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高僧の憂鬱

 千葉の県立高校で将来的に『道徳教育』を行うと聞いた。教育と道徳について以前、私が書いた論文があったので、紹介してみたい。かなり長いけれど、ご勘弁を。

  「高僧の憂鬱」                               

 ある高僧曰く「仏壇、神棚がある家に育った子とそうでない子とは将来大きな差が出ます」これは、「敬い」という観点からは当を得ており、教育の原点と言っても差し支えないであろう。子は親を観て育つ、ならば「道徳」の基本は、年長者の振る舞い次第によって培われる。親然り、教師然り、全ての大人の責任でもある。    

 教育問題を扱う上で「道徳」が中心になるのは当然であろう。それ無き処に個性の尊重などあり得ないからだ。昨今の教育現場の惨状、家庭の無責任さなどの具体的な嘆きばかりが取りざたされる中、一番根本的な原因である、この問題についてはあまり耳にしない。本来ならば、ここにメスを入れるべきであろう。        

 さて、教育再建というテーマであるが、再建というのは不可能に近い。教育問題も時代の変遷と共に変わってゆくのが必然であるから。例えば、高度成長の頃の教育に戻そうとしても時代が許さない。もはや、量で教育を語れないのは、将来の少子化を考えれば明白である。受験戦争などという言葉が死語になって久しいが、これは価値観の多様化と共に、文化自体の変態を物語っているのではあるまいか。生きる上でのセオリーなど存在しないという本来の仕組みに気付かされた反面、単的なる押し込み教育が通用しなくなった模様。察するに、教育問題は量から質へと変わりつつあるというのが自然な見解ではなかろうか。                    

 世に性善説、性悪説あれども結論は未だ出ていない。天分、努力を語るに、人は皆、ダイヤの原石として生まれてはくるが、その大小は選べぬ。しかし、原石である以上、磨かねば光らず、そうするには本人及び環境に依ることは否めない。さすれば、教育とは研磨石の如きものであって、家庭、学校、様々な外的要因に負うところが大きい。その担い手の一部である、教師の存在は重い。では、果たして、教師の価値とは何をもって量られるべきか。勉強を教えるのがうまいなどというのは必要条件である。もっと、他に規範となるだろう根拠がある筈であった。しかしながら、いわゆる「ゆとり教育」の失敗は、「ゆとりの時間」を有効利用できなかった教師の問題たる部分が大きい。また、ゆとり教育で問題視された円周率「三」がなぜ拙いのかを考えるに、数学的好奇心が育たないからと言えよう。円周率が「三・一四」ならば、何故、「・一四」で止まるのかを不思議と思い考える。そこの辺りに子供の将来的可能性の芽がある。また、一方で若者の読書離れも深刻な問題である。本屋には雑多な本が並べられる現状、文壇の責任もあろうが、それだけではあるまい。しかし、文学廃れるところに文化が廃れる。言葉が思考の基底である以上、やがては、国の文化的存在意義に関わる問題ともなろう。宜しい本は教養の母であるというのに。           

 義務教育を語るに、何を尺度とするべきか。一つは勉強の問題、次に社会性の訓練などが挙げられよう。前者の問題を論ずるに、概ねほとんどの生徒は勉強がつまらないと答えるのではなかろうか。それは、ある意味、素直に正しい。受動的な勉強ほど退屈なものはない。勉強という字は、強いて勉めると書く。しかし、学問という字は、問うて学ぶと書く。学問は能動的であり、そのために勉強する様になると面白くなる。しかしながら、ここに至るまでには熟練と年季がいる。さらに、熟成には一層の研鑽が必要だ。孔子は十五にして学を志し、三十にして立っている。つまりは孔子でさえ、少なくとも十五年という歳月をここに費やしているのだ。義務教育での勉強が将来、役に立つかという問題を考慮する際に、役に立たないという者もいる。しかし、子供の可能性という土壌に種をまき、その萌芽のきっかけになるという意味では、充分に価値がある。子供を導く者は、その先達として、ここを認識せずして存在価値など無い。最優先されるべきは、子供の「何故?」という純粋な好奇心を尊重し、将来的に自分で考え、判断する人材となる手助けなのだ。一方、後者に視点を移すに、具体的悩み、数多あろうが、人間力学を学ぶことと、我慢という訓練に集約されるのではなかろうか。人間力学とは読んで字の通り、表面的社会性の問題である。様々な規模のコミュニティーで形成される我々の社会に於いて、人は一人では生きられない。その中でのルールの基本などが学校のを中心とした人間関係に於いて学ばれる。必然的にストレスも生じよう。そこで、内面的な我慢という訓練が大切になってくる。例えば、ある事象があった際、それを将来の肥やしにする者とそうでない者に分かれるのは、個人の内面的な問題であろう。しかし、将来の可能性を信じられる者ほど、内面的な葛藤にも耐えられるものである。成熟した大人は同じ道を歩み、自らの人格を培っている。ならば、子供にも、その事をせめて示唆するだけでも充分な教育と言えるのではあるまいか。                              

 そもそも、机上には知識のみしか転がっていない。それだけをいくら膨らませても、単なる頭でっかちな世間知らずができるだけだ。「知識」もたしかに肝心であろうが、生きてゆく上では「知恵」の方がはるかに重要である。では、知恵はどうやって得られるか。こればかりは汗を流して体得するより他にない。苦労しなければ知恵など得られぬ仕組みになっている。「狭き門より入れ」という言葉が尊重されるのは、そうでない場合が圧倒的多数であるからのみならず、この過程でしか人は学べないということでもあろう。知恵を学ぶ場合に最もよろしいのは世間に学ぶことである。教育上のボランティアなどは心の成熟に有意義である。また、旅なども同様であろう。自分を耕すという意味に於いては。                        

 ここまで様々な観点から教育について触れてきたが、具体的にどの様に教育を変えてゆくべきかを提示してゆきたい。まず、学校の意味について考えるとき、その定義を単なる「教育機関」としてのみではなく、人生を学ぶ「道場」とするべきではなかろうか。その上で、生徒達に、好奇心の芽である「何故なのか?」という問題意識を常に抱かせ、様々な事柄に対して議論させることが望ましい形態の一つであろう。議論ほど人を伸ばすのに効果的な方法は無い。例えば、情報の氾濫している現代社会に於いて、嘘を見抜く能力が必須なのは明らかである。新聞、雑誌、本、CM、ネットなどに代表されるメディアが流す情報、これら全ての情報を本物だと認識すれば必ず矛盾を生じる。つまりは、どこかに嘘があることになる。或いはほとんど全てが嘘かも知れない。その判断能力を培う上で、もちろん本人の努力も必要だが、教育が果たす役割は大きい。実際に一つの事象について調べる際、数あるメディアが異なる主張をしている場合など、様々な情報を参照して議論することなどは有益なのではないだろうか。思想上の問題ではなく、そこを通じて「論理的思考」を修練できることが、何よりも大きい。また、そのための準備として、自身で物事を調べるということも必要となるであろう。これらの前向きさがあらゆる方向でプラスに働くのである。一例として、将来、あらゆる仕事に欠かせぬ責任意識も育まれよう。また、生徒の「何故なのか?」に対して、教師はノルマだけを考えずにできるだけ応えてゆく姿勢が必要である。教師が最も努力し、その模範とならねばならぬ以上、適応できぬ事は許されない。何も教師だけではなく、様々な方々の協力を仰ぐ方法もあるだろう。しかし、軸はあくまでも教師であることに変わりはない。もしくは、日本の教育現場を根本から変えるには、フランス並みに教師の社会的地位を上げることも必要かもしれぬ。優秀な学生が進んで教師になるというケースが稀過ぎるからだ。日本の大学生の質の低さも重要課題であるが、これらを改善するには、やはり、その前の段階で手を打たねばどうしようもない。                           

 自主性を確立する上で重要な要素は、問題意識を持ち、常日頃から自ら考えて判断する鍛錬を欠かさない事だ。これは勉強のみならずあらゆる事に関してでもあり、つまりは人生の課題でもある。責任は学校、家庭以上に、本人自身に重くのしかかる。人生に卒業が無い以上、人は一生学び続けなければならない。ならば、人生の充実、もしくは幸せを求める場合、それは本人の自覚と努力次第であろう。      

 教育とはそれを本人に強いることではなく、そっと後押しすることではなかろうか。先達は言葉ではなく、行動で示すべき事柄である。教育に於いて最重要なことは、本人を深く信じるということであり、信頼関係が確かであれば、本人も大きくは道を踏み外さない。その上で「道徳」に乗っ取った手本を示せば自然と本人も同様に育つ。「道徳」とは先達の自らへの戒めより生じると同時に、日常の些細な仕草から始まる。挨拶、謝辞、食事の際の謙虚な感謝、これらの基本的な振る舞いをできずして、どうしてそれ以上のことができようか。また、これらのことが家庭で為されるか否かで、その家の空気が変わる。原点はここに有り、その延長線上に他人への思いやりや、社会に還元できるだけの人間的実りがある。これらを皆が意識することによって、社会全体がより円滑かつ温情味を帯び、ひいてはその国の文化レベルの向上へと繋がるのではないだろうか。教育再建の方法及び目的は、ここにあると言えよう。

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