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2013年11月

父の可愛げ

 家の父は、物作りが好きで重工に行った様なものである。その親父が、私が小さい頃に、貯金箱を作った。一辺30cm位の、立方体の木製の貯金箱である。金を入れるところには、当時の母の唇が描かれていたし、この上なく頑丈な物だった。私も弟も、笑いながら、5円玉とか10円玉を入れていた。子供の約束の様に、その貯金箱はぶっ壊されるのだが、大金を手に入れた覚えはない。せいぜい駄菓子屋で何か食べられる程度だった。それでも、親父とお袋が一身を犠牲にして、私達兄弟の犠牲となって塾に通わせてくれた。学問を身につけさせてやることが、最大の使命だと、母は買いたい服も買わずに頑張ってくれた。一方で親父は、末っ子のせいか、遊び心に満ちあふれていた。会社の上司が八幡平に行きたいということで、付き合った時には、『ゆ』と書いたのれんを買ってきたし、わんこそばも食べたらしい。他にも、これでもかという南部鉄器の灰皿を買ってきて、テーブルの中央に置いていた。親父はもういないが、その灰皿だけは、家の中にお住まいである。

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JFKの娘

 私が生まれる前に、JFKは暗殺された。ダラスで。アメリカの歴史とは暗殺の歴史でもある。JFKが暗殺された時の娘の何とも言えない写真を見て、苦しんだ。大体、JFKの暗殺の主犯格はオズワルドということになったが、そいつも消された。私の読みでは、フーバーがやったに違いないと観ている。あの頃のアメリカは良かったね、という象徴がJFKであろう。私が、ワシントンDCで観たJFKと奥さんのジャクリーヌの墓には火がともっていた。一方、今回、駐日大使になった、キャロライン・ケネディさんは、これ以上ないおもてなしを受けた。団塊の世代の憧れなのである。私でも目を疑った。ケネディ家では、毎日、政治や国際についてのディベートを開いていたらしい。だから、伝説に残る大統領になったのだ。その娘のキャロライン・ケネディさんが駐日大使になった事は嬉しすぎる。就任直後に東北地方を巡ってくれたこともありがたいが、日本がアメリカが決めた憲法で、どうしようもなくなっている領土問題に対し、尖閣に爆撃機を飛ばしたというのも、日本人の鬱憤を晴らしてくれた。この人の政治思想は、大分、右だと思ったが、否定はしない。日本と韓国では、重さが違うのだ。敗戦国として何にも言えない事をいいことに、韓国と中国とがやりたい放題やってきた。ODAを受け取りながらそれはないだろう、という目にも遭ってきた。それらの不合理を、全て解決してくれる様に望む。

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定義か定理か・・・

 高一の時、私立に通っているという理由で、私ともう一人が上のクラスに放り込まれた。彼の方が全然、出来が良かったけれど、塾が終わると茶碗洗いをしてから、二人でディスカションをしていた。ある時、試験で、場合分けの面倒な問題が出て、時間を使いすぎて、他の問題で楽勝問題がないかと探していた時に、大問で、『実数Aの0乗=1である。これは定理か定義か、また、その理由を述べよ』という問題があった。私は、山勘で『定義』と書き理由の欄に、『そうすると数学上都合がいいから』と書いた。彼は、『定理』と書いたと後で言っていた。『定義』と『定理』では、意味合いが異なる。『定義』というものは、所詮、人間が決めたもの。『定理』というのは、原理に基づいて証明されたことの事である。人気のない小道を二人して議論しながら歩いて行った。翌週、答案が返されたのだが私の方がビンゴだった。しかしながら、理由に書いた、『数学上都合がいいから』という理由に関しては、赤ペンで『どういう風に都合がいいんだよ!!』というツッコミを入れられ、点数がもらえなかった。その問題の出来は、余りよろしくなかったらしく、再度講義された。要するに、指数法則上で、そう決めた方が都合がいい、との話だった。つまり、そう定義した方が、指数法則に連続性が出るからだ、との教えだった。

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相反原理(Maxwellの原理)について

 私が進んだ材料力学の研究室は滅茶苦茶だった。当時の助教授自体が、何にも解っていなかったのである。途中から、時間を超しても私が教えることにした。助教授は不服そうだったが・・・材料力学の根本が、相反原理で成り立っていることも解っていない奴だった。相反原理とは、原理である。従って、人間が経験則的に決めた原理なのである。ある物体に、A点にFaという力をかけたら、B点でδaという歪みを生じる。B点でFbという力をかけたらA点でδbという歪みを生じるという原理である。そこから、材料力学の定理が導かれて行くのである。つまり、原理が解っていない人間が、なんぼ偉くても、駄目な奴は駄目なのである。二十年近く使ったOHPをぐるぐる回しても、誰も何にも解らないのだ。だから、最初の30分は当時の指導教官に逆らって、僕が大教室で講義した。そいつの講義を聴いても何も解らないと思ったからである。人が徹夜で点数計算しても、普段は10~17時。公務員よりもひどい有様だ。その中には昼飯休憩もある。私は次第に大学に出ない様になった。そんな時、「私が教授になれないのは、君たちの論文が駄目なせいだ」と研究室でブッたらしい。後でみんなが言ったことだが、「そんなに教授になりてえんなら、てめえで論文書けよ」ということになったらしい。そんな馬鹿には院の二年に上がった四月に、退学届を出した。4/21の事である。

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いい加減にしろ!!

 家の地域では、ゴミをカラスが荒らすので、折りたたみ式のネットを張って防いできた。指数関数的にカラスの被害が増えていたのだ。一組数十万はするネットを二つとも焼いた馬鹿がいる事を知って、私は憤りを感じた。みんなで使う公共の物を、どうしてそんなことができるのか。私には、甚だ疑問である。公共の物をエゴでぶち壊す奴なぞ、この町にいる資格はない。とっとと出て行ってもらいたい・・・親父もそういうことには厳しい人だった。ある時、どっかの学生が、電車のドアを蹴っているのを観て、「お前、何やっとんや。迷惑やから次の駅で降りんかい!!」と、引きずり下ろしたことがある話をしていた。私が同じ立場でも、そう言ったろう・・・この話を八海山の酒粕で甘酒を飲んでいた母に話すと、同じ様な思い出がある、と言った。神戸時代、電車の中で、酔っ払いに絡まれて迷惑していたところ、向かいの席の青年が、「おっさん、ええ加減にしといたれや」と言った所、今度はその青年に絡み出したらしい。やりとりを観ていた、がたいのいいお兄ちゃんが、「おっさん次の駅で降りろ。心配せんでも、俺が降ろしたるさかい」と言って、駅に放り投げたそうだ・・・その後、父と母が一緒になって、よくよく話を聞いてみると、親父にも同じ様な体験があったそうだ。まだ親父とお袋は出逢っておらず、面識もなかったのだが、最初に声をかけた青年が親父だとしたら、不思議な因縁を感じる次第である。

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親父の言葉

 家の親父が、「兄貴は賢くない」と言った。バリアフリーかなんだかしらないが、ばあちゃんが死ぬほど大切にしてきた部屋を改造し、中途半端な部屋に、価値のある特注の仏壇だけ残していたからである。家の親父が八年間、がんと苦闘していた情報だけで、「わしも頑張る」と言っていたそうだが、最期は脳にまでがんが転移し、半年で死んだ。カミさんもどぎつい人だった。ある時、「あいつ(親父の馬鹿兄貴)も、子会社行かなければ、部長にはなれたやろうか?」という、ばあちゃんの問いに、親父は即座に、「なれん」と言ったそうだ。当たり前だ。仕事仲間と現場の人達を結びつけるのでも、神経をすり減らすのである。そんなことが、あの馬鹿兄貴にできるはずがない。もう一人「あいつは馬鹿や」と言っていた従兄弟がいる。アラブの男と結婚した馬鹿従姉妹だ。私は、若い頃、イスタンブールに行ったが、バックパッカーだと言っているのに、絨毯屋がしつこく声をかけてくるので、「Fuck Up  & Go Ahead」と中指を立てて、舌を出してやった。アラブの男がどれだけズル賢いか、身をもって体験した。その従姉妹は、アラブの奴とくっついて別れ、×2である。こうなることを親父は見抜いていたのだ。金の切れ目が縁の切れ目、ということを平気でやってくるのがアラブ人である。そのクソやろうとの間に、二人の娘ができた。小学校の時点で留年している。こんなのでいいのか?

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@9.11

 9.11の時のテロの時、私が一晩中、情報収集と考え事で眠れなかったことを友人に話した。朝になって新聞全部を買い、酒を飲みながら、泣きながら全ての記事を読んだ。英字新聞も含めてである。まだ情報が錯綜していた時期だったが、テロであることには間違いが無かった。人ごとではないと思い、涙を流した。そんな中で、バス停に向かう革靴と、ハイヒールの音が耳に付いた。中には、『コイツ馬鹿じゃあねえのか?』という表情もあった。私は、『これだけの事件が起きた後に、まともに通勤できるおまえらの方がおかしいんじゃあねえのか?』と思い、『他人事みたいに受け入れているコイツら、頭おかしーんじゃあねのか。明日は我が身って事が解ってねえ』と嘆いた。おまえらの悪胤が残っても、さらに國を滅ぼすだけだぞ、とも思った。その象徴が安倍君と麻生君である。「麻生が総理の時は台風が来ない」何馬鹿なこと言ってやがんだ。もし台風が来て、被害が起きれば、国が保証するっていうことなのか?安倍は親父が東大の金時計で、岸の血も入っていて、英才教育で某私大・・・こんな馬鹿共に日本の国を動かせたくない。税金ばっかり増やしやがって、貧乏人は死ねってか?その上、秘密保護法案ってなんなんだよ。右傾化しすぎているぞ。おい、安倍君、国防軍作るのは勝手だけれど、士官学校の地位を上げるのが先だろ。俺らの世代では、普通の大学に受からん奴が、防大に行ってたぞ。

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電子辞書と普通の辞書

 弟夫婦の子育てが成っていない、と言って中二のガキには英和辞典を小二のガキには国語事典と漢和辞典を買ってきた。正月に渡すつもりらしい。弟夫婦は電子辞書で構わない、みたいなことを言ったが、電子辞書などで単語が覚えられるものか・・・便利を追求すると、ロクな事が無い。それこそ辞書を食うぐらいの根性が欲しい。中二の長男は、リトルリ-グに入って、未だに、プロ志望であるから、バカである。確かに、エースで五番を打っているらしいのだが、滅茶苦茶に打たれているそうだ。今後どう変わるかは解らないが、180cm50Kg代の奴が通用するほど、プロは甘くはない。解ってんのか解っていないのかは知らないが、弟とそのカミさんもそっちの方には銭を使う。プロ目指して一本槍でやっていけるほどの才能も無い。大体、孫に辞書を買うのもおかしい。「電子辞書でいい」などと言うのは、奢りである。弟夫妻は、まじめに勉強したことが無いので、何にも解っていないのだ。ゲームを買う金があったら、辞書ぐらい買ってやれ、と言いたい。次男の方もイカれてる。ほっといても平気な様に、ゲームを買ってやっているのだ。私が話していて、次男も賢いとも思ったが、躾が成っていない。どういう教育してるんだ、とは言いたい。私が同じ事をしていたら、親父に殴られただろう。そういうセンサーがぶっ壊れている親ばかりだ。

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瀬戸のばあちゃんとの今生の別れ

 瀬戸のばあちゃんとの別れが近づいてきた。末期の胃がんと肝臓がんだそうである。瀬戸のばあちゃんの面倒は、広島におる、母の弟に当たるに当たる叔父さんが観てくれている。母は赤貧状態の我が家も顧みず、遺産相続の際には、黙ってハンコを押した。私が稼げばいいだけの話である。三兄姉の真ん中の妹は母に、「お母さんのことは、うちらでするけん、心配しないで」と言って、ハンコをつかなかった上に、何にもしてくれていない。葬式の時も、一周忌の時も、速攻で気まずそうに帰って行った。明日から、祖母はホスピスみたいなところに入る。ホスピスとは『死者の家』みたいなものだ。それで昨日、親戚の叔母さんがわざわざ電話をくれた。取ったのは母だが、瀬戸のばあちゃんも大分、落ち着いていたらしい。母が欲しい服も買わずに送った服をけなしたのは、真ん中の妹だ。あんな奴などいらない。そのバカとばあちゃんはくっついていたのだ。もしも、私が亭主だったら、ただではおかない。それだけの罪を犯してきた。まあ、そういうのは因果応報の名の下に自然消滅するからいい。電話の最後にお袋がミカンを送って澪らったれいを言う際に、その叔母さんの一人息子である子が受験生だったので、私が、「頑張ってねって伝えておいて」と言ったら、叔母さんは明るくなり、「頑張りすぎない様にって伝えといて」と頼んだら、笑ってらしたそうだ。機械工学科については、いつでも相談を受けるつもりだ。

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拝啓 18歳の君へ

 瀬戸のじいちゃんが他界してから四年が経った。母の弟に当たる叔父さんの一人息子も高三になった。野球部も引退し、ファッションにも困っているだろうが、勉強の山場でもある。かつてのじいちゃんからは、「医者になれよ」と言われたらしいが、機械系に行きたいそうである。公立だと一浪は覚悟しなければならないのだが、是非とも後輩になって欲しい。私の卒業した大学の機械工学科では、『材料力学』、『流体力学』、『システムダイナミクス(簡単に言ったらニュートン力学の複雑版)』が三本柱で、そこから研究室のカラーによって別れていく感じだった。決してメカメカしたものは扱えず、理論のみだった。私は大学でやりたいことを見付けようと思っていたが、友達は見付けても、解らなくなっていた。結局、巨大な親父の肩を追いかけて、材料の研究室に入ることになる。腐食疲労実験だったので、材料が破断するまで、好きな本を読んで過ごした。学校に行きたくない時は、低応力で実験し、半月ぐらい社会勉強していた。拝啓 18の空に輝く従兄弟へ。悩み多かりし歳なれど、人生の総合設計をしてから、大学に通うのも悪くはありません。首都圏のレベルと広島のレベルはかけ離れています。でも、じいちゃんが言った通りにしたいのなら、何処の大学でも受かるだけの実力を身につけてご覧なさい。それが1年後でもいい。自分の本当にやりたいことに目覚めてね。僕の真似はしなくてもいいから。~ファイト!戦う君の歌を 戦わない奴等が笑う ファイト!!  敬具

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一緒に寿司食った友人とのチャット

 先程、こないだ四次会まで廻った友人とのチャットに成功した。私が気軽に話しかけてみたら、リプライがあった。私にある人を紹介していてくれる仲だ。人脈のある元編集長なのだが、私は同姓の友人を紹介しようか?などという間抜けなコメントを出してしまった。チャットは、この辺が怖い。誤解が解けて、大笑いになったのだが、それからは話がトントン拍子に進んだ。未だ、その先生とは連絡が取れたわけではないが。彼が、「俺たち未だ41だぜ。ガンガン行こうぜ」と書いて来たので、四十年間の人生を苦しんできた私も、「肩の力を抜いていこうぜ」と返した。それから、私が、「俺がまだ15の時、日本人で初めて、数学のノーベル賞を獲った小平邦彦氏の娘さんにあたる、おばちゃんの数学塾に通っていた話をして、私は四十代で通用する人材を作りたいって話をしたのおぼえてるか?」と聞いたら、彼は、「申し訳ありませんが、全然、記憶にない。ただ、気持ちよく飲んだ記憶はある」との知らせ。一瞬唖然としたが、返事に、「男って奴は、港を出て行く、船の様だね(冬のリヴィエラ・森進一)」と少し変化球を投げると、「悲しけーれば 悲しいほど 涙溢れる(同上)」と返してきたので、私が、「そなたなかなかやるな」と書いたら、「本物の編集長から連絡があったら、速攻でメールよこすわ・・・ただ、あの人はFB観ないんだよな」と書いてきたので、今は運を天に任せるしかない。

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潰れゆく会社

 近頃の@niftyの横暴はふざけすぎている。私は自分の貯金から、月あたり600円弱を引かれていたが、向こうから、一方的に手数料みたいな金を客負担にさせた。それで、『無料blogなら@nifty』と謳ってやがる。何で金払っている奴が馬鹿を観て、そいつらをささえなければならないのだ。無茶苦茶な話である。今日、自分のページを見ると、アクセス解析ができなくなるという。これもふざけた話だ。私はblogを書く際、必ずアクセス解析から入る。稚拙な観に来てくれた事への感謝の念があるからだ。大体、今の@niftyは腐っている。天気予報と占いのページは、いつまでも塞がっている。私のせいか@nifty君のせいかは知らないが・・・そもそも、私は、infoweb系と契約したのであって@niftyとは契約してはいない。@niftyが勝手に買収したのである。ユーザーにとっては、とにかく迷惑千万な話である。その因縁で、友人からの、ウイルス疑惑をかけられた。なんとも迷惑千万な話である。以前・・・と言っても十五年ぐらいの話ではあるが、国際電話詐欺にも遭った。その友人は、すぐにそれを消した方がいい、と教えてくれて、即座に消した。料金700円ぐらいだった・・・@niftyさんも健全な態度でいろよな。1プロバイダーさんとして張ってんだろ?今、俺の友人及び知り合いでベンチャー張ってた奴は皆苦しんでいる。資金繰りで・・・@niftyさんもどっかの子会社になる時代なんだぜ。

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地震予知

 地球物理学者でもなく、地震博士でもない私が、昨日か一昨日の地震を予知していた。その事は身内にしか知らせていなかったが、震度4がやってきた。被害が少なくて良かったのかも知れないが、油断は禁物である・・・で、何故、私が解ったかと言えば、座椅子で何度も何度も、微震を感じていたからである。震度1位の微震であろうか。予知しておきながら、私は逃げなかった。天気予報を外しまくる気象庁だって、気付いていたに違いない。何か憤りさえ感じる。もし、今回の地震が東日本大震災の余波ならば、 夏に膨張しきったプレートが、急激に冷やされプレートどうしが滑ったのではないか、という説も成り立つ。現段階では何とも言えないが、その可能性も否めないのである。この場合、温暖化により、海水温が上がった(僅か.0.5℃)で、これらの天災が来たことになる。以前、このblogで、『プレート温暖化説』を私は訴えたが、東日本大震災の起こる前のことだった。阪神大震災の様な断層型地震についても考察しなければならないが、それにしても、憎きは気象庁と地震学会である。東日本大震災の遙か後に『敗北宣言』を認めた地震学会が、何で他の原発の地質調査に赴く?矛盾も甚だしいではないか・・・気象庁も同じだ、今までの統計をガリ勉君のスーパーコンピューターに入力してしまって任せているから、気象予報が外れまくるんだよ!!日本周辺の機構は悲しいかな、変わっている。某国の無茶苦茶振りも視界に入れて考えろ。へたな気象予報士よりも、気象図だけ見せたら、俺の方が当たるんだよ。おまえら、それで飯食ってんじゃあねえのかよ!!いい加減にしろ、と言いたし。

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友情と薄情と

 ここ数日、拒食症気味だった私に、七、八通連続でゲームのハイスコアを表したメールとFBで送ってきてくれた(多分FBでの宣伝も兼ねて)友人がいた。彼とはあうんの呼吸、すぐにでも気分転換した方がいいぞ、たまには大バカ者になってみるのもいいもんだ、というメッセージが伝わってきた。 毎日の戦いの中で、六年以上、私のblogを読んでくれている友人だからこそ、私の絶不調に気が付いてくれたのだと思う。こういう友達を得て、私は幸せである。その後、当然、私も寝ている時間以外は、大バカ者みたいに遊んだ。そして、食欲が湧いてきた。まだ、文章の創作意欲はないので、今日も大バカ者みたいに遊ぶ。小説の構想も練らなければならない、などと言っていては駄目なのである。何も考えずに大バカにならなければ、意味が無いのである。彼が腹踊りしてくれたのだから、私は裸踊りをやる(ってあくまでも例え話ですよ)。彼には何度も助けられた。大学で得た最高にイカした友人の一人である・・・一方で、薄情な人間にも一年の時のクラスにはいた。私の名字の次の奴がそうだった。大学一年の時の化学実験で、私がトイレとタバコを吸っている間に、大洪水を起こした奴がいた。都合良く水を通している管のゴムチューブの所で、それは起きた。今朝目覚めてから、思ったのだが、そいつがワザと外したとしか考えられないのである。こういう男を本当に、根性が悪いとしか言いようがないのだ。当時は、実験といえば『A』が当たり前だったが、おかげさまで、『B』がやってきた。

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木での火おこし

 母の叔父さんの頃は、TVもなく、娯楽など何にも無かった。昭和32年頃のことらしい。校内で全校生徒に、たまに映画を見せることがあったらしい。うちの親父も観ていたのだと思う。別のクラスだか・・・ある時、世界のドキュメンタリー映画の中で、アフリカの原住民が、木を回して『火おこし』をしている場面があったそうだ。それを観て興奮した叔父さんのクラスの男子全員が、机上に軽い穴を開け、木の棒で『火おこし』をするために、死ぬ気で回していたらしい。それを観た先生が、猛烈な勢いで怒り、「おまえら、何しとんや、おまえらだけが使うわけやないんやで。これからもずっと使っていかなあかんのや。おまえら、どないするんや」と怒鳴ったので、みんな止めたそうである。教室中の男子全員が『火おこし』しているシーンを想像すると、爆笑せざるを得ないのだが、教師の言うことも、もっともである。ただ、叱り方が強烈すぎた。なので、叔父を筆頭に男子生徒全員が、「直しゃあええんやろ、直しゃあ」と言って、その教師が去った後、大工道具を持ってきて、木の机の上板を外し、ひっくり返して取り付け、サンドペーパーで磨いてから、ニスを塗ったそうだ。それを知ったその男の教師は、一層、腹を立て、怒り狂ったとのこと・・・親父の存命中にその叔父さんの話を聞いて、親父は、「あいつ、アホやったからなあ・・・」の一言。

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その男栄養失調につき

 歩けない。

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私の場合の、遅刻と早退

 高三の時、私は登校するのが嫌で嫌で仕方が無かった。真剣に勉強したかったのに、入ったのはバカクラス。しかも教師も『おまえだったら到底東大の専門科目解けんやろ、専門やぞ、専門』と言いたい奴ばかり。通学時間が無駄に感じられた。ただ一人だけ、3時間睡眠で気合も実力もあった先生の授業は予習していった。そうしているうちに、毎回、私が当てられる様になった。バカクラスだから予習してくる奴などいなっかったのである。しかしながら、ねたみというのは怖い。私はその先生以外の授業には参加しない様になった・・・いわゆる登校拒否を始めたのである。世の中でも登校拒否が問題になっていた頃に、イジメが原因だ、ということで、ヤンキー先生が対象になったが、あれはバカである。それを選んだ政府もバカである。暴力を振るわれることだけが、イジメではないのである。精神的なイジメもあるのである。複雑な問題なのだ。だから、ややこしい。ヤンキーなんて呼んでも税金の無駄なのだ。自分がいじめられてねー奴に、その痛みが分かるもんか。それ位だったら、北海道のチャンピオン、内藤にやってもらいたい。学生時代とは、悩むためにあるのだ。登校日数が足りない方に言いたい。私の遅刻と早退の話をしたい。私の遅刻とは、最終時限の最後五分前に行く。早退とは朝のホームルームが終わってすぐに出す。と言う戦法を採っていた・・・でもね、いろんな悩みがあるだろうけれど、友達ウケする冗談でも発してみたらどうかなあ・・・俺はそうした。

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賢いバイトの秘訣 その2

 私は原チャリだったので楽勝だったのだが、そのうちに、自販機を探すのが異常に面倒だと思い、作戦を練った。ある日、暗くなってからの方が楽やな。ということに気が付いた。真っ暗闇で、当時、煌々と光を放っているから、見付けやすかった。それから一枚上着して、クビネックを買い、出かけることにした。調べることは、自販機に販売元の住所が入っているのかということと、ゴミ箱がちゃんとあるか、ということである。寒い中、あっちこっち廻っていたが、一軒だけ、「おまえ、何やってやがるんだ!!」と大声で怒鳴られ、「市の調査ですけれど、アナタの所の自販機は、最低ですわ」と因縁を付けてやった」すると、「何処に問題があるんだ?・・・詐欺じゃあねえだろうな!!」と、ナメられまくったので「あんたの店の酒、ち~~とも上手くない!!この店が潰れるって予言してやるよ。くたばれ、このクソ親父」と捨てゼリフを残して」他を廻ることにした・・・一方、友人は、二日掛かりで自転車を漕ぎ、のんびり廻ったそうだ。金を受け取る日に一緒に新橋まで行った。20時間で八万円!時給にすると4000円。その代わり、風邪を引いたが、後日、主治医にその話をすると、「えっ、本当?今の医者の見習いの医者がもらっている額と同じだよ」と言うので、「上には上がいます友人で学生の頃、時給5000円の家庭教師とか、帰国子女の友人で半日で十万稼いだ奴もいましたよ」と語ると、先生は、笑いながら、「僕には、とても、真似できない」と、髭をいじっておられた。

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賢いバイトの秘訣 その1

 普通、アルバイトをしようと思ったら、近所を選ぶだろう。そうしてアルバイトの雑誌に目を通して、条件やら時給やらで選ぶのだろう・・・当時、友達だった友人と私もそうだった。金が無くなって、二人して、真剣に当時の『デイリーアン』を検索していた。「横浜じゃあロクなバイトねえな」とため息をついたら、「しかたねえだろ、夏休みだけなんだから」でも、「おまえ余裕があるなら、寿司奢ごれよ」と返したら、「バカヤロー」と言われた。私がしつこく、その日の、『DAYRY AN』を読んでいたら楽勝なバイトがあった。それまで、「酒の一滴は血の一滴」などと、私に言っていたヤロウが、私の見つけたバイトに眼を付けた。それは勤務地は横浜の某区だが、新橋の事務所まで一回来てくれという話だった。速攻で二人とも電話し、速攻で行った…説明会を聞くと、横浜市のそれぞれの区の自動販売機の状態を調査してほしい。そして、もしトラブルがあったら、市の調査ということで、それでも因縁つけられたら電話してもらって、構わないとのであった私と友人は、(私の地元でもあったので)「俺の区域は高低の差が大きんだ。だから、俺は自分の地域を廻る。それでな、チャリで廻るおまえには高低差が少ない所を紹介する」と言って、地元のマップをもらい、端っこばっかりを4/5取り合った。来てないもう一人のために、きつい所ばかり、残してやった。彼は、「来なかったあいつが悪いんだ。こんなに甘いバイトねーぜ」と言った。タバコを吸い決めているシブいポーズが気に入らなかったので、頭をはたいてやった。彼が怒る前に私がぶちきれている振りをして、「バカ野郎、何から何まで調べまくったのは俺じゃあねえか!!…まあいいけどよう」と返した。彼は何も言えなかった。

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酒飲みの家系

 私の父方の祖母の親父さんは、酒樽職人であった。つまり、私から観ると曾祖父にあたる。もう無くなったが、粋のいい人で、清吉じいさんという名前。ばあちゃんが、「子供の頃に、日本酒を樽から蛇口をひねる様にして、升でんやで。友達の家に行ったら、みんな瓶で飲んでいる。不思議に思っとたで」と言うので、私は爆笑し、「ばあちゃん、粋だねえ」と応えた。その清吉じいさん、正月の博打大会で、親父のことを特別、可愛がってくれたらしい。親父に何回その話を聞いたことか・・・一方で母の家系は酒に弱い。私は父の家系を、弟は母の家系を引き継いだようだ。弟は、ビール一本飲んだだけで寝る。私の場合(最近は焼酎のウーロン茶割にしているが)ビールなら何倍でも行ける。そんな中、母は二度お酒で失敗した。梅酒を少し飲んでのたうち回り、トイレで吐いたら楽になって、爽快な眠りに就いたそうだ。二度目も不眠症で、料理用の日本酒をコップに4cm位入れて飲んでいたら、出張にいていた親父からの電話で、「おまえ、どうしたんや?」との会話で、お袋はあろう事か、「よっぱらってんの!!」と言い、当時の電話機を、『ガチャッ』と切ったらしい。でも、ごくたまに、甘酒用の酒粕を買ってくる。『懲りてねえなあ』と思うのだが、顔を真っ赤にして楽しんでいる様子。私は甘酒の香りが嫌いだから、そういう時は逃げるのだが、母のたまにの気分転換悪くは無いなあと捉えている。

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本日閉店

 一日16時間ぐらい寝ている。ディスプレイに向かうと吐き気がする。申し訳ないですが、ばかになって、ゲームでもしてきます。成れるんなら、本物の大バカものになりたい。

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二十年振りの再会・・・朝帰り その10

 私は、少しも酔っ払っていなかった。ビールごときに負けるものか。友人が帰った後、散々フォローした後、「いやぁ~彼一杯も飲んでいないんですよね。入店してから20っ分で潰れましたし、3500円の所、もう少しまけてもらえまへんか、友達割引ということで」とお願いしたら、オーナーと話し合って、2000円にしてくれた。もう、6500円飛んでるやん、と思っていたら、カウンターのおっちゃんが、「君、友達思いやし、交渉も上手いなあ」と言ってくれた。そのおっちゃんに、「常連さんですか?」と聞いたら、「横浜に来る時は、ここに寄る」と応えてくれた。しかしながら、そのおっちゃんは、当日の午前十時から仕事があると言う。「それで朝の七時まで飲むんですか?」と驚いたら、「かまへんかまへん」と言って上機嫌。私が、「みなとみらいなんて、昔は国鉄の貨物線の車庫だったんですよ。本当に横浜を知りたかったら、黄金町の赤線通りから伊勢佐木町に抜けてみて下さい。女は買わなくてもいいです。悲しいけれど、あれが本当の横浜の歴史なんです」と語ったら、おっちゃんは、バーテンの女の子に、歳を聞いていた。みんな19です、と応えていたが、『明らかにこいつはサバ読んでんのやろう』という奴には、ツッコミを入れた。「19でバーしてんのさかい、もう飲んだビール位はあるんやろ?」と聞いたら、「まあちょっとは・・・」という感じだったので、「俺もなあ、中三の時に、先輩からビール飲まされたからなあ」と言って爆笑。その後、おっちゃんとも息が合って三十分延長して飲んでいた。帰路、横浜相鉄口の歴史を語って雨の中家路に就く。私は無事帰れたが、友人は爆睡してしまい、気がついたら交番だったとのこと。お互いまだ若い。必ず這い上がれる。

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二十年ぶりの再会・・・朝帰り その9

 彼がお酒と眠気にやられている中、私が、「もう一時間、他の店で粘って、始発で帰ろうぜ」と言ったら、彼が、見送りに来てくれたバーテンさんに、「近くの店紹介して下さい」と言って、エレベーターの扉にもたれていたので、私が大慌てで体勢を変えてやった。バーテンさんに「すんません、ごちそうさまでした」と話すと、バーテンさんが、「うちは5:00までですけど、向かいのビルの二階に『Girls Bar』という店があります。カウンターに女の子たちがいて、お酒を作ってくれます」と教えてもらったが、「卑猥な店なんですか?」と聞いたら、「そんなことありません」と語るので、最後に、「ぼったくりとかは無いですよね」と確認したら、「はい。そこは7:00までやっております」との情報を教えてもらったので、「ごちそうさまでした!!」と挨拶して、その店に向かった。少し迷ったが、私が目ざとく、店の看板に、『Girls Bar』と書かれているのを見付けたら、友人がはりきって、「いざ、突入!!」と言って入っていくので、内心、『四軒はしごしたことなんてねえぞ』と思った。店に入ると明るく、1時間3500円の飲み放題で、ウェイター代わりの女の子がお酒を作って、悩みなどの相談に応じるというシステムだった。すると、彼は、一杯も飲まないうちに潰れてしまい、「タクシーで帰る」と言い出した。私が、「送ってきます」と言ったのだが、店のガールの一人が、送っていってくれた。帰って来た彼女に、「すんません。あいつ、頭いいんですけれど、大バカなんですよ」と語ったら、「相当酔ってらしたみたいですねえ」と言うので、私は料金交渉に踏み切った。

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二十年ぶりの再会・・・朝帰り その8

 彼と英会話していたうちは良かったのだが、私が三曲目にStingの曲を依頼した。その時、「あの原爆の父のオッペンハイマーをけなした曲を流して下さい」と言うと、相当記憶力のいい方だったが、曲目名が出てこなかった。Stingだったら『Evry bless you take』かなと思ったが、あれは、ストーカー向けの曲やなと思い、『King of pain』を注文。彼は眠気でつぶれ始めていた。お互いにビール漬け。彼の頭がフラフラしだしたが、時計を見ると午前3:30。地震と台風が同時にきている中、『もういいや。始発で帰ってやろう』という気になりだしていた。彼は眠気でつぶれていたが、私は最後に、Jhon Lennonの『God』という曲をお願いした。友人はつぶれている。しばらくするとバーテンさんが「すいません、『God』ないんですよ」と言うので、散々彼に、英語で妻をめとりたまえ、と言われたので、皮肉がてらに、「じゃあ、『Woman』でいいです」と返事したところバーテンさんも、「解りました」という笑顔。時計が4時になって、彼が、「もう、ここ出よう」と言ったら、バーテンさんが、彼の名前を覚えてくれていた。私は、右手の小指を挙げて、「こいつ、こればっかりでしょう」と聞いたら、バーテンさんも必死だった。僕が笑って、彼も笑って、領収書をきってもらっていた。私が不思議に思い、「それって、経費で落ちるのか?」と聞いたら、「一時的にわな。でも、給料からてんびかれる」と言うので、私は大慌てで彼に二万持たせた。彼は、「今日は俺の誘いだからいい」と言ったが、私が、「これを受け取ってくれないと、もう二度と、君とは飲みにこない」と言ったら受け取ってくれた。

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二十年ぶりの再会・・・朝帰り その7

 彼といろんな話をしているうちに、地震があった。「ビルの四階だから、余計に揺れるんだよ。共振って奴だ」と言ったら、「確かにな」と呟く。私は震度4ぐらいの不気味な横揺れを感じたが、店の人は震度3です、ご心配なさらずに、と言ってくれた。彼が、「縁起が悪い。次の店に行こう」と言うので、「俺を終電で帰してくれないのか?」と言ったら彼は領収書を受け取っていた。台風の中、全然酔ってはいなかった。終電も逃したし、朝まで『パーッと』やるつもりであった。三軒のバーはやたらに暗かった。黒一色である。すると、彼が、シンディ・ローパーの曲をかけてくれと言う。私は相変わらず、『EAGLSのホテルカリフォルニア』頼みます。と言ったが、無事にかけてくれた。すると、彼は、平日の仕事では英語でディスカッショションするんだよ・・・試しに英語で話してもいいか?と、試されたので、私は、「year.It's n ice plojekt!」と応えた。それから、英会話が始まった。カウンターの奴等が、『何なんだよコイツら?』という眼をして、こちらを振り返っていた。彼から提供された話題は、「君もまだ四十なんだから、妻を娶り給え」とアドバイスしてくれた。私はその頃、やっと店の暗さに、暗順応していた。初体験や初恋のことも聞かれた。英語で、「俺は大学一年の時のクラ友に恋した。後期試験はドイツ語以外は全部白紙だった・・・でも、なんとか、進学できた。いわゆる恋のノイローゼってやつだな」と言うと彼が黙り込んだ。私が頼んだ、マイケルジャクソンの『Billy Jean 』が流れていた。

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パソコンいやだ

 発狂しそうだ。

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二十年ぶりの再会・・・朝帰り その6

 三十代は、(既にがんになっていた)親父とのために生きた。と語った。放射線治療で歯がボロボロになり、まともに飯が食えない親父は、スプレー式の麻酔薬をかけ、ごまかしごまかし食っていた。一言も泣き言を言う人では無かったけれど、僕も毎日blogを初め、一緒に酒を飲んでいた。そうして、攻略すれば余裕で勝てる将棋を、毎晩毎晩指した。トイレに行くたびに、「配置が違うんじゃあねえのか?」などと言っていた。お互いに泥酔しながら・・・という話をして、俺が三十五の時に親父の死に様観たけれど、武士だったよ。俺もかくありたい。と言うと友人は、「俺の親父もがんで二年入院しているんだ」と明かした。私は、「生きている間に孝行しとけよ。俺なんか心の喪が晴れるまでに、三年かかったよ。そういえば、君、趣味に囲碁って書いてあったじゃない。親父さんと打ってあげな」と言ったら、「俺(アマ)四段なんだ。親父から教わったわけじゃあない」と言ってビールを一口。私は、「四段だったら、置き石、聖林不木に置かなきゃあ勝てないなあ・・・俺は小一の時に、親父から将棋を伝授され、小二の時に、囲碁を伝授され、小五の時に麻雀を伝授された。いつもニコニコ現金払いって言われて、小学生の俺にとっては貴重だった、数十円を取られていたよ・・・そういえば、中三の時、デンの家で、君と麻雀打ったじゃあ無いか・・・あの時は負けて悔しくてなあ、帰りの電車中、敗因を考えていたよ」と言うと、「そんなことあったっけ?」と彼は言う。「忘れたのか?」と聞くと、「忘れた」の一言であった。

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今現在の、僕の、『辞世の句』

 城ヶ島に、僕だけの場所があった。そこまで歩いているうちに、下の句が閃いた。『道なす枝の 末の枯れ松』だった。上の句は、どうしてもうかんでこなかった。『神が、まだ、俺に生きろ』と言っているのかと、バカな勘違いをした。バカはバカなままだった。友人が死んだことにも鈍く、苦しみ続けた。ある朝、思い立ち、西湘に行った・・・その時、上の句が浮かんできたのである。周りは、釣り人ばかり。できた僕の辞世の句は、『潮騒の 風に吹かれて あはれなる 道なす枝の 末の枯れ松』となった。友人に明かしたら、早く嫁さんを娶れよ、御祝儀は十万ほど包むから。などと言われる。私もそうしたい。しかし、親戚中に裏切られ、母親と弟に詐欺みたいな真似をされ、落ち込んでいた私に、友人が二年間の闘病の末に他界したとの知らせを知って、滅茶苦茶になっている私の頭の中に、友人から紹介された某出版社の編集長にワビを入れた話があった。私は、彼から紹介され、確認した後で、試しに、その編集長のフェイスブックに十個ぐらいコメントを入れたのだ。決して脅しなどでは無い。そうしたら、その編集長はネット上から消えた。そうして、友人に文句を言ったらしい。私は詫びた。もし、その編集長が、私の文章を無断で使ったら、友人の弁護士兼弁理士の奴に頼むつもりである。お袋も家を担保にしてもいい、と言ってくれた。悪用があれば、訴訟する覚悟である。某編集長さんよう、肝っ玉は小さいのに威張るんじゃあ無いよ。

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とてつもなく・・・

 とてつも無く眠い今日は寝る。おやすみなさい。

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ロイへの追悼文

 中・高時代の友人で、中学一年の時の英語の教科書に、Royという少年との会話文があった。クラスの中で、外人っぽく見える友人に、ロイというあだ名が着いた。彼は高一の時、私の後ろの席に座っていた。洋楽の指導もしてもらった。私がBeatlesを聞いていた頃に、彼はQweenを聞いていた。いろいろと教えてもらったし、「君は大学に入ったら、女の子にモテるだろうなあ・・・」と言われた。何でだ?と聞いたら、「清潔感があるからだよ」と言ってくれた。「本当にそうだったらいいなあ」と笑って、彼は文系、僕は理系へと進んで別れた・・・昨日、彼が二年間の闘病の末に死んだと聞いた。自殺か病死かは解らない。もの凄いショックを受けた。繊細な心を持った奴だった。知らせを受けて、呆然とした。しばらくは、何にも考えられなかった。『どうして、俺みたいなクズが生き残っちまって、お前死んでるんだよ』と泣いた。今でも、彼の顔が浮かぶ。「君だって大学に入ったら、モテると思うよ」と返したら、「俺みたいな、毛むくじゃら、誰も相手にしてくれないさ」と言っていた・・・今も泣いている。彼の死に対して。胸の奥に熱いものがこみ上げてきて、眠れない・・・ただただ、悔しい。本当に悔しい。そう思うと、涙腺が緩む。何度も言う様に、泣きながら書いている。彼はQweenで言えば、フレディ・マーキュリーみたいな生き方をしたし、追悼曲は、当然、『ボヘミアン・ラプソディ』だ。彼の霊に合掌。

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