その後、弟が火曜日は午前中だけの勤務だろうからと、母が風呂を沸かしていると、弟からの電話で、「今日は帰らない」・・・ここまで、ブチブチの二時間睡眠だった私は寝不足でブチ切れて寝た。壱時間半ほど寝て、夢で親父が弟を叱りつけている姿を観た私は、飛び起きて弟の持ってきた段ボール箱で、玄関に置かれている物にハイキック、ハイキック、ハイキック。すると、衣類と靴だけ持ってこいと言っていたのに異常に重い段ボールがあった。服の枚数も私の比では無い。これには母もブチ切れて、弟の携帯に電話。私は、「あんなワガママな奴、どうでもいい。帰ってこさせるな」と言ったが、母も、「これ以上甘えんじゃあないよ」と言ったが、帰ってきていない・・・まあ、いない方がいいのだが・・・

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弟の襲来

 知っている方も多いと思われますが、ちょっとワケありで、昨晩から弟が我が家に泊まることとなり、知り合いから買った、六万円の中古の巨大バイクで通勤。狭い駐車場なので、「そんなバイク、止める場所がねえぞ」と弟に言うと、「車の後ろに駐める」と言うので、そのバイクを出し入れするためだけに、毎朝、毎晩、車を移動させなければならないという、なんとも間抜けな話となった。初日だったので車庫入れのコツを教えてやったが、危なっかしくて仕方がない。車庫入れが終わり、家に入ると、沸かしてあった風呂に導くと、母は、食事を用意し、私は弟とお袋を待っていた。三人で食事が終わると、弟はスマホのゲームをやり出し、さすがに母が、「やめなさい」と言って止めさせた。私も感じたが、母も病的な物を感じたのだろう。すると、「TV観ようぜ、野球だ野球」と言うので、今度は私が、「駄目だ。初日から我が儘ばかり言うな。観たきゃあ、俺の部屋のTVで観ろ」と言ったら、二階に上がった。いろんなリモコンがあるので、一個々々説明し、四つある分別ゴミ用のゴミ箱についても説明。私はTV嫌いで選んだ番組しか観ない。バラエティを観ている暇があったら、このblogのネタを探す。弟は逆だ。なんだか、うまくやっていけるのか初日から心配な次第である。

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