« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

2012年5月

いい血つかってんなあ

・みなさんは、プロ野球のルールで、『隠し球』というルールがあるのは御存知でしょうか?ピッチャーにボールが戻っていない間に、内野手がグラブの中に、球を忍ばせて、リードしているランナーに、こっそりとタッチすると、アウトになるというものである。私は、現実的ではないと思っていたが、子供の頃、TVで観ていたナイターで実際にランナーを殺した選手を観て、ビックリした。しかし、成功率は極めて低く、大抵、相手に観抜かれてしまうのだった・・・現代の野球では、そんな忍者の様な、いぶし銀の様な選手もおらず、何か薄味の観を感じざるを得ない。職人めいた選手がいなくなった。

・以前、ご近所に住まわれていたおっちゃんは、シャイな内面に裏打ちされたやんちゃさで愛嬌があった。その叔父さんが、植木の植え替えをしているのを観て、「手伝いましょうか?」と言ったら、「甘ちゃんに出来る仕事じゃあねえ」と言われたので、ムカッとしたが、「学生時代の最初のバイトが肉体労働ですよ」と言って、十五分で掘って植え替えをしたら、「お前、ビール好きなんだろ」と聞かれたが、断った。確かにビールは大好きなのだが、その代わりに、庭の水で汗を流させてもらった。

・映画『アンタッチャブル』で、ロバート・デニーロ演じるアル・カポネが、部下のどうしようもない奴を、バットで殴り殺すというシーンがあったが、それ以上に、あの時の血は、いい血を使っていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カルチャーショック

・二十三の歳、院の夏休みという事で、勝手にアメリカ放浪を選んだが、旅行代理店の人にも、「貴方の様なお客様は初めてです」と言われた。最初は、ガイドブックにあった通り、サンフランシスコに上陸した。着いた晩の夜に銃声が聞こえたので、『何なんだ、この国は』というのが、第一印象であり、」いきなりカルチャーショックを受けた。その後、一ヶ月掛けて、バスで自由の女神まで辿り着いたのだが、私は、帰りにも、サンフランシスコ経由で帰る事になってた。滞在期間は、二、三日だったが、ようく街を観察することにした。土産物を買って、のんびりしていたが、とあるCD屋に立ち寄ってみると、『ゲイ』専用のコーナーがあったので驚いた。私の目的は、観察だったので、買いこそしないものの、慣れたカルチャーショックを受け、エイズについて考えさせられた。すると、『ゲイ』のコーナーにいる私の元に、一人の男が寄ってきて、私に目星を付けたのか、こう言い寄って来た。「君は、ゲイの世界に興味を持っているのか?」と。私は大慌てで、、「いや、私は女の子の方が好きです。アメリカに於けるゲイの文化について考えていた所です。ゲイの世界には全く興味がありません」と言ったら相手は、少し残念そうな顔をして、『コイツ、何にも解ってねーな』という眼をして去って行った。この時、私は本当のカルチャーショックを受けた。良いか悪いかは解らないが、それ以来、あらゆる偏見を棄てようと思った。

・あれから十五年以上が経ち、何が、今、どうなっているのかは知らない・・・アメリカも複雑な国だなあと近頃感じる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クレオパトラの溜息

・私の行きつけの整形外科の先生の病院は、ナース陣及び事務陣の結束が堅い。彼女等、おばさん共を敵に回すと、痛い目には合わないものの、心が痛い思いをするであろう。いつかの日の午後に、一番で行ってみると、看護師及び、事務のオバちゃん達から、先生が、「先生は若い頃、どんな人がタイプだったんですか?」というような話を昼休みにしていた。すると先生は、「僕は、美人アレルギーだからねえ」と笑ってごまかしていらっしゃった姿に、思わず、私も笑いを誘われた。先生の予断の無さが、傑作だったのである・・・普通の男ならば、美人アレルギーというのは、当たり前に持っているものだ。じゃなきゃあ、桑田佳祐の曲、及び歌詞が、こんなに売れるはずがない。

・高校時代の化学の授業で、1molが、いかに巨大な数字なのかを、生徒達に解らせるために、こういう話をした先生がいた。それは、『クレオパトラの溜息』という話で、紀元前三千年前、絶世の美女と言われた、エジプト王朝、最後の女王、クレオパトラが、息をした空気上の分子を、一息ごとに、その分子を吸っているという話だった。大いなる歴史を考えると共に、私は、その当時、惚れていた娘のことを考えていたが・・・

・これが、自分にとって最悪な道だと、解りながら進んできた。しかし、『狭き門より入れ』というのは事実で、それが実は、人生の上での、一番、近道であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

台風の様な三人

・高校時代の友人達で、休みの日に、嵐の様にやって来る三人組がいた。いつも徹マンを強いられるのだが、電話が鳴って、1分後には、私の家の前で、「よう!!来たぞ」と言うので、やむを得なく迎入れるのだった。徹マンというのは不思議なもので、最初にスタートダッシュを決めた奴が最終的には勝つ確率が高い。以前、私は、麻雀とは我慢のゲームだと書いたが、スタートダッシュというのは肝心なのである。その面子では、いっつも勝負して負けてくれる友人が一人と、勝ったり負けたりという友人が一人と、常にスキが無い友人(彼は大学に入って麻雀を覚えたのだが、よっぽど痛い目に遭ったのか、一年で、かなり強くなっていた)と、小学生の時から親父に麻雀を叩き込まれた私とで、打つのである。そういうメンツで麻雀を打っていたら、負ける奴はおとなしく放っておく。私と、大学で麻雀を覚えた友人とで、勝つか負けるかの友人を、追い落としに行く。徹マンとは不思議なもので、午前四時を過ぎたあたりから、誰かが壊れ出す。誰もが好き勝手な事を言い出し、みんながみんな、『ナチュラルハイ』な状態に陥るのである。訳の解らない事を言い出したり、ツモにヨガのポーズを取り入れたり、とにかく壊れるのである。みんなが終いを迎えるのは、私の家では昼頃だったが、その頃には、太陽を黄色く感じ、何本開けたか判らない程の缶コーヒーの空き缶が転がっていた・・・それでも文句一つ言わず、おしぼりなどを配ってくれていた、母には頭が下がる。私の親父が健康な時や、弟も、仲間に入れてもらっていた。それだけで楽しかった頃であった。

・あれから十年に以上を経て、役も忘れたし、もう、あの面子では打たないだろう・・・時の流れである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

怪我とプラモデルと私

・ゴルフで肋骨を折ってしまい、しばらくやる事が無かったので、試しにプラモデルでも作ってみようかと思って、ネットで注文した。零戦とF1マシンのものを注文し、作ってはみたものの、零戦の方は、組み立てても、プロペラ用の小型モーターが作動せず、「これって、サギじゃあねのか?」という始末。気を取り直して、車の方のプラモデルを苦労して作ってみたら、リアサスを逆さに取り付けてしまい、車なのに、一輪車となってしまった。丁寧に作ったつもりではあったが、表と裏を間違えるとは、昔では考えられないミスであった。それでも、『こういう仕組みになっていたのか』と感心させられながら作った。私にとって久しぶりの、可愛い車となった。今度は、A.セナのマシンか、ティレルの六輪車でも作ってみようかと思う。しかしながら、腕が治ってきたので、作る暇があるか判らない次第である。

・ある日、お袋が、「男っていうのは、金を持ったら、いい車が欲しくなるのかねえ?」と言うので、私は、「それは、当然欲しい。でも、俺の場合、カミさん探しの方が先だな」と応えた。『呑む、打つ、買う』は男の三拍子だが、私は、『買う』には手を出さない。大学の頃、友人と共に歩いていた川沿いで、フィリピン人の女に腕を捕まれて、座り込まれた事もある。ああいう女達には、独特の哀感がある。私は、そういう女達のうら悲しさを抱く気にはならない。反対に、セックスをスポーツの様jに捕らえている女にも興味が無い。

・男は女で決まる面もある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

金と少女とモンスターペアレンツ

・私が勤めていた塾の塾長は、親達に、発したメッセージで、「一流企業に勤めていましたが・・・」と、どうのこうの書いていたが、所詮は、田舎の棚ぼた地主であり、最終的には、金でゴマかしていた。ある時、小学生の女の子に、私は、励ますつもりで、「中一から、できる子が入ってくるからね」とハッパをかけたら、その子が塾を辞めると言いだして、私は、『それくらいの根性がないのなら、とっとと辞めやがれ』という気でいたが、この馬鹿塾長が、そのコンお家に、ケーキを持って謝りに行った挙げ句、私に説教をカマした。私は、その子が辞めた事にショックを受けていたが、よくよく考えてみると、到底、私が悪いとは思えなかった。私の話も聞かず、私が悪いと決めつけて、そのガキの家に、塾長が勝手にワビを入れに行った事が腹立たしかった。「相手はケーキを受け取ったから、また来るでしょう」と、人を金で釣る様な真似をしておいて、私は事情を説明して文句を言った。「これでは、こちらが一方的に悪い様ではないですか!!いい加減、ガキを甘やかすのもいい加減にして下さい」と。それは、私の、塾講師としての誇りが言わせた。しかし、相手は棚ぼた地主の甘ちゃんで、金で何でも解決できると思っている馬鹿である。・・・よく考えてみればモンスターペアレンツだったのだ。そう言う獣に対し、話は通じないし、塾長がケーキを持っていった時点で、こちらの負けなのだ。そんな風に甘やかしているから、馬鹿な親がのさばるのだ。

・人は人によって、伸びる芽を摘む事も出来るが、あんまりにも人のせいにしたり、何かのせいにしなければ、気が済まないというのは間違いだ。つまり、、最終的に人生の責任をかぶるのは本人だからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

失敗と挑戦と

・NBAの元選手で、マイケル・ジョーダンを知らない人はいないだろう。彼が現役中に、父親を殺された事も多くの方が御存知のことだろう。ジョーダンも悩み抜いた挙げ句、MLBに挑戦することに決めた。多くの方はもったいないと思っていたであろうが、彼の野球に対する姿勢も本物であった。誰よりも早くグラウンドに来て、本気で練習をし、誰よりも遅くまでバットを振り続けたそうだ・・・つまり、本気だったのである。結果、ジョーダンは、メジャーにこそ上がれなかったものの、たった二年で、その一歩手前まで辿り着いていた様である。あるネットのページに、ジョーダンの言葉として、こういう文句が書かれていた。それは、『失敗は恐れない。ただ、挑戦しない事には我慢が出来ないんだ』と。この言葉に、私の魂も震えを受けた・・・彼は再びNBAに戻ったが、MLBでも、きっと成功しただろうなと思った。黒人だからとか、才能が無いとか、そういう凡な言い訳をする事は簡単な事だが、ジョーダンは、そういうことを気にする前に、ずば抜けて、人一倍努力をしていた。誰もが、その姿を観て、胸襟を正したはずだ。ジョーダンが引退する年のNBAのオールスターゲームは、彼の為に演出されていた。ハーフタイムショーで、マライア・キャリーが彼の為に『HERO』を歌っていたが、全く違和感のないものだった・・・日本人で、初めてNBAの試合に出ていた田臥は、日本ではずば抜けた選手でもあったが、NBAでは、チームの味方のレベルが合っておらず、相手にもされなかった事が悔しい。彼だって、死ぬ程の努力をしてきているのだ。

・私の読みでは、田臥は実力がありすぎたが故に、ほされたのだと思わざるを得ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

楽しかった初ラウンド (その5)

・私が最後のパットを決めて、汗だくのホールアウトとなった。私141、『Katsu』の店長151、上手い友人104だった。店長に対してアドレナリンが出ていたので、一安心した。店長は、真面目にクラブ購入を考えていた。三人で風呂に行こうという事になったが、私は一服してから行った。着替えを出して風呂に入ると、シャワーで全身の汗を流し、十円玉色の湯につかった。いろんな話をしているうちに、店長がゴルフに興味を持ったのは確実だった。風呂からの眺めも良かったが、少し曇りだした。その後、荷物を整理し、私は再び一服してから、二人とレストランで合流した。私はノンアルコールビールを飲み、再び、店長が笑いを誘う話をしてくれた。この時、私の肋骨は折れているはずなのだが、打ち身ぐらいにしか感じなかった。痛みもなかった・・・その後、二人を熱海駅へ送り、商店街に三人で土産を買いに行った。ここは、プロである店長に従った。アナゴの薄切り干物と、温泉まんじゅうに決めた(後日考えてみると、私は甘い物が苦手なので、寿司でもアナゴは避けていたのだった)。二人が熱海駅に向かう中、私は、煙草を吹かし、「本当に大丈夫か?」と問われる中、「大丈夫だ。アドレナリンが出ていてるから」と言って別れた。本当に、その時は痛みがなかったのである。車で、一路、家を目指した。無事、辿り着いた時には、二人に『ブジキタク』のメールを送っていた。家に帰ってからも、しばらくは眠れなかった・・・翌日、目覚めた時には、全身が痛かった。すぐに頼れる方の整形外科の先生に観てもらった。肋骨を骨折しているとの診断にビックリしたが、最高に楽しく、気持ちのいいラウンドだった。

・(お二人へ)もう、治りかけてるし、心配しないでくれ。次はパットの練習だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

楽しかった初ラウンド (その4)

・クラブを四本しか持ってこなかった、『Katsu』の店長が、初めてドライバーを振るという。私は、脇腹の痛みが増しつつも、「真っ直ぐ飛ばしたかったら、首を動かすなよ」と、今回、私がテーマにしていたことを教えてあげた。そして、素振りが様になってきた所で、ティーショット。ナイスショットではなかったが、Pwよりは、もちろん飛んだ。二打目、店長のボールが平坦だったのと、Par5だったので、私は、「3Wで打ってご覧」と手渡した。店長はためらいなく、素振りを始めた。納得が行くまで素振りをしていた。そうして打ってみると、やや曲がったものの、「芯を食った感触があった」と言って、喜んでいた。私の番となり、脇腹が痛いので、素振りをせずに打ち始めたら、スコアが乱れだした。上手な友人が登り斜面で右足側にボールをセットしていたので、後で、「わざと、ああしたのかい?」と聞いたら、「そうだ」と語ってくれた。もし、普通に打っていたら、クラブのバンス角とで相殺してしまうからだろうな、とは予想がついた。それからは、店長はドライバーで打つ様になり、私よりも飛ばしていることもあった。アイアンでも、アイアンティーをあげたら、ティーアップして打つ様になった。そして、快感を覚えたらしく、中古ドライバーの購入を口にしていた。体力的にもきつかったが、さすがに熱海の高台にあるゴルフ場、眺望は絶景だった。上手い友人はOUTに続き、INでも、惜しいバーディートライがあった。また、ピンに当たってしまったのである。ヘボ二人と廻ると、相当疲れたであろう。私は、最後はバテてしまって、大叩きしてしまった。半袖のせいか相当、日焼けした。

・後で肋骨が折れていたことを知ったのだが、アドレナリンが出ていて、途中、問題なかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

楽しかった初ラウンド (その3)

・昼食休憩が終わり、INプレイ(このコースはハーフなので、午前中と同じ所を廻る)が始まり、まもなく私を悲劇が襲った。最初か、次のホールで、斜面奥へ打ち上げた私は、打つべくクラブを杖に、急斜面を登っていた。もう少し、という所で気が緩んだのか、足下が滑り、バランスを崩した。途中、立ち直りかけたものの、そこから下まで転げ落ちた。途中、覚悟を決めて、『ダンゴムシ』状態で転げたら、なかなか止まらない(後に友人は、「伸身で転がり落ちて、顔からいってたぞ」と電話で教えてくれた)まま、気が付いたら、みぞおちに、これまでに打ったことがない程、来ていた。「大丈夫か!!」と二人の声がし、「眼鏡が壊れているぞ」という声が聞こえた。みぞおちの痛みはすぐに止んだが、顔から落ちて、軽い脳しんとうをしばらく起こしていた。右脇腹も打ったみたいだった。友人が素早くゴルフ場の方を呼んでくれ、クラブハウスに戻って、車の中のスペアの眼鏡を持ってきた。その間に、切り傷に絆創膏を巻いてくれ、擦り傷を消毒して下さったゴルフ場の方にも頭が下がる。再び友人達と合流し、待たせて悪かったことを詫びた。いざ再開した頃には、頭もクリアになり、まずまずのスコアで廻れ出せた。しかし、次第に右脇腹が痛みを増していった。肋骨を骨折していたことを後日知るが、その時は、『打撲』と勝手に決めつけていたし、ドライバーを振り回していた。そうして、OUTの時と同じ様に、クラブを四本しか持ってこなかった友人に、「使ってごらんよ」と勧めたら、「じゃあ、頼む」と言って、初めてティーアップして素振りをし出した。私は痛み止めを飲んでいた。

・二人に迷惑を掛けたことが申し訳ない。ゴルフ場も空いていて良かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

楽しかった初ラウンド (その2)

・ゴルフクラブを譲ってくれた友人が、マナーなども含めて、いろいろと教えてくれる中、私は最初の数ホールで大叩きしてしまった。初心者として、一緒に廻った『Katsu』の店長は、持ってきたゴルフバックの中に、なんと、5W,Pw,Sw,パターの四本だけという、超強気なのか、ハチャメチャなのか解らないクラブ設定だったので、ロングコースに出る度に、私が、「もらい物だけど、ドライバー使ってみたら?ティーなら安いのが山程あるし」と勧めても、OUTの時は、ずっとPwで回っていた。Par5でティーアップもせずに、延々と打ち続けている姿は、悲愴に見えたが、上手い友人がソツなく廻る中、カートの中で私は、「あいつ、Pwの名人になるかもな・・・もしくは、ゴルフってスポーツが本当に面白いのか、試しているのかもな」と言うと、友人も、「ああ」と相槌を打った。気温が上がりだし、私は汗まみれになりつつも、OUTの残り5ホールは、一つ大叩きしたものの、ボギーとダブルボギーでまとまり、安定感が出てきた。そういえば、上手い友人がカラーからのロングバットで、確か、バーディートライの時に、ピンを直撃し、はじかれてしまうというショットがあった。ピンを抜いといた方がよかったのかも知れないが、初心者なので気が付かなかった。もしそうなら、申し訳ないことをした。ハーフを終えて、気が付いたことは、上手くなるのも大切だが、スコアメイクの為には、大叩きしないのが重要だということがよく解った。そうして、長い長いOUT9ホールが終わり、レストランで昼食を摂り、三人で盛り上がった。『Katsu』の店長が笑いをとってくれたし、みんな盛り上がった。

・肋骨の痛みは半減したし、肩もそうだ。安心してもらって構わない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

楽しかった初ラウンド (その1)

・今月の十七日、クラブを譲ってもらった友人と、草加の『Katsu』の店長と、私の三人で、熱海のゴルフ場に行ってきた。クラブを譲ってもらった友人が会員権を持っており、店長と私は、ゴルフ場デビューの初心者であった。私は車で、他の二人は新幹線で熱海に向かった。私は、途中、高速のP.Aで朝食の握り飯を食い、コーヒーを飲んで、のんびりと三十分位くつろいでも、余裕で約束の一時間前に熱海駅に着いてしまった。少し寝ようかとも思ったのだが、駅周辺を見物したくなった。朝の熱海駅は、送迎の車ばかりでロータリーは混んでいた。運転してきた車は禁煙車だったので、煙草を吹かし、再び缶コーヒーを飲んでいた・・・時間になり、友人二人が到着すると、車で延々と山の上の方に向かった。私は、熱海はニッポンのモナコと認識していたので覚悟はしていたが、かなり登った所に、ゴルフ場はあった。荷物を降ろし、クラブハウスへ入ると、ホテルのロビーの様だった。登録を済まし、用意を調えてから、8:00スタートで一番ホールへと向かった。クジでオナーは私になった。Par3の打ち下ろしである。距離感が掴みにくく、オーバーしてしまった。『初めてだから、やむを得まい』と思っていたら、同じく初めてティーショットした、『katsu』の店長は、隣のグリーンに1オンし、「俺は持っている」などと、笑っていた。上手い友人も、店長と同じ、隣のグリーンに乗せていた。結局そのホールは私が10打叩き、店長は7、上手い友人は4という感じで終わった。良く晴れて気持ちよい程度の風が吹く中、これから恐ろしい勾配が続くとは、思ってもいなかった。

・今日になって、やっと、下半身の筋肉痛がとれた気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サラシを巻いて

・昨日、整形外科に行った所、右の肋骨が一本折れていた。全治一ヶ月とのこと。肩も上がらなかったので、そちらも観て頂いたが、そちらは何ともないとのことだったが、具合が思わしくないので、今日も病院に行ってみる。

・レントゲン写真は、私が観ても明らかに折れているのが解った。治療法は、湿布を貼って、胸型コルセットをあてがうだけだ。これが意外と、効き目があるが、分厚いサラシの様で、今の季節、暑い。

・ゴルフをやっている時には、まさか肋骨が折れたなどと思わなかったので、その後のホールでもドライバーを振り回していた。きっと、アドレナリンが出ていたのであろう、打ち身ぐらいに感じていた。帰宅してからも、その日は痛みを感じなかった。翌日、身体が回らないので、病院に行ってみた次第。

・全治一ヶ月の間、ゴルフクラブを握れないのが一番哀しい。

・なんだか、折角、誘ってくれた友人と、一緒に廻った友人に申し訳ない。でも、初めてのコースは、天気も良く、さいっこうに気持ちよかった。怪我したのは自業自得だし、後悔していない。また、同じメンツで廻りたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

満身創痍

・昨日、ゴルフ場デビューをしたのはいいのだが、途中、斜面を転がり落ち、顔から落ちて、一瞬記憶がなくなった。眼鏡は壊れ、肋骨と肩を強打し、痛み止めを飲んでいる。スペアの眼鏡を持って行っていたので、助かった。しかも今朝になると、下半身が筋肉痛。下っ腹と、右足が特にきている。

・従って、今日は整形外科と、眼鏡屋に行かなければならない。

・初めてのコースは、起伏に富んでおり、面白かったが、かなり疲れた。景色が絶景で、廻る人も少なかったのでのんびりとやれた。

・このゴルフの話は、身体が治ったら、詳しく書こうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いざ、熱海へ

・今日は(ゴルフの)決戦の日。遅参は許されぬ、出撃だ。

・初陣でどんな結果が出るのか、楽しみである。それにしても眠い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

タイヤ交換にて

・お袋の買いものの足となるべく車を運転していた私は、エンジンオイルの交換時期をナビから言われ、行きつけのガソリンスタンドに向かった。ガソリンを入れ、親しくしてもらっている、そのスタンドの主任の方にオイル交換をお願いしていた時、私も見物していた所、左前に縦の亀裂がタイヤの横側に出来ているのを発見した。大慌てで、主任の方に相談した。すると、まだ5000Kmも走っていないに、これはヤバい、ということになった。私が車を運転する上で、一番恐れているトラブルは、雨の日にタイヤがバーストし、タイヤ交換をすることであった。そういう車を、何度か見かけたが、そんなに悲惨なものも無いので、日頃から心がけていた。左の前輪をチェックしていた私は、最初そ気づかなかったものの、亀裂を発見した。私も車については、一通り理解しているので、、昨年、タイヤを交換したばかりだったが、即座にタイヤを交換してもらうことにした。お金は掛かったが、命には代えられないので、交換したのだが、その交換方法が面白かった。F1などではタイヤ交換に10秒も要さないのだが、一般車では、バランスを取る為に、ホイールの内側におもりを付けたりしていた。結局、スタンドで、二時間半ぐらいの足止めを食らってから、家に帰ろうか相当悩んだのだが、我慢して運転し、買い物に行った。在庫の事情で、ブリヂストンタイヤ三本、トーヨータイヤ一本という、アンバランスな車になってしまった。その代わり、オイル交換をしたせいか、アクセルレスポンスがスムーズになったと感じた。

・タイヤの縦ミゾでは誰にも文句の言わせないのに、まさか横とは・・・哀れだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

マッチ、オートマ説

・私が大学四年の時、あるグループから、『マッチ、オートマ説』なるものが、ギャグとして出てきた。内容は、どこから金が出ているのか知らないが、サーキットで迷惑を掛けまくり、『走るシケイン』と呼ばれていた。いい歳して、まだやっているのかと思ったら、本人が運転しているのか、どうなのかは知らないが、主宰のレースでチームを持っていた。相変わらず、遅いのには、変わりなかったが・・・『マッチ、オートマ説』は、一人だけ余りにも遅いので、『あいつだけマニュアルじゃあなくて、オートマなんじゃあねえのか?』という所から生まれた説である。大体、今の近藤真彦に、どっからレースをやる金が出とるんや、という疑問が拭いきれなかったとに同時に、誰かの女のヒモにでもという様な不信感は、そのグループからは拭えなかった様子だった。ギンギンラギンで行ってもいいのだが、さりげなくは過ごしてはいないだろう。今じゃあ、ただのオヤジなんだから、腰を据えた生き方を見つめ直すべき時期もいい頃だ・・・ちなみに、同じレースに、サザンのパーッカションの、いわゆる『毛ガニ』もいた。マッチ以上に遅かったが。

・数学塾の飲み会で、中三からビールを飲むことになった(時効だが)。みんな、塾で酔い覚ましをしていた。友は酔いきってしまい、シャドーボクシングなどをやっていたが、三時間ぐらい経ったら落ち着いた。好きな女性のタイプなども告白する様に話し、可愛げがあった。

・ご先祖様が酒樽職人の清吉爺さんだったのに、酒を飲まなきゃあ、申し訳が立たない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

通の味

・私が中学の頃に、老いた先生から聞いた話だが、昔は屋台の寿司屋なるものがあったらしい。現在は衛生面で問題があるのか、屋台といっても、ラーメン屋ぐらいしかない。その先生は、私の在学中に亡くなってしまったが、多分、屋台の寿司を食べたことがあるのだろう、「シャリに醤油を付けて食べるのは、通じゃあない。通は、寿司をひっくり返して、ネタに醤油を付けて、舌で味わいながら食べるものなのです」と教えてくれた・・・大学に入って以降、何度も寿司を食べる機会があったが、通でもないのに、その先生の言った食べ方をしていた。そのうち、それが私の寿司の食べ方のスタイルとなった。

・ある人が、日本には巨大な運河がない、と言ったそうだが、ある外国人が勘違いしたのか、日本にも立派な運河があるじゃあないか、と言ったそうだ・・・それは瀬戸内海のことであったらしい。

・ケーブルテレビの古い邦画で、遠藤周作の『私が棄てた女』を観たが、遠藤周作がクリスチャンであるという事を感じたと同時に、作品自体は深い様で浅く、暗い駄作だと感じた。

・ゴルフの5.15決戦は、その日だけ雨が降るという、皮肉な天気予報によって、昨日、友人から電話があり、5.17決戦に代わった。三人で廻る予定だが、舌戦になるのは間違いない。それを、いかにくぐり抜けるかを、イメージトレーニングしている所だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

裸踊りするんだろ?

・大学時代の研究室の後輩で、春合宿で酒癖の悪い奴が、私の研究に楯突いて来たので、殴った事は以前書いた事があるが、そいつは幼稚な馬鹿であったが、私の部下でもあった。私の班には、二人程、部下がいたのであるが、二人とも大学院に進む予定だったので、二人共、成績は悪いものの、大学院の推薦を出していた。幼稚な馬鹿の方が、「もし俺が大学院の推薦を採れたら、ここから全裸になって、合格発表欄までダッシュしますよ」と、馬鹿なことを言っていた。私は黙っていたが、馬鹿は相手にしない主義だった・・・しばらく後、院の推薦の発表が行われると、その馬鹿は合格し、もう一人の部下は落ちて院試を受けることになった。私は、その馬鹿に、即座に、「おい、口約通り、裸踊りしてくれんだろ?おめでとうと言いたい所だが、お前の仲間が院試を受けることになるんだぞ。その必勝祈願の為にも、お前、今ここで裸になれ」と言ったら、その馬鹿は、「何で俺がそんな事しなきゃならないんですか?」と言ったので、私はブチ切れた。「そもそも自分で言いだしたことだろうが!!落ちた奴の気持ちにもなってみろ。夏休みの間、お前は遊べるけれど、落ちた奴は、ずっと勉強だぞ。それを考えたら、お前の裸踊りなんて安いもんじゃねえかよ。自分で言い出したことなんだから、責任を持って、存分に裸踊りしてこい・・・まさか、今さらケツまくって逃げるつもりか?」と、ドギつく言ったのだが、結局、そいつはやらなかった。ますますキレた私は、「お前なんか男じゃねえ!!」と怒鳴り、そいつの事を軽蔑する様になった。合宿で殴った時も、売られた喧嘩だった。そいつは、院を出て、某企業に就職したが、OB会で会った時、片方の肺の1/3を摘出したと言っていた。それでもタバコを吸う様な究極の馬鹿だった。

・「それ以上言うな、女々しいぞ」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

家庭教師の選び方

・以前、私は二人の家庭教師に教わったと書き、一人目はロクでもない野郎だったという印象を綴った。高一か中三の時の夏休み限定で、京大のアメフト部の人を、また、母の独断で勝手に選んできた。母が選んできた最初の家庭教師が最低な野郎だったので、あんまり乗り気ではなかったのだが、その先生は物理などを基礎から教えてくれた。そして、「二回に一回は(先生の)家でやってもいいよ」と仰って下さったのだが、私は、「そうすると、逆に緊張してしまうので」と言って遠慮した。その先生は、私が疑問に思った所などがあれば、いくらでも付き合ってくれた。制限時間など無視してでも教えてくれた。私は宿題こそしないものの、その先生に好感を持ち、最後の時に、お袋に、「少し多めに包んであげて」とお願いした。私も大学で勉強しだして、教える立場になったが、家庭教師の場合は、時間など気にせずに、教え子が解るまで、根気強く、ギャグを交えながら教えまくった。人を育てるという信念がなければ、人を導くことなど許されないのである。それが、塾講師時代には、無料授業という形になったし、私は、それでも間違っていないと確信している。家庭教師は、まだ楽な世界だった。私が家庭教師をする際には、必ず、テーマを与えて作文を書かせていた。考える力を養ってもらう為にである。そして、それを観て、徹底的に議論を交わした・・・結局、『教える』という事は、有り難い様で骨の折れる仕事だった。そして、二人の家庭教師を比べると、人を教える立場の人間は、人格者でなければならないという結論に達した。一人目の家庭教師には、「吉田松陰をみならえ!!」と言いたくて仕方がない。

・才能ってあるんだぜ・・・その道ばたに転がって石にも一輪の花にでもあるんだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海棠の名木

・私の通っていた数学塾の側に、大きなお寺があった。通い始めて何年後かに、そのお寺が、日蓮宗の有名な寺だと知った。授業まで時間がある時に、境内を歩いてみたことがある・・・後に知ったのだが、小林秀雄の随筆で、中原中也と花見をした寺だということを知った。今は、新しいものになってしまっているが、当時は、海棠の名木があり、二人共、黙ってそれまでのお互いの人生を振り返っていた様だ。中原が、「この木は、枯れる前に精一杯に咲き誇っている。いわゆる死に花だ」という様な言葉を発した後、しばらくの沈黙の後、小林秀雄の心を見透かしたかの様に、中原が、「もういいよ。帰ろう」と言ったので、小林は、「お前の目は千里眼だな」と応え、帰って行ったらしい・・・二人の間には、キーとなる一人の女がいたのだが、もろもろの事情の中で、二人が絶交しなかったのが、私には不思議だった・・・そんな由緒のある寺だとは思ってもいなかったので、近頃、訪れる際には、のんびりと緑に包まれた境内を散策し、お堂の階段に座ってお茶を飲みながら、鶯のさえずりをのんびりと聞いている・・・ただ、このお寺には、若い女性一人で行かない方がよい。どんなに天気が快晴でも、どことなく暗いのだ。実際に、襲われた人もいると、塾の師匠からも聞いた。私は、このお寺は好きなのだが、確かに、暗い雰囲気であることは否めない。行くなら、若葉の季節が絶好でもある。

・宇宙物理学の事は、般若心経の中に書いてある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ロクでもない野郎

・これまでに私は、二人の家庭教師に観てもらった事がある。一人目は中二の時に、母親が近所の銀行で張り紙を観て決めた、早稲田の文系だった。その一人目の家庭教師は、英語などは文法説明も無いまま、テキストを訳させるだけだった。後に自分も家庭教師をしてみて、教える情熱など、まるっきり無かったのだという事が判った。時はバブルのご時世で、遊びまくっているのが手に取る様に解る、駄目な奴だった。ある時、さりげなく自分の学生証を見せて、経歴詐称はありませんと言わんばかりの顔をしていた。そいつは、私が中三になって、数学が数Ⅰに入ると、「俺には教えられない」と言い、使い物にならなかった。さらに、時間が来ると、わざとらしく時計を観て、授業を切り上げる天才だった。また、親父が教育面での考え方を挨拶代わりに尋ねると、ソツのない返事をし、親父が去った後、「格好のいい親父さんだな」などと、おべんちゃらにも余念が無かった。ある時、私がそいつに、「将来、自分も人を教えられる様になりたいです」と言ったら、そいつは変な顔をして、「教える事と教わる事は違う」と、私をナメ切っていた・・・次第に、私はそいつに嫌気が差し、そいつを試す様な事ばかりしだした。いろんな質問をしたら、毎週、「来週までに調べておくから」などと言って、調べて来たことは無かった・・・私が教える仕事をした際には、生徒との約束は死んでも守った。自分で解らない所は、友達に聞いてでも守った。そうしなければ、生徒に宿題を出して、やってこなかった場合、示しがつかなかったからだ・・・今思うに、一人目の家庭教師はロクでもない野郎だった。

・道義に反することは、やってはならない。時間気にして家庭教師が務まるかよ!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

意味不明な男

・中三の時、私達の中学の受験監督補佐役と机運び係とを分ける際、希望用紙が配られたが、みんな、補佐役を志望した。学校の顔だからである。しかし、どういう仕組みだからからは解らないが、抽選でもなく、一方的に振り分けられた。私は机運びになったが、納得が行かなかった。決めたのは、いつも、「民主的に考える事が大切です」と言っていた、アメリカかぶれの、テープレコーダーしか廻せない英語教師のつもりの担任だった。私は、そいつが、論理的な話が通じない馬鹿だと認識していたので、文句を言う気にもなれなかった。当然、私はそいつの授業でも眠ることに専念していた。論理的な話が通じない相手に、何を言っても無駄であるし、何を決めるにしても、独裁者の様に振る舞っている奴が、いくら『民主的』となどと言おうが、矛盾しているのである。机運びに廻された連中は、みんな文句を言っていたが、私は黙っていた。その代わりに、そいつの事をナメ切っていたし、授業にも出なくなっていった・・・後に、学校側が、試験監督補佐役に何故、高校生では無く、中学生を使うのかと考えてみたが、私の中の結論では、中学生は、また、ガキだから、カンニングなどを見付けたら、容赦なく試験監督に報告するからだろうな、と思った。それにしてもテープレコーダの教師は、ナメられる要素を、自分の方からバラまいている様なものだな、と思った。

・『DVDプレーヤーぶっ壊れたぞ?』

『しかも、DVDが入ったままだあぁぁ!!』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

馬券をのむ奴

・競馬では、相対的に牝馬は牡馬に比べて、夏に強い傾向にある。若かりし頃、GⅠの宝塚記念を予想する時、知り合いの競馬新聞を借りて、授業中に予想した。新聞を貸してくれた知り合いは、馬券を買いにゆくというので、私の分も買ってきてくれと頼んだ。私の予想では、出走する馬が少なかったので、一点張りにした。本命が堅すぎたので、二着を選ぶレースだった。私は迷いながら、二着を牝馬の馬券にした・・・車でどこかに出かけ、渋滞にハマっている時に、カーラジオからレースの結果を知り、自分が馬券を取った事が解った。小さくガッツポーズした。買ってきてくれと頼んだ奴は取れなかったらしい。そいつから勝ち金を取るのは、気の毒であったが、勝負は勝負、取った者勝ちである。その後、『ジャパンカップ』もそいつに頼んで馬券を取ったのだが、そいつはまた取れず、「少しは還元しろよ」と言って勝ち金の一部をピンハネした。私は、『この野郎、俺が頼んだ馬券をのんだな』と勘が働いたと同時に、『こいつには、博打を打つ資格はねえな』と思った。博打では、一時的に損する事があっても、そこで辛抱することが肝心なのだ。『こいつは何やっても駄目やな』と感じたと同時に博打を打つ資格が無いと思い、『きっと、こいつは社会でも信用されないだろう』と哀れに思った。

・ネットの広告は、下品でレベルが低い。

・種馬こと石田純一、fee(種付け料)-3000万円。友達の娘に手を付けるなんて、最低だぞ・・・男として許しがたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

多くの屈辱の中に

・大学に入って、一番最初に驚いたのは、前期試験の二週間くらい前から、クラスメイト十数人かが、図書館で一緒に勉強している姿を観た時だった。皆が皆で教え合い、協力している姿を観ると、気持ちが悪かった。ヤッさんではないが、内心、『勉強ぐらい己一人で出来なくてどうするんや』と思った。当然、私は一緒に勉強することなどせず、クラスの中心の輪からは遠ざかったが、私と同じ考え方をしている奴も多く、後期はそいつらと付き合い、私が教室のど真ん中に座り、授業をその面子中心で盛り上げていたので、図書館グループも手を出せなかった・・・もっとも、授業などは聞かず、バカ話ばかりしている連中だったので、欠席率及び遅刻率も私を筆頭に、圧倒的に多かったが・・・

・自己紹介の時には、「何々の研究をしています」などという、研究報告では無く、オリジナリティーをアピールする方が重要である。というのも、私が研究室のOB会に行った時に、自己紹介で、学生全員が、研究の話しかしていなかったので、私は、内心、『お前は研究なのか?』という疑念を抱かずにはいられなかったである。自己PRなり何なり言ってくれないと、ただでさえまずい酒が、一層、まずくなる。面白味が無いではないか。

・多くの屈辱の中に、人間の価値が生まれる要素が多く含まれている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

時期尚早かと存じます

・家の近所に、徒歩一分で行ける整形外科がある。腕は今ひとつなのだが、非常に愛のある先生なので、はやっている。ある時、私がアンカで低温やけどをした際、大きなかさぶたの様な物が出来た。診察を受けると、「この場合、かさぶたを剥がした方が治りが早いんですけどねえ」という、恐ろしき一言を放ったので、すかさず私が、「私は時間が掛かっても、治ればいいと考えております。今、ここで、かさぶたを剥がすのは、時期尚早かと存じます」と、激痛逃れの必死の弁明をしたら、先生は、「時期尚早ねえ」と大爆笑しておられた。そして、松葉杖を無償で貸してくれ、痛み止めと抗生物質を出して下さった。おかげさまで、今では、その傷もすっかり癒えている。

・幼少の頃に、私は『シザーハンズ』では無いのであるが、ハサミを持っていた。何を考えていたのか、良く覚えているわけでは無いのだが、お袋がかけている掃除機の電源コードに、ハサミを入れてしまった。瞬間、ピンクの光が見えて、大きな音がして、掃除機は止まった。お袋に叱られることは無かったが、ハサミの刃で、コードと接触した部分が欠けており、泣いた記憶がある。掃除機の電源コードは、親父が修理してくれたのだが、それからというもの、私は電気に恐怖心を抱く様になり、実際に大学でも電磁気学の単位を落とした。私は次の年に単位が来たが、私の友人で二人程、電磁気学の単位を二年連続で落として、一科目留年という悲惨な思いをした連中がいた。慰めの電話を入れた覚えがある。そのうちの一人は、暇なので、次の年に教職の単位を取っていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ゴンビーラと金比羅さん

・萩を旅していた時、ある寺に入った。『八正道』が書いてあり、自分はそれを行っているか、と自問自答した。売店みたいなコーナーがあったので、寺の方だろうと思える人に、「明治時代の廃仏毀釈で、どれくらいの寺が、萩では潰されたのでしょうか?」と質問すると、その人は住職の奥さんらしく、「ちょっと待って下さい」と言って住職を連れてきた。その住職も温厚な方で、気さくに、「私が知っている限りでは、萩では、寺の2/3が潰されたそうです」と教えてくれた。私が、「それは、とんでもない悪政ですね」と言うと、住職は、「うちの寺が潰されなかったのは、伊藤博文が幼い頃、よく遊びに来ていたからです」とおっしゃった。そして、「四国に金比羅さんがあるでしょう。仏教では『ゴンビーラ』というのは、梵語で『ワニ』の事を意味しています。だから金比羅さんは、海の神となったのですよ」と教えて下さった。それから私が、般若心経について聞いたりしていたら、住職はニコニコしながら、「私が書いた物でよろしければ、差し上げますよ」と仰って下さったので、遠慮するのも失礼だと思い、緑色の紙に般若心経をプリントした物を、有り難く頂いた。和尚に礼を言い、寺周りを見物し、去って行ったのだが、頂いた般若心経のプリントは、今でも私の家宝入れの中に取ってある。

・金比羅さんの石段を登るのは、しんどかった。毎日登っている巫女の人達の登るペースは、異常に速かった。もっと恐ろしいのは、オリンピックの女子レスリングの選手達である。あの石段を5~6分で登っていた。テレビで観ていて、度肝を抜かれた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サークルみたいな塾活動

・私が勤めていた塾に初めて行った際、コンビニのトイレで催した。塾長と面接をしたのだが、私は、「どういう信念で塾を始められたのですか?」と聞いたら、塾長は、「いやぁ~この建物、放火されましてねえ」と、事も無げに言ってのけた。『この人にはポリシーが無いんだな』と感じたと同時に、『長くは続かんやろな』というのが私の面接の印象だった…イラクがクウェートに侵攻した際、アントニオ猪木が単身乗り込んで行って、女、子供の人質は、あのフセインでさえ帰国を許したイメージがぬぐえなかった。塾長はそれとは全く正反対のことをしている、と思った。つまり、私は、『放火されないために、女、子供を教えることにしたのか?』と疑った。三年間勤めたが、この疑問はついに晴れなかった。棚ぼた地主が始めた、一種の道楽なのかとも思った。入る際に、「高校生を一人教えてもらえないか」というアクセスを受けたが、当時の私は、東大レベルの高校生を教えるのが面倒だったので、断った。しかしながら、私の代役を努めた奴は、某市大の院試を落ちるレベルであり、問題の高校生も、出席日数が足りるかどうかというような塾長の親戚だった。院試に落ちたやつの授業を見てみると、二次関数を教えるのに、、グラフ一つ描かせず、『これじゃあ解るわけないだろ』と思い、越権行為とはいえ、「グラフを書いてごらん」と言って書かせたら、式の意味も納得してくれた。その際、高校生の教科書を眺めると、いわゆる『ゆとり教育』の弊害だらけだった。

・当時の塾講師たちは、女性一人、男三人で、団結力もあったし、誰からともなく、受験生には無料授業をやっていた。それは、サークルみたいなもので、皆、楽しかったからしていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「不器用ね」

・中学時代、テープレコーダーしか廻さない授業をしているにもかかわらず、「明日、ノートチェックをします」という、目茶苦茶な英語教師がいた。授業では、文法説明などされず、ただ、ひたすら発声練習(それも間違った発音で)ばかりを叩き込んでおいて、余裕顔をしていた。『こいつおかしいんじゃあねえのか?』という疑問が湧いた。もし、私が高学年であれば相手にしなかったのだが、中一の一学期ということもあって、ノート半分を一晩にして埋めた・・・筆圧の高い私は、それから右肘の具合が悪くなり、ピッチャーでもないのに、右肘を故障してしまった。今でも、右肘を伸ばすと、関節から微妙な音が出る。痛みは無いのだが、何でテープレコーダーしか廻せない教師がノートチェックなどするのかと、今でも腹が立つ。最も、その教師は、先輩から引き継がれたかの様に、私の同学年でもナメられていた。その教師は、文系出のせいか、論理的な話が全く通じないのである。大学時代に友人が、「教職程、世間知らずな人間はいない」と親父さんが言っていたという事を聞いた。皆が皆、そうだとは思わないが、少なくとも、そのテープレコーダー教師には当てはまる。

・「おまえはSとMと、どっちなんや?」と聞いたら、「隠れS」と応えた奴がいた。所詮、男なぞ、そんなものなのかも知れない。

・小学一年の時、好きな子がいて、クラスの中で私だけが、ちょうちょう結びが出来なかったら、「不器用ね」と言われ、相当ショックを受けたことがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カッカとするな

・大学の裏の学生街で、学生時代、麻雀を打ったりしたものだが、その中の一軒で、役満を上がると、記念に小さな色紙を渡してくれ、上がった役を書き、壁に貼り付けるという儀式がある店があった。だから、その雀荘は、壁だけでは無く、天井の一部にまで色紙が貼り付けられていた・・・ある晩、友人とその知り合いとで、徹夜で打っていた時、一晩で、ダブル役満が一回、役満が二回出たことがあった。こんなこと、私もはじめてである。他の卓の麻雀を打っている知らない連中から、「あの卓どうかしているぞ、今日は」などという声が聞こえた。一緒に卓を囲んでいたうちの三人が役満(私は大三元)を上がったという事は、残りの一人が大負けしたという事を意味する。役満を上がった面々は、150円払って、「おばちゃん、ペヤング頂戴」と雀荘のおばさんに作ってもらったペヤングを食べながら、余裕で打っていたのだが、一人負けしていた奴は、ちょっと汚い戦法に出た。四人のうちのダブル役満を上がった奴は、眠たくなったりすると、すぐに頭に血が上る奴だったのである。そいつが得点計算を出来ないのをいいことに、一人負けしている奴が得点をゴマかしだした。私は黙っていたが、途中でダブル役満を上がった奴が気付き、案の定、朝の四時頃、ブチ切れた。口汚く罵っていたが、それは点数計算が出来ない奴が悪いのである。そいつの勝ち分は半分に減った・・・博打の鉄則では、絶対に感情的にならないことである。

・麻雀のコツは、ツキが無いときには、おとなしく辛抱をし、振り込まずにチャンスが来るまで、死んだフリをすることだ。そして、ツキが回ってきたら、たたみかける事につきる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

現実的に有り得る訳ねえだろ

・自称、ヤクルトファンの数学教師が、いつも通り、野球の話から授業を始めだした。『この馬鹿、またかよ』という思いの中、寝ようとしていたら、そいつがなおさら馬鹿な事を言っていたので、それだけは聞いていた。話によると、前日、ヤクルトは接戦を引き分けていたのだが、ヤクルト有利のままで終わった様だった。その教師曰く、「勝率で順位が決まるのならば、ぶっちゃけた話、最初に一勝して、後は全部、引き分ければいいんですよね」とグチを言っていた。私は、『そんなこと、現実的に有り得るわけねえだろ。こいつ、これでも数学の教師か?』という怪訝な思いの中、眠りに就いた。その教師は、数学自体が解っていなかったので、いかに自分の話を生徒に聞かせるか、という事に夢中になっていて、その為なら、講義もせずに、馬鹿話ばかりをしていた。無論、聞く価値なぞ無い。相手にしている時間も無いので、中一から高三まで寝ていたが、そういう奴に限ってレベルの低い問題を試験で出してくるので、『俺をナメていやがんのか?』と、やりがいが無かった。私は数学塾に通っていたので、授業だけ聞いていた生徒には、ちょっとややこしい問題を出されると、付いて行けない筈だ。優秀な先生もいたが、そいつはまるで駄目だった。高三になっても野球の話をしていたので、みんな、『何、寝ぼけたこと言ってやがんだ、この野郎』と内心で思っていたので、誰からも相手にされなくなった。どうでもいい推薦を採った、馬鹿な生徒だけが話に耳を傾けていた。

・馬鹿クラスで、どうでもいい推薦を採った奴は、何人かいたが、完全にお遊びモードだった。免許を取ったりしていたが、それまで怪しい長髪だったやつが、面接前に坊主頭にしていたのには、笑ったと同時に、どうしようもない姑息さを感じた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »