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2014年1月

パソコン設置完了・・・しかし使わず

 一月以上も前に購入したパソコンの設置を一月以上放って置いた。赤提灯で友人と飲んだ時、「ホストコンピューターって書いちまうと、一体どんな家なんだよ、と思われちまうぞ。メインコンピューターのことなんだろ」と突っ込まれてしまった。私は黙って白旗。コンピューター音痴なのである。それに比べて、一緒に飲んだ友人二人は、コンピューターで飯を食っている。私の壊れたコンピューターの症状を伝えた所、一人が、「それ、多分、ディスクが壊れているんだよ。あんなもん、三年経ったら壊れる。秋葉原にでも行って、付け替えるのが一番いいぞ」と教えてくれるのだが、「この年末の金の掛かる時季に、もう、新しいの買っちまったよ。涙が出そうな出費」と言うと、もう一人の友人が、「今、デスクトップのパソコン異常に安いし、取り付け方も簡単だよ」とフォローしてくれた。私は、「取り付け方ぐらいなら何とかなるんだけれど、最初にセキュリティプログラムを入れて、次々とソフトをインストールするのが面倒だし、無線LANの設定とかが面倒なんだよな」と悩みの本質に触れる。すると、友人二人とも、「だから、今のパソコンは簡単なんだって」と口を揃えた。年明けに、二人の言葉を信じて、ハード面の設定を何とか終えた。いろんなソフトもインストールした。そのパソコンには2TBの外付けハードディスクがあるので、そこから過去十年以上のデータを読み込むのに、異常に時間が掛かる。このblogを更新してから、早速始めるつもりである。24時間以内に終わってくれるだろうか・・・

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精一杯のおめでとうを

 一昨日、28日、大学時代の親友の跡取り息子が産まれたそうだ。彼の所には女兄弟しかいなかったので、精一杯のおめでとうを捧げたい。奥様とも面識があるので(家庭パーティなどで)、お二方に『おめでとうございます』だ。自分のことの様に嬉しい。名前も決めていたらしく、メールで教えてくれた。何故、聞いたかというと、私は年賀状を送る際、家族全員の名前を書くのだ・・・へたくそな字で。私は四十一にして独身だが、人の幸せを自分のことの様に喜べる様になれた。幸せ者なのだ。逆に、苦しんでいる人がいると、私まで悲しんでしまう・・・というより、落ち込む。幸せになって欲しい人が幸せになってくれることが何よりも嬉しい。逆に、心から愛している人が潰れてしまう姿など観たくは無い。何か、力になれないかと、気を揉む。私は三日ほど、母と深刻な問題で口げんかして、栄養失調になった。けれど、買い物の行きにガソリンスタンドに寄った際、スタッフの一人の女の人が、挨拶してくれた。その人は、最初は私に作り笑いだったのだが、「こんだけガソリンが高くなったら、ドライブを趣味にすることは出来ませんよ。お袋の買い物の足です」と言って、「GSの浮気はしてませんよ。本当に乗らないんです。特に冬場はバッテリーのことを考えて、週に一度アイドリングしています」と言ったら、タイヤの空気圧の調整を買って出てくれた。ガソリンを入れ終わって、空気圧の調整をして頂いた後も、待っている車もいなかったので、この人をどうやって笑わせようかとしているうちに、自然と時が流れていた。私は、学生時代、どうやって敵を作らない様にしようか、必死でラジオの深夜放送を聞きながら、間の取り方や、空気を読む訓練をした。ああ、こういう時にフォローするのかなどと同時に、自分の引き出しをものすごく増やした。勉強とは、試験の点数のことだけでは無いのだ。一種の芸も出来ない男なぞ、華が無い。そのGSのスタッフのおねいちゃんも、今では、私に作り笑いをすることも無くなった。本気で笑ってくれているのである。男として、女性に対してサービス精神を持たない奴は駄目だ・・・って、このメール、親友へのはなむけのために書いたはずなのだが、それてしまった。私が親友の子供にアドバイスできることは、『男なら、粋に生きろ。決してアホボンにはなるな』ということだ。何はともあれ、私は友人のニュースを聞いて幸福である。改めて、おめでとう!!

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投資家と投機家の違い

 先の選挙で、自民党が勝ち、何故だか解らないままに、安倍が首相に着いた。先ずここに、疑念が残る。おそらく、民主党時代に、決められていたことなのだろう。闇の中で動いたということだ。国民は、まず、それに、『Why?』ということから疑問をぶつけなければならない。訳の解らない『アベノミクス』によって、円安、株高がもたらされたが、少なくとも私は、これを、『安倍バブル』と呼びたい。砂上の楼閣なのだ。春闘では、主に輸出関連の企業がベアアップを承認している。それに比べて、お年寄りや貧しいものは死ね、という政策は如何なものか?完全に政府がそういう大号令を掛けているのだから、この国も老年化したのだなと考える・・・だったらバブル時代の『ふるさと創生金』とは何jだったのか?一村落ごとに一億円ずつみついだあの金は何処へ行ってしまったのか?バブルの竹下登君が首相になった頃にやられた政治戦略だ。当時、幼かった私も、赤字国債のことは知っていた。アメリカの国債を・・・という友人もいたが、納得が行かない。ましてや、今のアベノミクスなど、一時的なバブルだ。経済面に於いては。基盤の無いバブルなど、一瞬で吹き飛ぶ。昔のバブル時代にいい汁を吸っていた奴等が、一晩で借金王になった。株式投機家の連中は、一瞬にして無一文どころか、借金王・・・あれから何年も考えたが、『投資』と『投機』の違いについては学ばせてもらった・・・また、アルゼンチンの通貨が下落し、連鎖反応を起こしているとか。掛ける言葉が無い。

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『ちゅらさん』を観て

 Hospitalが病院を意味するのに対し、皆さんはHospiceという存在をご存じでしょうか?皆さんと同じく、私も『ホスピス』について、親父の最後の入院の時まで知らない存在でした。ホスピスとは、マザー・テレサが設けた様な、『死を待つ家』なのです。当時のインドでは、カースト制度もあり、道端で死んで行く方をマザー・テレサは嘆いたそうです。そんな中、マザー・テレサが手がけた、『死者が待つ家』というものは革命的な存在だったそうです。しかしながら、現時点での日本のホスピスの存在というのはどういう存在なのでしょう?皆さんの普段の生活からは、想像できない内情があります。インドでホスピスが出来たことは革命だったのでしょうが、現在の日本人が、『死を待つ家』に入って、どれだけの人がまともでいられるでしょうか・・・私の父も何度ものがんとの戦いの中で、当時の小泉政権の元、病院からホスピスへと移る事になりました。しかし、母が各地のホスピスを観て歩いて、『こんなに陰気な場所に送るわけにはいかない』と溜息をつきながら、私に話しました。ホスピス独特の陰のあるムードが気に入らなかったそうです・・・私は、今やっている『ちゅらさん』しか観てはおりませんが、看護師や医者が、『これでよし』と言うほど甘い世界では無いと考えます。人一倍辛い仕事だと・・・私の親父の臨終の日、親父が一番信頼していた看護師さんは、数珠を握ってくれておりました。看護師というのは、患者さんの治癒した笑顔を観る仕事だと思いがちですが、それに伴い、患者の死を受け入れるだけの覚悟が必要なのです。数珠の看護師さんは、長い経験から、親父の最後の日を解っていたのです。

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世に棲む日々

 高校の時の授業の際、尊敬していた英語の先生が、荒くれ者相手に、『世に棲む日々』を読め!と言った。そいつは黙っていたが、多分読んではいない。その当時、司馬遼太郎の『龍馬が行く』の最終巻を読んでいた私には嬉しい情報だった。早速本を買い吉田松陰と高杉晋作のことを知った。司馬先生の文章は、やや誇張が大きすぎる面もあったが、松蔭にも晋作にも憧れた。何度も何度も読み返したのは、晋作が久坂玄瑞と共に、松下村塾に入門する時のシーンである。松蔭にも晋作にも憧れた。幕末の志士に憧れる方は多いだろうが、司馬先生の本だと、あまりに晋作が粋なのである。多分、デタラメもお書きになったのだろうが、晋作の粋なこと粋なこと。フィクションを突き抜けている。読んでいるものが快感を覚えるくらい、突き抜けている・・・三十の時に車中泊で山陰・九州へ旅に出た。途中で、高杉晋作がクーデターを決意して、馬に騎乗したという寺にも寄った。地図を片手に、お守りを一つ買って、高杉晋作の墓の情報を仕入れた。向かったら、あいにくの雨。結構どしゃぶりだった。着いてみて、『東行墓』と見付け、お参り。気のせいか、オーラを感じたのは言うまでもない。その後、伊藤博文が作ったという、『動けば雷電のごとく 発すれば風雨の如し。衆目慨然、あえて正視すること無し。これが我が東行高杉君にあらずや』という有名な碑文を探したのだが見付からない。仕方が無いので、近くの保育所で聞いた。大まかな位置を聞いて、向かったのだが、見付からない。すると、園長さんが雨の中やって来てくれて、さっきは間違えてしまったから、と言って私を案内してくれた。ありがたきことこの上無きことである。お礼を言い、東行(高杉晋作)の墓の前で念仏でも唱えようかとも思ったが、晋作らしくないな、と感じたので、そのまま車へと向かった。

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そろそろ意識しないとな・・・

 大学時代の友人達との新年会まで、あと一週間。いつもと同じく、草加の『IKatsu』にて行うのだが、片道二時間半かかることは以前も書いた。幹事なので遅刻は許されない。それにしては、本来なら眠る時間に、このblogを打っている。これは何とかしなければならない。草加に三十分前に着くには、午前十一時に起床するのがベストなのだ。なのに、今現在の時間は、午前三時二十六分・・・調整に苦しみそうだ。なんだかボクサーのタイムリミットまでの減量に似ている気がしてならない。こんなちっぽけなblogでも、かなりの負担になる。しかも、腹を空かして行かなければならない。当日の昼飯は抜く。それほど『Katsu』の料理は量が多いいのだ。もちろん、クオリティも高い。毎回、吐く覚悟で食べている。その上、このblogのネタをたくさん摑まえてこなければならない。結構、タフさが要求されるミッションなのだ。ミッションというのは私個人の事であって、基本的には知的な会話が飛び交う、楽しい会なのだ・・・ああ、思い出した。集合の三日前には確認メールを送らなければならないことを。それから、『Katsu』の店長に、正確な人数を知らせなければならない。今回は八人のうち、二人来れないことが既に解っているのだが、積めなければならないのだ。みんなリプライが早いので、そこの所はもの凄く助かる・・・前回は、フランス料理だったが、果たして今回はどうなるのかも楽しみの一つ。まあ、何でもいいのだが・・・若かりし頃は時間を調節するのに、起きていて対応したのだが、最近は寝て調節している。何はともあれ、終電に乗れます様に、というのが私の希望だ。

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たかが動物、されど家族

 我が家の愛犬、弥吉君はミニダックの♂で、飼いだしてから今年の五月で六歳になる。この弥吉君、一日中寝ている。飼いだした当初から、水をよく飲む犬だったが、食いしん坊でもある。先代の弥七君もミニダックスの♂であったが、こんなには食べなかったし、眠気にも強かった。弥吉君はごはんがあったら、どこまでも食べ続ける。しかも、最近は、私が食べる物を欲しがるだけではなく、安いペットフードは食べないと来た。独りでハンストをするのである。仕方が無いなあと思い、一日に一食だけ、美味しいペットフードをあげる。勿論、その時にはがっつく。獣医からもダイエットする様に促されているのだが、弥吉君は知らん顔。私が台所に食べ物を物色しに行くと、どんなに深く眠っていても、起きてきて、扉の影から様子を見に来る。飼いだした頃から、お袋のベッドで寝ることを覚えているので、寂しかったら、まず、お袋に甘える。お袋がいない時には、私の膝の上に乗る。撫でてやると喜ぶので、ついつい私も甘やかしてしまいがち。弥吉君の面白い所は、普段は吠えないのに、夢を観て吠えているのだ。普段は我慢をしているのかなあ?と考えさせられる。先代の弥七君の時にも感じたことなのだが、人間の話す言葉を、フィーリングでかどうかは知らないが、ほぼ全て察知する。わざと欠伸なんかも余裕でするのだ。そういうことを、様々考えていると、犬の順位制では、どうなっているのかと考えさせられる。でも、こんなに甘えん坊な犬は観たことが無い。たかが動物、されど家族なのだ。長生きして欲しい。

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少しは自分の頭で考えろ!!

 現在、入試の時季が迫りつつある。それに伴い、大学生達には単位をかけた試験が待ち構えている。ここ数日、このblogのアクセス数が多いのに違和感を感じた私は、原因を調べてみた。すると、おつむの無いバカな学生共が、以前、私が書いた、『工作機械』のある原理について書いたblogに群がっている。私は溜息をついた。内心、『何でこんな事も解らねえんだよ』という憤り。というよりも、自分の頭で考える事を放棄した連中が、安易にネットで近道を選んでいる様で、悲しかった。大体、大学生にもなって、そんなふざけた真似をする根性が気に入らない。学問どころか、勉強さえやっていないということが、手に取る様に解る。『まあ、こいつら、社会じゃあ通用しないだろうし、参考書の一冊も持っていない上に、授業にも出ていないんだろうな』ということは、あらかた想像が付く。私も親父の学生時代の参考書を使って勉強したこともあるし、授業にも、ろくすっぽ出ていなかったので、説教する立場では無いが、最低限、徹夜してでも自分の頭で考えた。試験の点数は解らないが、納得のいく答案は書けた。ここで思うのは、ネットという媒介を通して、楽にツボを押さえようという、腐りきった根性である。ネットの悪用と言ってもいい。楽をして一時的に理解は出来ても、将来的に、何年経っても人に説明できるぐらいに、己独りで考えなければ意味が無い。そういう風にネットを悪用する輩は、一度、大教室で学生達に教えられるかということを考えてみた方がいい。私自身も修士一年の時に大学三年生を教えた・・・要するに、人に説明できるくらいでなければ、理解したことにはならないということだ。後で困るのは本人自身であるし、勉強に対しての姿勢がなっていない。ましてや、学問など出来るものか。そういう学生を観て、あきれ返っているのが、現在の自分の心境だ。

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夢を語る少年 その5

 生徒相手でも、私は真剣に歌う。もちろん、(お寿司は)ニギってはいない。私が歌い終わり、テツの番が来た。タケルも気合で歌っていたが、テツの上手さに驚きを隠せなかった。だてに中学からバンド活動していないな、と感心した。忘れた様に時が過ぎ、私はタケルとテツに好きな曲を聞いて、リクエストしたりして、盛り上げる。気が付くと午後七時を過ぎていたので、「後一回りで終わりにするぞ」と宣言。タケルもテツも気合を込めて歌っていた。目が飛び出るほどの勘定を払い、外に出るとすでに暗い。中学生が遊びに出かけるにしては遅い時間帯だ。改札まで送り、別れを告げると、二人とも、「先生、今日はありがとうね」とタケル。「また塾に遊びに行くから」とテツ。手を振って別れ、私も家路に就いた・・・その数日後、テツが本当に遊びにやって来た。授業開けの私は疲れていたが、コップにお茶を注いで彼に渡した。書類を一気に書き上げたつもりだったが、三十分は掛かった。テツが去った翌年は、妹のアヤの英語を担当していた。テツに負けないくらい、クソ生意気だったが、テツにしろアヤにしろ、何か心の中で背負っているものを私は感じていた。テツとアヤを車で送ってやることになり、ナビに住所を入れて運転していると、ボソッと助手席のテツが語った。「こないだ九時に家に着いたんだけど、タケルが叔母さんから叱られていたよ。タケルは泣いていたけれど、どんなことがあったのかは、一言も口にしてなかった・・・まあ、タケルの叔母さんて教育ママだから仕方ないけれどね」と。それを聞いた私は、「俺は今度いつタケルに会えるか解らないから、仲のいいテツから俺が詫びていたと伝えておいてな」とテツに頼んだ。テツは、「うん解ったよ。でも、もう、ほとぼりは冷めているから、タケルも気にしていないよ」とのフォロー。私は自分が恥ずかしかった。テツとアヤを送った後、独りで帰路についている途中、タケルのことで頭が一杯だった。親の説教に対して一言も私のことに触れずに自分で責任を取りきったことを知って、申し訳なさと同時に、あいつも男なんだな、という複雑さが私の心に染み渡った。

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夢を語る少年 その4

 二人が卒業してから、約束通り、飯を奢ってやった。「ここの店はな、お前らみたいに困った生徒の相手をした時に、帰りに寄るんだよな」と言って、二人が食べ終わるのを観察していた。二人とも何も言わないので、『まずかったのかなあ?』と考えた後に勘定。涙が出るくらい痛い出費だった。それでも次に行く。すぐ側のカラオケボックスに昼から連れて行った。「お前ら飲みたいものがあったら何でも言え。今日は覚悟してきた」と言うと、タケルが買ってきてくれた。私は昼間から飲み放題。その勢いで、タケルも、「先生、一缶だけでいいからビール飲んでいいかい?」と聞いてきた。どうせ飲んだこともあるんだろうと思った私は、親にバレない程度ならいいぞ、とお金を渡した。何故かテツは飲まなかったし、タケルも350mlのビール一缶で止めていた(時効)。そして、何時間も順番で、みんなで歌いまくる。私は何本飲んだか記憶に無いほど飲んだ。中学生の冒険に付き合ったのである。場も和んできた頃、タケルが歌っている時にテツが私に聞いてきた。「あのさぁ、こないだの宿題だけれど、俺には解らないんだよね」と。私は、「テツ。カウンセラーになりたいのならもっと勉強が必要だ。学校や塾で学ぶものでは無くて、いっぱい涙を流すことが大切なんだよ」と応えた。「何で?」と聞いてきたので、「お前、まだ中学生だから教えてやる。それはね、人の悩みで泣ける様な人間で無ければ、本当にその人の様な気持ちにはなれないっていうことなんだ。考えているより辛い職業だよ・・・それからね、カウンセラーに最も必要なものは、包容力なんだよ。今のお前には、それが欠けている」と語った。厳しいこと言っちまったかなあ、と思ったら、私にマイクがやってきた。

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夢を語る少年 その3

 私の腹をどついても、所詮中学生、何ともないのだが、本当に気持ちをぶつけてくれているのに塾の一番奥のロッカールームで嗚咽した生徒を前に何も言えなかったことは忘れてはいない。『俺は何て無力なんだろう』と感じた・・・しばらくするとテツが泣きやんだ。ハンカチを貸してやった。テツも落ち着きつきつつあった。そして、私をどついた事を詫び、静かにこう語った。「学歴が大切なのは解ってる。でも、どうして、お金とか、頭のいい悪いで、人生を決められてしまうの?」と。私は即座に、「いっつも宿題をやってこないくせに生意気言うな。人の頭の構造なんて解らない。個人差があるのは解る。でも、本当に、お前、努力したのか?野口英世の言葉だけれど、人の3倍4倍5倍努力してからそういう事は言ってみろ。お前の悔しさは誰もが通る道なんだよ。もっと、自分の悪い所を治して、いい所を探してもいいんじゃあ無いのか?」と聞いた。気が付いたら、二人っきりのロッカールームで窓際の壁に寄り添いながら二人して座っていた。沈黙の時間が少しだけあってから、テツが話し出した。「俺、困っている人の力になりたいんだよね。だから、将来はカウンセラーになりたいと思っているんだ・・・自分も散々苦しんできたし・・・」と。私は驚いた。普通の中学生がこんな考え方を持っているだろうか、ということにだ。私はしばらく考え、「立派な考え方だと思う。テツにそんな野望があったとは知らなかったよ。でも、最低限の勉強はしておいた方がいいよ。勉強が面倒なのは解る。でもそれくらい乗り越えなきゃあいけない世の中なんだ・・・最後にね、俺の友達の奥さんで、アメリカでカウンセリングの勉強をしていた人がいる。みんなで集まったんだけれど、優秀なカウンセラーになるためには、何が必要か解るかい?それが今日の宿題だ」と言って、顔を洗わせてから、みんなの所へ戻った。

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夢を語る少年 その2

 テツとタケルは仲が良かった。親同士が親しかったからだ。タケルは中高一貫の私立に通っていてボンボン。テツは公立中学に通っていたが生意気。二人とも、私が塾講師を始めた初年度の生徒である。苦労したが、学ばせられることも多かった。しかし、私が心を開いてゆくと、二人とも仲良しになってくれた。タケルは私立なので、中三の時に高一の英語の勉強を教えていたが、まるっきり数学が駄目だった。模試の答案用紙のコピーに、「もっと数学らしい答案を書け!!高校以降は義務教育じゃ無いんだから甘えは許されないぞ」と書いた。テツとの共通点は、二人とも宿題をやってこないことだった。タケルはボンボンだし、潜在能力があると気付いたので、やる気の無い時には、ポイントだけを教えて放って置いた(そのまま一年が過ぎたが・・・)。問題はテツの方だった。タケルとテツは仲がいい。それなのに、片方は大学を目指し、もう片方は高卒だと覚悟していた。悩ましかった。苦労していたテツは、本来、入ってはいけないという、講師室にも入ってきていた。私は彼の鬱憤を理解していたので黙っていたが、講師の中では追い出す奴もいた(いっつもそこで私がフォローを入れていた・・・テツの悩みを感じ取れたからだ)。ある時、バカ塾長が親から月謝を受け取って、ニコニコ話している時に、テツが講師室のコピー機の影に私を誘い、小声で、「あいつ、金を払う親にはおべっかも平気で使って、自分じゃあ何にも勉強のことなんか知らないくせに、ただ押しつけるだけなんだよな。それから・・・」と言った時点で親が消えたので、私は閉じた唇に人差指一本当てて、「こっちに来い」と言って、奥のロッカールームで話を聞くことにした。するとテツは、「やってられないんだよう!!」と、泣きながら私の腹をどついた。

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夢を語る少年 その1

 昨日誕生日だった私に、徹夜の仕事が降りかかり、何も食わずにいたら、19日になってしまった。バースデーケーキを無理矢理胃に押し込みながら、今回の話は、blogのネタを模索していた時に思いついた話である・・・草加の『Katsu』の店長は、店の開業資金を稼ぐために、塾講師と飲食店の厨房でバイトしていた。塾講師を任された際に、その塾の一番下のクラスの担当になったらしい。最初は下手に出ていたらしいが、一人クソ生意気な生徒がいて、ある時、ブチ切れ、そいつに回し蹴りを食らわせて、教室全体に響く声で、「コラァ!!お前ら、椅子を引け!!背筋を伸ばせ!!」と、怒鳴ったらしい。生徒達は一瞬にして指示に従い、教室が凍り付いたそうだ。それから後の授業では、全員がおとなしく授業を聞く様になったそうだ。私も塾講師をやっていたが、そこまではしないものの、イジメなどを見付けると、いじめている奴を呼び出して、徹底的に叱った。しかし、クラス全員が丁度、思春期を迎える頃で、悩み事は絶えなかった。中にはフォローしきれないケースもあった。そんな中でも、人の邪魔はしないが、生意気な生徒というのはいた。中には、「あんだけ高い月謝払っているんだから、今度、おごってよ」などという生徒もいた。そういう場合は、「今度の試験で95点以上出したらいいぞ」と応える。「そんなの無理に決まっているじゃあねえか」と返ってきたら、私の思うツボ、「自分の可能性を否定する奴には無理だな」と返す。「畜生」と言って生徒もやる気を出すのだ。それでも惜しかったりする生徒は「捲土重来で頑張れ」と励まし、全然努力してない生徒には、「お前、このままだと行く学校無いぞ」と脅し脅しやっていく。話すことが好きな私に、好意を持ってくれる生徒も何人かいた。その中でも印象深い、テツとタケルについては明日書こうか。

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希望を持とう

 今日は、私の誕生日である。だが、そんなことはどうでもいい。ダンテの神曲の地獄の門にある様に『ここをくぐりし者はあらゆる希望を捨てよ』という歳でも無い。充分に地獄は味わい尽くした。四十代が人生のピークだと考えていた私は、フルスロットルでレッドゾーンまで叩き込み、駆け走る。途中にどんな障害があろうが、アクセルを踏み続ける。異常な次元まで加速し続ける。途中で散ってもいい覚悟で、突き抜ける。これが私の四十代のテーマだ。その礎は、幼少の頃の苦労と苦学、十代の頃の死ぬほどの苦しみ、二十代の頃の見聞と賢者と出会う旅、三十代の頃の親父の死とそれを乗り越える精神力。これらがガソリンとなり、ターボチャージャーで圧縮酸素と化合し、吹き抜ける。強大な加速度と共に。残念ながら、私は、ジェットエンジンであってもロケットエンジンでは無かった。しかし、人生という、車たるちっちゃな枠組みには治まりきらなかった。巨大なGの中ハンドルを握る。スリルに冷や汗をかく。一か八かの所で勝負する。目標があったらひたすら目指す。上を見て下だけは見ない。過ちを犯したらスピンターン。力が足りないのなら鍛える。あらゆる感受性を向けてものを観る。卑怯な奴にはなりたくないと、懸命に生きる。懸命に。宿命の十字路では、シフトダウンしながらも、アクセルを踏みながらタイヤを鳴らす。まるで幻を追いかけるがごとく、キックダウン、キックダウン、キックダウン。再びフルスロットルでアクセルを踏み続ける。ひたすらに。何のためにでは無く、何かのために・・・情熱が爆発し続ける。好奇心が後押し。だから、右足は踏み込んだまま。アクセルを踏み込んだまま・・・

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スティービー・ワンダーの一言

 私が初めて聞いたスティービー・ワンダーの曲は、小学生の頃のレッド・ロブスターのC.Mソングである。当時は、音楽音痴で、レイ・チャールズとスティービー・ワンダーの区別も付かなかった。というより、我が家には音源が無く、TVを観る暇も無かったので、幼心に、盲目のアーティストというイメージだけが残っていた。クラッシックにしろ、何にしろ、ジャンルはともかく、盲目の方には、鋭い音感が備わっている人が多い。時に心を打たれる演奏や曲がある。いつだったか、スティービー・ワンダーが来日した時、メディアのレポーターの一人が、馬鹿なことに、「今の気分を曲で表現すると、どんな気分ですか?」という失礼な質問をしたが、彼は何事も無い様に、即興で曲を演奏した。レポーターが、「さすがですねえ」という中、彼は、「今のは不出来だから納得がいかない。もう一度やらせてくれ」と話し、見事な曲を作っていたのには驚いた。『ああ、この人は、くだらなさを超越しているな』と感心・・・久々に車を運転した昨日、FMを聴いていたら、彼の言葉で、『楽しいからといって、夢を諦めてはいけない』との言葉をDJが紹介。一瞬、聞き違いかと思ったが、これは、自戒の言葉なんだな、と解った時点で、彼の汗を感じた。『苦しいからといって、夢を諦めてはいけない』とは、誰もが言う。しかし、『楽しいからといって』に彼のポリシーを感じる。そこには強烈なストイックさを感じたし、ハングリーさをも感じた・・・世の中には様々な誘惑がある。でも、それに屈してしまったら、夢は夢のままだよ、と彼は言っているのだ。成功した今現在でも、彼には夢があるのだろうな、と感じたし、心の目というものを痛感した。自省したのは言うまでもない。忘れないうちに車を駐めてメモ。そして、多分、彼が背負っている巨大なものが理解されない孤独の影を踏んでしまった気がした。

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芭蕉の世界 その2

 私は松尾芭蕉とは、単なる俳句の世界を定め、気ままに過ごした旅人だと思っていた。しかし、その当座は、俳句では無く俳諧というものだったらしい。例えば有名な、『古池や 蛙飛びこむ 水の音』という俳句は、「チャポン」という音と共に池に広がる波紋を連想させる。この、『連想』がこのテーマの主題でもあるが、この句は『蛙飛びこむ水の音』が先に出来たそうだ。古来では、蛙と言えば鳴き声であり山吹の花と合体させないといけないという決まりがあった。そこで、弟子が芭蕉に、「その句の最初は、『山吹や』ではどうでしょうか?」と尋ねた所、芭蕉は、かまいもせずに、あの有名な句を作った。これは、古来からの伝統を破る一種の日本語改革でもあった。型にはまった形式美よりも、自分の心を思いのままに表現できる道を芭蕉は築こうとしたのである。そこにこそ、美意識がある、と。これは、江戸では大変に受け入れられた。俳句と言ってしまうと、一つの句だが、俳諧というものは、連歌の様なもので、親しみやすかったのだろう。だから、あの有名な、『奥の細道』の旅路でも、俳諧形式の連歌会を何度も何度も行って、楽しみながら、じっくりと旅を続けたことが解る。連歌とは人々の輪の中で、連なるから面白い。その為の表現形式として、末尾に、『や、か、けり・・・』などの余韻を含ませた言葉で、次の人に回す。この余白が俳諧を支えている。だから全国的に普及したのだ。伴い、識字率も上がる・・・私個人では俳句よりも短歌の方が得意だが、短歌にしろ、俳句にしろ、己のアイデンティティをさらけ出す面がある。当時の人が頭を悩まし、表現したから、日本人というのは切磋琢磨した。それが代々受け継がれ、現在に至る・・・人間は努力するから伸びて行く。同時に、知恵が付くと、気付くことが多い。当然の理屈だ。そうして民度が上がって行く・・・いつか、何故、『芭蕉』と名乗ったのかも研究してみたい。

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芭蕉の世界 その1

 随分前の話になるが、将棋の故・米長邦雄永世棋聖が、京大の数学の大家、岡潔氏の講演を聴きに行った際、トラブルが起きたそうだ。待ち合わせの約束の問題だったのだが、氏は講演の時間になっても姿を見せず、急遽のピンチヒッターとして、米長氏が講演したそうだ。氏は奈良に住んでおり、講演の主催者から、「降りた所で待っていて下さい」と言われ、プラットホームに立って待ち続けたそうである。常識では考えられないことだが、氏は待ち続けたそうだ。それで、時間を過ぎたら帰ったそうである。常識では考えられないことだが、これが数学者というものである。氏は、後日、弁明してきた主催者には無頓着。ただし、ケリを付けてくれた米長には一言言ったらしい。お礼の言葉か、詫びの言葉かは解らぬが、尻ぬぐいをさせた米長にだけ、特別に講義すると言った。この言葉に、米長は驚き、完全に間違いの無い様に手配させたらしい。米長が岡氏の奈良の自宅を訪れたそうだ。米長の著作によると、マンツーマンで講義を受け、江戸幕府が鎖国をしたメリットは、芭蕉の存在と、将棋の制度だと語ったらしい。後者はややお世辞にも聞こえるが、前者が岡氏の論点だった様にも感じる。その後、米長は自身の棋士同士の対局に、岡氏を招くことになったのだが、考慮中に、岡氏が閃いたらしく、地面に数式を書き出したのを鮮明に覚えていた。「あの時、写真に撮っておくべきだった」というコメントが残されている。

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日本史と太平洋戦争について

 日本国憲法によって、天皇が象徴化された、ということに対して、それ程違和感はない。違和感があるのは、人間天皇として扱われたことだ。天皇は遙か昔から、現人神として扱われ、政治への参与もしてきた。しかし武家社会となり、室町時代前半以降、実質上、時代の変わり目に、御神輿のように持ち上げられる存在となった。将軍というのは、天皇の家臣であったし、幕府が実権を握っている時には、時の公家衆も貧困を極めていた。信長が朝廷をどう考えたかは知らないが、黒船がやって来て、明治維新となり、伊藤博文らによる大日本帝国憲法などによって、天皇が治める国として、日本は定められた。明治時代のことである。明治時代、日清・日露戦争にきわどく勝った日本は、昭和に入り、帝国主義への時代へと進む。五・一五に続き、二・二六が起き、軍国主義が進む中、満州事変を挟み、日中戦争へと発展して行く。一方でイタリアではファシズムが、ドイツではナチスが政権を取り、日本はアメリカから、ハル・ノート(日本を満州事変以前の状態にしろ。さもなくば、あらゆる処置を執る)を突きつけられた中、太平洋戦争へと踏み切る。現在でいえば、中国と戦争をしながら、米国とも戦争をするという暴挙に踏み切った。海軍の総督、山本五十六は国際的視野と当たり前の合理感によって、断固反対するが、押し切られた。統帥権という印籠によって。印籠化したのは、当時の軍部であろう。当たり前のように負け、日本は無条件降伏した。原爆を二発も落とされ、沖縄を捨て石にして・・・ここで、友人に質問してみた。「本土決戦を避けられた時間稼ぎをしてくれたのが沖縄や特攻隊であるすると、無駄死にではなかったのではないか?」と。友人は、「それは解らない。でも本土決戦をしてたら確実に日本は滅びていたな」とだけ言った。私は、連合国による『日本分割統治案』も踏まえた上で、「そうだな」と語った。

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将棋棋士・谷川浩司永世名人の去就について

 父の死後、将棋を指す相手もいなくなったので、五年近く将棋界の話題から遠ざかっていた。一昨日の日経の夕刊で、谷川九段が連続32期在位していたA級の座から陥落したことを知り、残念極まりない。連続32期というのは史上二位の記録で、一位はあの巨人、大山康晴十五世永世名人である。氏は、がんで亡くなった時にも、A級を張っていた。過去の永世名人で、実力制名人戦になってから、A級から陥落した永世名人(通算で名人位に五期在位すれば成立)で、翌年B1でも指したのは、中原誠しかいない。しかし、負けが込み、フリークラス(順位戦を戦わないプロ棋士)となって引退した・・・果たして谷川はいかなる道を選ぶのであろうか。その去就が注目されるが、結論が出されるのは、将棋界の一番長い日(A級順位戦最終局の日)が終わってからだろう。谷川九段は過去四人しか出ていない中学生プロの一人であった。最初は誰だったか忘れてしまったが、他は羽生三冠、渡辺二冠とそうそうたるメンバーである。久々にネットで順位戦を確認したが、随分、勢力図が変わっていた。ここ数年は羽生十九世永世名人と森内十八世永世名人との激突に渡辺二冠が絡むといった展開である。近年のA級順位戦では、谷川九段は名人に挑戦するという立場というよりも、残留争いに苦しんでいた気がする。中学生でプロになり、順位戦の巨大ピラミッドをトントン拍子で駆け上がり、わずか21歳で名人位に就いた史上最年少記録は、谷川九段の持つ記録として、まず破る者は現れないだろう。それぐらい、順位戦の上の方のメンツが強い。また、本人は否定するだろうが、昨年、米長邦雄永世棋聖が亡くなった後に将棋連盟の理事長職を任された事も現役棋士としては負担になったのではないだろうか。陥落が決まった一局の感想戦が終わった後、谷川九段は将棋盤を見つめていたと知った。その胸中、計り知れないものがある。

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馬鹿馬鹿しい自分

 今日は落ち込んでいる。創作意欲が湧かない。

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毎日毎日僕らは鉄板の~

 私が六年半以上blogを書いてきた事には意味がある。大学の同期の友人達の宴でそれは始まった。一人一つずつ、次の集まりまで約束事をしようではないか、との提案だった。中には、ごまかす奴や、嘘をつく奴もいた。しかし、私は堅実に守った。それが、彼等から僕への思いやりだと信じたからである。自費出版もした。一冊7000円だという。馬鹿馬鹿しくて辞めようかとも思ったが、未練があった。どうしようもねえなあ、と思っているうちに、いくつか私に甘い話が来た。友達経由で。けれど、順調に書いていた小説が40話っきりで書けなくなった。主人公はそこから女と同棲するはずなのに、全くイメージが湧かなかった。経験が無いからである。苦しんだ。苦しんだ挙げ句に友達に、「申し訳ないけれど・・・」という言葉を送った。屈辱以外の何物でもない。某出版社との契約まで受け付けてくれていたのだ。私は、本屋に行って、その出版社の本を二冊程買った。どちらもゴミ箱行き。levelが低すぎたのだ。吉本ばななの本を読む暇があったら、僕は古典を読む。村上ロンの小説も最悪だ。中身が何も無い人間が偉そうにしているだけだ。類似しているのは石原慎太郎。太陽族だか何か訳が解らない小説で芥川賞を採った。あれは大きな間違いだと思う。文学界にとって。芥川龍之介の切れ味には、尊敬の念を抱く。しかし、芥川賞には興味が無い。もらっても辞退する。それほど評価する者達が堕落していると言うことだ。

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”うつ”の特効薬

 昨日の昼、ある友人から電話があった。寝ていたので、最初は、大学時代の友人と勘違いした。中高時代の友人だったのである。目が覚めるにつれて、いろいろと話をしたが、うつ状態で、会社を休んだらしい。昼から酔っていたので、深刻だなと感じた。そこで、私は、まず、自分の飲んでいる薬について語った。「俺も精神安定剤飲んでいるけれど、内科では胃薬に使われるそうだ。他二錠は、小便止め。あと二つは抗うつ剤かなあ」と話し、それ程効き目が無いことを話した。「医者が薬だって言ったら、小麦粉でも利くらしいじゃあねえか」と。彼は笑っていた。うつになった経験のある私は、うつを治すには、よく食べて、よく飲んで、深く眠ることが大切なんだよ、と語った。続けて、「ユウウツなんだろ?」と聞いたら、「そうだ」と言う。すかさず私は、「あのなあ、ユウウツとうつでは症状がまったく異なるぞ。”うつ”っていうのはどこまでも沈んでいく感じで、底が見えない。けれど、憂うつというのは、”うつ”を憂うって書くだろ。その分、前向きなんだ」と話した。魂は死んではいないことを強調したのだ。ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』が発表された当初、当時のドイツではヴェルテル病というのが流行り、若者の恋愛自殺が(片思いかもしれないが)起きたそうだ。小林秀雄は、「そんなことは、ゲーテの耳には届かなかったであろう。独り模索を続けた雰囲気が伝わる」と書いてある…いかなる道でも、斬新な好奇心と決して弱音を吐かぬ逞しさが重要だと考えさせられた一日であった。

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えっ・・・

 私の出身大学で、理工学部機械工学科のみに絞られたサークルのようなものが作られた事は先日書いた。しっている面々も多い中、知らない面々とも出会った。みんな課長クラスにはなっている。こちらとしては、渡す名刺もないし、面倒だなと考えていた。私は戦っている人間にしか興味を抱かない。私の通った大学には大金持ちが1%、残りは貧乏生徒が99%だった。そういうコネを使う悪どい奴もいる。金持ちを大事にして、庶民はこき使う。こんな奴等について行けるか!!と思ったのも十年前の事。もう、忘れさせて欲しい・・・今回、驚いたのは、大学一年の時のクラス名簿が見付かったとのことだった。。パソコンも普及していなかったあの頃に戻った気がした。自分のクラスは載っていなかったけれども、懐かしさを感じた。しかし、後のファイルを観てみたら、私の雑文だらけ。怒る気にもなれなかった。それを観たお袋が、「これで、兄ちゃんの文章が後世に残るね」と、しみじみと語ってくれた。『これでよし』と遺言でいったのは、ドイツの哲学者、カントであるが、カントは時計通りに動く人だったらしい。それを観て、皆が時計を直すほど正確だったそうだ・・・従姉妹で年下の奴が去年来た。馬鹿馬鹿しいので私は酔って対応した。その夫婦の子供の名前がカントであった。首もすわっていない赤ちゃんを父の仏前で振り回していた。今年の年賀状で『また遊びに行きます』と書いてあったのには母も閉口した。西洋の言葉で『カント』が何を意味するか、調べたきひとは調べられよ。

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告白

 私は、これまでの人生の中で、「つき合って下さい」と告白したのは三度しか無い、それも三打数一安打。高校まで男子校で大学も機械科。女っ気の無い所だった。友人などはパーティーや合コンに明け暮れて、女性と付き合っていた。留年組の友人の中には、同棲している奴もいた。試験後の飲みで、部屋中に世界中の酒の空ボトルが置いてある友人に、「酒と女とどっちを選ぶ?」という質問をしたら、「酒じゃあ」と言っていたが、就職が決まると、女を選んだ。まあそれも良し。かわいいではないか。私の場合は、大学一年の時に恋に堕ちた。前期試験で警告を食らったのはドイツ語だけであったが、後期試験はドイツ語以外頭に入らなくて、全科目白紙。留年も覚悟したが、前期の貯金で何とか二年に上がれた。恋の病である。私はクラスでも目立っていた方なので、友人から、「あの女は性根が悪いで」などということを何度も繰り返し聞かされた。大学二年になり、半ば専門に移った秋、思い切って告白したが、「1日考えさせて」という返事のまま、振られた。思いの丈を告白して振られたのだからすっきりした.彼女の耳に入らない友人みんなの席で、振られたことを告白、潰れるまで飲まされた。中途半端な想いがすっきりして、落ち着いた。二度目の告白も大学三年の時。同じ娘だった。その時は、門前払いで、他に男を作っていた。私を想ってくれる女性は他にもいた。だから、彼女らが男を作るまでは、独り身でいようと決心した。だから、未だに独身なのかも知れない。三度目は、大学院を辞めた後、塾講師をしていた時に、仲良くなった娘だった。付き合うことになったが、ねだるばかりのクズだった。精神的にイカれてもいた・・・もう、思い出したくも無い。心をえぐられた傷は深く、自分を立て直すのに精一杯だった。あれから十年以上。友人はみんな結婚し、子宝に恵まれ、私は気ままにやっている。そんなスタイルは嫌なのだが、これまで相手にしてきた女がひどすぎた。自分を責めすぎた。本当の意味で素直にというか、精神的に裸になれる自分になりたい。

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懐かしい友達

 大学時代、それほど付き合いは深くなかったのだが、友人の友人という感じで、名前だけは覚えている友達がいた。彼は日本人なのだが、育ったのはアメリカらしく、卒業後、アメリカのバイクか車のパーツで有名な企業のエンジニアになったと聞いた。その後、いくつの時かは知らないが、たしか南米出身の女性と結婚し、たまに日本にやって来るという感じだったようだ。そんな彼から、一昨日の晩に、フェイスブック(以下FB)経由のメールをもらい、今年の年末年始は日本に帰って来ていた事が解った。年末に京都に行ったらしく、まだベビーカーに乗っている娘さんと、奥さんと、彼との写真もあった。こういう時にはFBのありがたみを感じる。一つ一つにコメントを書いた・・・このblogを書く前に、FBをチェックしていたら、大学時代の理工学部機械工学科のみで結成されたグループがあることを知った。なぜかそこに私の名前もある。多分、草加の『Katsu』の店長の名前もあったので、彼が私も入れたのだろうな、と容易に推察できた。まあいいのだけれど、コンセプトが今一つ解らないが、それもまあいい。まだメンツは10人以下みたいだけれど、大学時代の新年会で会うメンツが私を含めて四人いた。もちろん、定期的には会わないが、上記のアメリカからの友人も含まれている。そのうちの一人はプチ忘年会の時に会った友人で、一昨日、アメリカからの友人と飲んだとFBに書かれてあった。プチ忘年会の時のもう一人は、FBをやっていない。それにしても、大学にしろ中高にしろ、FBでサークルのようなものが結成されつつある。二十年前では考えられない世の中になったものだ。

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真っ直ぐな道でさみしい

 『真っ直ぐな道でさみしい』という言葉を知ったのは、TVか本か漫画からかは覚えていないが、散文詩の種田山頭火の言葉である。紆余曲折の人生を辿った方だ。父方の爺ちゃんの本棚にも、山頭火の歌集があった・・・素直に生きることと、真っ直ぐに生きることは違う。素直に生きることとは、後ろ指されること無く、正直に生活していくことをいう。これは、あくまでも、ノーマルな生き方なのだ。これだと、面白みは無いが、自尊心も傷つくこと無く、楽に生きてゆける。単なる処世術なのだ。素直で無い人間が多い中、人格者として成り立つ。しかしながら、真っ直ぐに生きることというのは、世の中などの常識は無責任であることを知り、世間の評価など気にせず、他人の視線では無く、自分の人生を自分の信じる正しい道に向かって生きる人のことをいう。こちらは、生きるのにやや骨が折れる。正直言って、クソ真面目すぎるのだ。その代わり鋭いし、大抵、人生で何か人より重いものを背負っている。これは生きにくい。しかし、そうで無ければ生きられない所がややこしい。山頭火は間違いなく後者であった。だから、酒に逃げたし、妻子を捨てて得度した晩年、『真っ直ぐな道でさみしい』と、自己告白の様な言葉が出て来たのであろう。こういう人は、形式的に馬鹿な振りは出来ても、本音はいつも冷めている。精神の内面は不器用の塊なのだ・・・山頭火では無いが、あれだけの無頼漢を誇った囲碁の藤沢秀行でさえ、死ぬ間際に、『のたれ死に』という本の中で、『酒でも飲まなければ神経が持たなかった』と告白している。複雑な思いであった。

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刑事コロンボと警部補・古畑任三郎

 刑事コロンボの存在は知っていても、観たことが無かった私は、撮りだめしてあったものを、新年に入って4話観てみた。『なんだよ、古畑任三郎のパクリじゃねえか』と一瞬思ったが、元祖が『刑事コロンボ』で、後から脚本の三谷幸喜が設定をパクって、『警部補・古畑任三郎』を書いていた事に気が付いた。間抜けである。コロンボと古畑任三郎の仕草も似ているし、トリックが同じものもあった。『刑事コロンボ』が水の出ていない庭の噴水の下に遺体を隠して埋めているのに対し、『警部補・古畑任三郎』では、記念碑の下だった・・・まあいい。普通サスペンスというと、最後に犯人が捕まるのが常識だったものを、逆転の発想で、最初に犯人を明かして、刑事が矛盾に気付き、推理し、最後はロジックによる動かぬ証拠で追い詰めて行くのは、観ている方としては痛快である。ただ、ロジックが後付けになってしまうケースが、どちらの作品にも多々あるのはやむを得ないのかも知れないが、残念な点でもある。私は、こういう作品を推理小説として書けるのかと考えてみたが、多分、不可能であろう。映像が伏線となり、かつ、会話の矛盾を隠す効果があるからだ。そう考えると、逆に、最期に犯人が分かる小説で、映像化できないものは、駄作ということになる・・・『刑事コロンボ』を観ていて思うのは、コロンボがどこでも葉巻を吸っているということに、当時のアメリカの時代背景が伺えることだ。現在では、日本でも考えられないことである。古き大らかな時代のアメリカを感じながら鑑賞させてもらった。

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初夢が正夢に

 今年の初夢は何だろうな?と思って、一昨晩の午前二時に床に就いた。ここの所、いい夢を観ていたので、期待していたら、今年の中高時代の新年会の幹事が、スケジュールに困って悩んで、奥さんに相談している夢を観てしまった。時計を観ると午前五時。ろくでもない夢を観ちまったなと思い、寝直そうとしても眠れない。仕方が無いので、TVを点け、NHKの天気予報を観ようと、タバコを吸っていた。しかし、正月なので、石貨のある太平洋の島のドキュメンタリーをやっていた。漠然と、子供の頃に観た、『はじめ人間ギャートルズ』というアニメを思い出し、興味を持って観ていると、石貨と現在のお金の違いは、石貨には、その島の人々のいろんな気持ちが込められていて(特に感謝の念)、それが元で、島から争いごとが無くなったという神聖な意味合いを持つということを知り、為になった。その後、天気予報をチェックしてから、再び眠りに就く。正午頃、目が覚め、駅伝を観ながら、メールチェック。幹事からは音沙汰が無い。例年は私ともう一人の友人が中高時代の新年会の幹事をやって来たので、年賀状の中には、『今年は新年会やらないの?』というものもあり、去年の新年会開けに、幹事をすることになった友人から、『来年のカレンダーを観てみましたが1月4日(土)に新年会をします。みなさんその日は開けておいて下さい』とのメールがあったので、安心して放って置いたら、去年の12月30日に、スケジュール調整のメールが来た。すぐに返信したが、二人ほど単身赴任になった友人がいたので、ポシャるかもな、と危惧していたら、案の定、後ほどメールがやって来て、『みんなのスケジュールが合わないので、今年の新年会は中止します。個々で集まってください』との内容。20年続いた新年会を自分勝手にポシャらせてしまった上に謝意も無い。こいつ無責任だなあ、と思ったと同時に、嫌な初夢が当日に正夢になってしまい残念である。

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初詣とおせちとおみくじ 2014

 大晦日に年越しそばを食べてから、紅白を観て、年を越してからフェイスブック(以下FB)をチェックし、blogを書いたら、午前三時に寝ることになった。翌日、目覚めると、既に正午を過ぎていた。元旦から大寝坊である。完全に目が覚めてから、母が年末から用意してくれた三段重ねのおせちの三段目の縁起物(母は午前十時に起きたらしいが、おせちは縁起物だからと、私が起きるまで何も食べなかったそうだ。申し訳ない)をつまみ、雑煮を食べた(うちの雑煮にはカキが入っている)。その後、年賀状を見て、FBに自分へのコメントがあるかだけ観たら、草加の『Katsu』の店長の友人から、『明けましておめでとうございます。初詣に行ってきました』とのコメントがあったので、私が、『俺はこれから初詣。大吉引いてくるよ』と書き込んで、去年の破魔矢を持ち、大慌てで支度。バスと電車で母と初詣に出かけた。夕刻なのですいているだろうと思っていたら、計算外、本殿に行くまでに一時間半かかった。その間に陽も暮れていた。お賽銭を入れ、今年の破魔矢を買い、おみくじを引いたら『小吉』だった。疲れ果てて家路に就き、帰宅したら、三時間半が経っていた。手洗い、うがいをし、送っていなかった年賀状を三枚書いてから、FBを開くと、書き込んだ友人から、『大吉は後は落ちるだけだから、大凶引いてこい』と書かれてあったので、『小吉だった。でも、俺、正月に凶引いたこと無いんだよな。不思議なのは、三年連続して、(学問):もっと国語を勉強しなさいなんだよな』と書いたら、友人から、『この期に及んでまだ勉強かよ』と、来たので、私も同感の極み。夕飯におせちを食べて、三段を二段に減らした次第。

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プチ忘年会2013 その6

 新年早々に去年の忘年会の話を書くのもおかしなものだが、それだけ内容の濃かった話ということで、続きを書きます・・・・・・友人の一人が、「何で政治家が靖国神社を参拝したら、諸外国から非難されるか解るかい?」と聞かれたので、「諸外国は、A級戦犯が合祀されているから、と言うよな」と応えると、「確かにそれもあるけれど、日本の宗教は、あくまでも神道なんだ。はるか昔から、例えば出雲大社にはオオクニヌシノミコトが祀られているんだけど、神社というのはお墓の意味合いもある。神道というのは日本独特の宗教だから、キリスト教などの宗教母体を持った国から観れば、理解不能なんだ。ましてや、中国の宗教は、現在は共産党だし、無宗教の国には解らないんだ」と教えてくれた。「なるほどなあ。日本の宗教は神仏習合だと考えていたよ。死者を納めるのは、お寺ってイメージがあるからなあ。それに、聖書には哲学を感じない。とんち本みたいな感触だな」と私が言うと、もう一人の友人が、「神道で足りない部分を、昔の賢人が仏教で補ったんだよ。靖国神社には、坂本龍馬も祀られているんだよ」と付け加えてくれた。私が、「明治になって、王政復古に伴う廃仏毀釈で、寺がずいぶん潰されたらしいな。四国の金比羅さんも今は神社だけれど、元々は寺で、サンスクリット語でワニを意味する『ゴンビーラ』から来ているんだとある坊さんに聞いたことがある。だから金比羅宮は海の守り神になっているんだ」と言うと、二人とも、「そうなのか」と頷いた。すると一人が、「北日本と南日本では廃仏毀釈でほとんど寺が無いんだけれど、なぜか関東には寺がたくさん残っている・・・実はこれ、関東では神社と寺が別々に存在したからなんだ」と話してくれた所でラストオーダー。電車の時間もあるし、締めてもらって、駅の改札まで二人を送った。二人とも、その赤提灯の店を気に入ってくれて良かった。私は、学生時代に鍋を囲みながら、一晩中、議論していた頃を思い出していた。

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明けましておめでとうございます 2014 プチ忘年会 その5

 あけましておめでとうございます。昨日の続きからになりますが、このblog、ネタが無い時にはあくまでもない。ある時には溢れかえるといった次第です。どうぞ気楽に読んで下さい。それでは昨日の続きから・・・・・・いろんな話が続く中、前にNHKで観た司馬遼太郎さんの言葉が忘れられなかったので、言ってみた。「司馬遼太郎さんは昭和という時代を極端に嫌っていたみたいだよ。実際、本も無いだろ。『ノモンハン事件』についても異常に調べ上げたらしいけれど、拒絶したらしい。司馬さんも学徒出陣兵だったからなあ」と言うと、友人の一人から、「今、俺の娘達が、司馬さんの、『坂の上の雲』を読んで、乃木希典に関心を抱いている」と語った。もう一人の友達が、「東郷平八郎では無くて、あの乃木なのか?」と驚いていた。旅順の二〇三高地を人海戦術で落としたのはいいものの、十万人以上を殺したという将校だ。「それでも興味を抱くのは、乃木みたいなんだ、と彼は刺身のツマをつまむ。それならと、私が、「東京に乃木神社ってあるだろ。明治天皇が崩御した際に殉死したから作られたものだと思うんだけど、神として祀られているんだよな。司馬さんの短編で『殉死』という本があるから紹介してあげたら?中身は全然面白くなかったけれどね」と言った。すると彼は面白い解答を教えてくれた。それも、安倍総理の靖国神社参拝問題からだった。

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