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2010年11月

時計がぶっ壊れ…

 私には十五年間以上、付き合った時計がいた。大学入試の時の時計は無くしてしまったが、これという思いはなかった。私が大事にした時計とは、実際に、一緒に世界中を駆け巡ったのである。アメリカ横断、ヨーロッパ鉄道めぐり、思い出が尽きないのだ。ある日、時計が止まっていることに気が付いた。修理を何度もし、その度に蘇ってきた時計ではあるが、時計商によると、腐食が進んでいて、いつ壊れても仕方がない、と言われた。前回のことである。今回も何とか切り抜けてくれると思ったが、時計商は、「電池が原因ではありません」と時計の最期を看取る様に言った。私も納得せざるを得なかった。まあ、一万以下で買ったにしては長持ちしてくれたか、位の気持ちでいたが、思い出の詰まった時計との別れは、突然やって来た。

 次に考えたのが、次なる新しい時計についてであった。すぐには戻らない気持ちの中、ショーウインドウを眺めていた。私は汗っかきなので、迷わず革のバンドを選んだ。ぶっ壊れた携帯と同じく、その時計を愛することにした。しかし、三万弱の出費は、やはり、年末年始には痛い出費だ。携帯と時計で六万近く使った事になる。

 自分で使う分には何とかなるのだが、正月の、弟のガキ共のお年玉攻撃には参る。やらないと、叔父ちゃんとしての立場がなくなるのだ。内心で『この、クソガキ!!』と思っていても、何だかんだ言って、かわいいだけなのである。

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『龍馬伝』と『お~い龍馬』と『竜馬がゆく』と

 TVの大河ドラマ、『龍馬伝』が昨日終った。配役なども見事でであったが、あれでは時代情勢が掴めないとも思った。何故、幕末の志士たちが時代を変えるために、命がけだったかの、説明があれではなされていない。そんなこんな言うのも、毎週観ていて、解りにくかったからなのだが、楽しみにしていた。そんなこんな言うのも、私のお袋もストーリーが解らないと言っていたからである。

 そこで、私は、漫画の『お~い龍馬』をお袋に勧めた。例の武田鉄矢氏が原作の漫画である。当時、私は高校生頃で、隔週連載のヤングサンデーを購入していた。新作本が出たら、迷わず買っていた。全23巻、全て買った。その後、家庭教師をしていた頃に、二冊ど抜けたが、お袋もこれなら解りやすい、と喜んでくれた。抜けている所は、私が説明し、それでストーリーが繋がったらしい。

 『龍馬が行く』は、司馬先生の作品だが、高一の頃に読んでいた。私がプール脇の日陰の所で読んでいたら、走っている友人が、「何読んでいるんだ?」と言うので、「『龍馬が行く』の3巻だよ」と応えたら、そいつは私の横に座り、「面白いのか、それ?」と聞かれたので、「面白くなきゃあ読まないよ」と笑って過ごしていた。彼は、「(私の恩師である)先生に勧められたのか?」と聞いて来たので、「違うよ、興味を持っただけだ」と突っぱねた。彼は、「じゃあな!!」と言って走りに戻っていった。…まあ、私の場合、『世に棲む日々』の吉田松陰先生と高杉晋作の方が好きなのだが…今回の大河ドラマは、慶喜公を軽んじている気がした。

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ゆっくりとしよう

 今週はいろいろあって、疲れた。仏間で経を読んだ後に、ゆっくりとしよう。

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携帯がぶっ壊れ…

 数日前、二次元バーコードを携帯で読み取ろうとしたら、読み取れない。携帯の使い方をよく知らない私は、友人に電話し、携帯での読み取り方を聞いた。携帯で、バーコードリーダーを起動し、読み取ろうとしても、画面にバーコードが映らない。おかしいと感じた私は、カメラを起動してみたが、真っ白な画面が映るだけである。嫌な予感がした私は、翌日、docomoショップに朝一番に駆け込んだ。

 店員の方に挨拶して、事情を説明すると、まずは、CD-Rにデータを保存した後、設定のミスがないかを調べてくれた。無かった。カメラの機能が壊れている事を指摘され、修理に六千円程度の費用と、2~3週間ぐらいの時間が必要だと説明された。それでは時間がない上に、年末年始の忙しい時期に携帯がないことなど考えられなかった。一万六千円分のポイントがたまっていたこともあり、新しい携帯を買うことにした。本当はスマートフォンが欲しかったのだが、まだ時期尚早と、FOMAのP39にすることにした。Panasonicに勤めていた友人がいることと、docomoエンジニアリングに勤めている友人がいるからというのも大きな理由だが、使い方がほとんど変わらないからだ。

 帰宅して、基本登録を行った後で、早速、二次元バーコードを読み取ることが出来た。それにしても、年末年始で金が掛かる時期に、三万余りのの出費は痛すぎる。気に入って買った携帯ではないが、これから好きになってゆこう。海外の多くの地域で電話やメールを打てることが大きい。それにしても、携帯も高くなったものだなあ。四代目の携帯である。

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よっしゃぁ!!

 宇多田ヒカルが、人間活動をする、と言って、音楽活動を休止するとコメントしたのは記憶に新しい。彼女の音楽や歌詞から大きな影響を受けた私としては、複雑な気持ちだが、正しい選択だった様に思う。彼女の歌詞や音楽に、助けられたこともあるのだが、最近の歌詞からは、パワーを感じなかったからだ。行き詰ってんだろうなとは、ぼんやりとは認識していた。人間としては、どうなんだろうと疑問符が付いた時点で、今回の、人間活動で、成長して欲しい。そして、人格も品格も充分に形成された彼女が復活することを願う。

 そんな彼女が、12/8、12/9と、横浜アリーナで、『WILD LIFE』という最後になるかも知れないライブを開くという。私は迷わず応募した。これまで彼女のコンサートに行ったことがない上に、マイケルジャクソンとイーグルスのコンサートに行ったことはあるが、チケットを取るすべすら、ロクに知らなかった。友達に頼んでいたのだ。

 最初の応募で、私は抽選に落選した。次の、早い者勝ちの応募でも駄目だった。がっくりと肩を落とすと、すぐにセカンドチャンスが用意されていた。第一希望から第三希望まで申し込む余地があったが、私は迷わず第一志望にラストの日の座席指定を応募した。他はどうでも良かった。抽選日までにアルバムの発売があったので、購入してみると、ラストチャンスで、携帯からの応募があった。それにも私は登録した。そして、セカンドチャンスの抽選日が今日だったのだが、メールが届いており、結果を観ると、第一希望で当選していた。我が目を疑い、しばしの沈黙の後に、喜びがあふれかえった。まだ興奮冷めやらない。

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呻吟語について

 ある友人が悩んでいて、相談されたので、何か参考になる物はないかと考えていた所、昔、神保町で買った、呂新吾の『呻吟語』を思い出した。原著に書き下し文が書いてあるだけだったので、意味が掴めず、後に買った、解りやすい日本語版の『呻吟語』を読んでいた。

 友人の悩みがかなり深刻だなと感じた私は、その中に答えを見付けようとした。夕方から読み始め、赤ペンを持って、自分の意見なり、解釈なりを書きまくった。のべ、七時間ぐらい費やしたのだが、読み込んで行けば行くほど、友人の悩みとは遠い方向へ向かう『呻吟語』と格闘した。赤ペンで自分の意見を書きまくったが、外れている気がしてしょうがなかった。明日に回そうかとも思ったが、意地で全部読んだ。思う様に書きまくった。本の現代常識についてとか、ナンセンスだと思う部分には、容赦なく、自分なりの解釈を書き込んでみた。

 しかし、この本は彼の救いにはなれないと感じた僕は、半ばヤケで読んでいた。これでは、彼のために読んでいるのか、私のために読んでいるのか解らない。彼に送ろうかどうかは迷っているのだが、現在送るのは得策ではないと判断した。私も疑問に感じた点が多かったし、押しつけるのは良くない。熟読していただけに悔しいが、私の勘だと、今の彼には、道教がいいと思う。若しくは『論語』を噛みしめる様に読むとか…悩みは続く。

 もっと、考えをシンプルにしてみよう。とりあえず、眠い。寝る。

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日本語って何なんだ?

 私は、幼少の頃、母方の実家の瀬戸の幼稚園に暫く通っていたことがある。だから、広島弁とか松山弁とかは、喋れなくても、聞いたら大体のことは解る。もしかしたら、今でも、気付かない所で、イントネーションが残っているかも知れない。また、父が神戸で、母も十数年、神戸にいたことがあるから、関東に住んでいても、家庭内では、微妙に関西弁のイントネーションや言葉が混じる。標準語も混じっているし、地元の言葉も混じっている。私の日本語は各地の言葉が、ごちゃ混ぜになっているのである。それでもいいと思っていたのだが、疑問符がついてしまった。

 今回神戸に帰ってみて、電車などで話している言葉を聞くと、洗練された、上品な言葉だと感じた。そんな中で、母と私とで話をしていると、言葉の中に時折出てくる、私の中途半端な関西弁(神戸弁)が恥ずかしかったし、自分の話す地元の言葉を、えらく汚らしく感じた。

 ここで思い出すのが、帰国子女の友人が、「俺はアメリカに行ったら中途半端なアメリカ人だし、日本にいても中途半端な日本人なんだ」と語っていたことである。これは文化の問題で、言葉の問題ではないのだが、同じ日本語でも、言葉はその場所の文化を表しているという意味では、今回、神戸での言葉の問題の露呈により、何となく友人の気持ちが少しだけ解った様な気がする。まあ、あんまり気にしすぎてもいけないが、こんな風に思ったのは、初めてである。別に直す気はないのだが、というより、直しようがないのである。

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神戸の祖母との再会

 昨日は、始発のバスに乗り、母と神戸に向かった。幸い七時台の新幹線のチケットを取る事が出来て、九時半頃には、新大阪の駅に着いた。そこから、JR線で神戸の父の実家の最寄り駅まで向かった。駅を出て、てくてく坂道を登る。十五分ほどで、父の実家に着いた。心臓の手術をした叔母さんが出てきて、母が土産を渡すと、叔母さんは病院に向かうバス乗り場などの情報を教えてくれた。叔母さんも午後から病院に行くと言ってらしたが、私達は、一足早く、午前中に向かう事にした。阪急の駅まで三分ほど歩いたが、私は母に、「叔母さんの説明だと、震災後、大分様子が変わったみたいだし、行きはタクシーで行こう」とタクシーをひろった。結果、タクシーの運転手さんの話を聞いていると、大分変わっており、正解だった。

 病院に着き、ばあちゃんの病室に案内された。ばあちゃんは寝ていた。看護婦さんに事情を説明したら、看護婦さんが、ばあちゃんの耳元で、「お孫さんが来ましたよ」と大きめの声で起こしてくださった。すかさず私が駆け寄り、「ばあちゃん、お袋と来たよ」と言うと、ばあちゃんは、笑ってくれた。気管切開しているので、声は出ないのだが、唇を一生懸命動かして、何か話してくれた。多分、ありがとう、と言ってくれている様なのだが、読唇術を心得ていない私達は、勘で受け止めていた。心と心の対話をしたといった所か。「(自費出版ながら)ばあちゃん、俺、本を出したぞ」と言うと、また何か言いながら、笑ってくれた。手を握ると、握りっぱなしで、手首などは3cm位しかなかった。看護婦さんに聞くと、硬直が始まっているとのことだった。私は、今回が本当のお別れだろうな、と感じる中、ばあちゃんの顔をまじまじと、心に焼き付ける様に観た。時々、痛がるばあちゃんに、喋れないのが辛いのだろうとも思った。母と代わり、母が話しかけている間、看護婦さんに、熱の具合を聞いた。朝は熱があったが、昼には平熱に戻ったとのこと。少し安心した。一段落つき、母と私が、「また来るからね」と言って別れた。ばあちゃんの目には僅かながら、涙のしずくがあった。

 その後、例によって、新幹線で家路についたのだが、母が、「来て良かったね」と言うので、「そうだね」と言った。駅弁を食べた私は、その後一時間ぐらい寝てしまった。帰宅してからも、興奮してなかなか寝付けなかったが、横になると、いつの間にか爆睡していた。

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急遽、神戸へ

 一昨日の夕方、父の姉に当たる東京の叔母さんから電話があった。母が取ったのだが、なんでも、九十四歳の父方の祖母が肺炎にかかって熱があるらしいとのことだった。そして、私に、もしも祖母が危なくなったら、長居したいので、安宿を紹介して欲しいという依頼がやって来た。六甲の叔母さんは、最近、不整脈の手術をしたばかりで、実家には泊まれないのだ。電話が切れると、母から、至急、ネットで調べなさい、とのお達しが来た。

 私は、神戸の土地勘がないので、母に聞きながら、色々と探していた。ホテルで交通の便を考えると、なかなか安いホテルというのは見つからなかった。しかも、これから暮れになり、新年を迎える時季に、部屋を長期間押さえるのは、はっきり言って不可能に近いとも思った。叔母さんは素泊まりでもいい、というので、作戦を変えてみることにした。ウイークリーマンションあたりから検索してみた。すると結構ヒットし、安く泊まれそうな所があった。叔母さんは、私の母よりも年上なので、パソコンなどをいじるのには慣れてはいないので、ネット予約は出来ないだろうと思い、その会社の名前と電話番号を電話で伝えた。

 高齢での肺炎は、かなり危険である。私と母で相談し、祖母の所へ、今日、見舞いに行くことにした。以前は車で帰ったのだが、今回は日帰りで、新幹線で行くことになった。それが決まったのが、昨日の夕方である。無理矢理に睡眠を取り、午前三時起きの予定が、午前一時頃には目覚めてしまった。それで現在、深夜にblogを打っているのだが、今日は、体力的にも、かなりタイトな一日になるだろう。祖母との、『今生の別れ』になるかも知れない。

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のんびり

 今日ぐらいは、のんびりしていよう。

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福井でのボランティア その9

 翌朝、目覚めると、腰の古傷からピリッときた。慌てて痛み止めの薬を二錠ほど飲んだ。整形外科医から、内臓に問題がない時には、二錠飲んでもいいと言われていた薬である。バナナを食べ、暫く様子をみていたが、動く度に古傷の痛みは増加していった。遠くから来て、まだ大した働きもしていないのに、帰りたくないと思ったが、この古傷の痛みは、無理をすると動けなくなることを、過去の経験から知っていた。ヘタをすると、足手まといになる上に、帰れなくなると感じた私は、腰にコルセットを巻き、自宅に戻る決意をした。荷物をまとめ、車に積み、ホテルの宿賃を支払って、本部でボランティアのバッジを返し、家路についた。

 夜遅くに帰宅し、荷物を下ろして、家に入ると、両親は起きてくれていた。帰宅の報告を済ませ、食事を採ると、親父が話しかけてきた。「ボランティアやってみてどうやった」と聞かれたので、私は、「いい社会勉強になった。世の中にはいろんな人がいるんだな。まだまだ人間というものも捨てたもんじゃないと感じた」と応えると、親父は、私のグラスにビールを注いでくれ、「そうやろ、世の中、悪い奴もおるけど、いい人も一杯おるんやで」と教えてくれた。そして、「いつかお前が言うとった、金に『浄財』なんてあるのか?って答えも出るやろ。今回、お前が使った金は、立派な浄財なんじゃないんか?」と話してくれた。私は、「そうかも知れないな」と応えた。親父は、「ほな、疲れとるやろうから、風呂入って、早う寝え」と言って、寝室に向かった。母は、腰を心配してくれたが、大丈夫、と言って、私もまもなく寝た。

 …今回のblogを通して、福井での様々な経験を積まさせて頂いた皆さん、改めて、ありがとうございました。

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福井でのボランティア その8

 「やあ」という声に振り向くと、元産婦人科医の白髪頭のおじさんがいた。既に食事を済ませたらしく、やや赤い顔をされていた。おじさんは、「僕は今日、午後から東尋坊に行ってきたんだ」と語ってらした。私は、「なるほど、ボランティアだから、無理することはないんですね」と言った。おじさんは、「そうだよ。あと、永平寺にも行ってみたいんだけれどなあ。でも、坊主が鰻を食べているようじゃ駄目だね」と言うので、私は、「僕も、あそこの坊主共、ボランティアって名目で寺から出ても、ロクに働かないと耳にしました」と応えた。

 いろんな事を話した後に、私はおじさんに聞いてみた。「あの~産婦人科医をされていたそうですが、あれをやっちゃうと、肝心な時に立たなくなるんじゃないかと思うんですが…」と。するとおじさんは笑って、「産婦人科医の時は医学的に見るから、そんなことはないよ。現に僕にも子供が二人いるしね」と教えてくださった。

 おじさんと別れ、おじさんに紹介された店で食事を採っていた。ビールを飲みながら、ランボーの地獄の季節(小林秀雄訳)を読んでいると、バイトの若い青年から声を掛けられた。「ランボーですか?」から始まり、しばらくいろんな深い話をした。すると、先輩から、「これ運べ!!」と言われて大急ぎで戻っていった。仕方がないので、私は紙に、名前とメールアドレスと 自己PRを書いて渡した。そしてお勘定を済まし、外に出ると、彼も見送りに来てくれた。私が、「年老いた俺にはランボーは眩しすぎて、読むのが辛いんだけどね」と言ったら、「僕も英語で読んだことがあります。福井の人って、話せる人がいないので、メール交換してもいいですか?僕は、またすぐに留学してしまうんです」と言うので、私は快諾した。

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福井でのボランティア その7

 本部に戻り、報告を終えると、何やら人だかりが出来ていた。ごみごみした所は嫌いなのだが、通り道なので仕方がない。私がすり抜けようとしたら、ある人が、「市長、この人は遠い所からわざわざボランティアに来てくれているんだぞ!!」と、私を市長の前につきだした。別にそんなことはどうでもいいのだが(山口から来た奴もいるし)、市長は市民のひんしゅくを買っていることは耳にしていた。市長と向き合うと、黙って名刺を渡された。何も言わず、ご苦労、と言っている様な上から目線だったので、私は大声で文句を言った。「私がここの水害を知った時、ネットでボランティアの情報を調べましたが、何も載っていませんでした。本当に市民のことを考えるなら、どうして行政が動いてくれないんですか?現場では、困ってらっしゃる方達ばかりでしたよ」と。みんな、「そうだ、そうだ」と言っていた。市長は苦虫をかみつぶした様な顔をしていたが、わたしはさっさと宿に戻った(ちなみにこの市長、次の選挙で落選した)。

 宿に戻り、フロントに貴重品を預けようとすると、いつもの感じのいい方ではなく、別の方だった。風呂と洗濯のために、貴重品を預けていたら、毎回、名前等を書けと言うので、私が、「いつもの方は顔を覚えてくれましたけどねえ」と言ったら、その方は、作業の最後に、「私も覚えましたから、どうぞ」と言っていた。ホテルマンとしてのプライドがあるのだろうな、と思ったが、いつもの方の方が上だなと感じた。

 その後、離れに戻ると、例の女のホテルマンの方に、「お疲れ様でした」と言われた。そして、感じのいいホテルマンの方が、入れ替わりに入ってきた。私は、「あの方、美人ですね」と言ったら、「いや、実は私の女房なんですよ」と照れてらした。職場結婚らしく、子供も二人いるんです、と語ってらした。私が、「お似合いのご夫婦ですね」と笑ったら、「ありがとうございます。では、そろそろ本館の方に戻らせて頂きます。ゆっくりお休みください」とおっしゃったので、軽く会釈をした。暫く広間でタバコを吸っていたら、「やあ」という声が聞こえた。

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福井でのボランティア その6

 その日、私は、災害本部の方に、「一乗谷に行きたい」と申し出た。すると、「車がないと無理ですよ」と言われた。なんでも、一乗谷行きのバスは別の駐車場からしか出ていないとのことだった。私は、駐車場の場所と送迎バスの時間を聞き、一乗谷に向かった。

 一乗谷では、十人以上のボランティアグループに入った。後で知るのだが、皆さん地元の方達で、みんなで、ある民家の庭の泥の掻きだしを行った。その日は暑く、大汗をかいた。休憩時間になる度に、水分を補給していた。それから、出発の時、母が持たせてくれた、カリカリ梅で皆さんと塩分を採った。スコップで泥を掻き出すのは、かなりの重労働だった。しかし、人数も多かったので、その日の作業は午前中の半日だけで済んだ。駐車場には二時頃着いたであろうか、脇にある蕎麦屋で、蕎麦をごちそうになった。何か帰るのにも中途半端な時間だな、と感じた私は、ずっと椅子に座っている女の子に声を掛けた。

 「こんな所で何しているんですか?」と聞くと、「地方公務員なので、バスの送迎を観ています」と応えた。バスは三十分おきに来るのだが、最初のが来て、その子はボランティアの方一人々々に、お疲れ様でした、と形式的なお礼を言っていた。その娘が戻ってきた時に、私は、「あのなあ、みんな、ただ働きして、疲れ切っているんだから、もっと感謝した、心のこもったお礼を言わなきゃ駄目だよ」と言うと、その娘は、「そうですね」と、反省していた。素直な娘だな、と感じた私は、バスが来ていない時間は暇だろうと思い、地面にあぐらをかいて、とめどない話をしていた。私の住んでいる地方出身のバンドが好きらしく、その話などをしているうちに、次の送迎バスが来た。すると、その娘のお辞儀の仕方と、お疲れ様でした、と言う姿勢が変わった。その娘が戻って来て、すぐに私は、「合格だ」と言ったら嬉しそうな顔をしていた。時計の針は四時頃になっていたので、「俺は本部の方に戻るな」と言ったら、「お疲れ様でした」とその娘はお辞儀した。スレていない娘だなと思い、「頑張れよ!!」と言って、私は本部に戻った。

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物事全てに意味がある

 現在、ちょっとしたことで落ち込んでいるのだが、私には書く事しか出来ないので、そうすることにした。現在、『福井でのボランティア』について書いているのだが、五、六年前のことである。いつも書きたいことが多すぎて、長いblogになっていることは、申し訳ない。

 昨日は、父の月命日なので、墓参りに母と行った。その前に、かかりつけの神経科に寄った。薬を調剤してもらっている間に墓参りに行くという作戦である。私の薬は分包なので、時間が掛かるのである。そのついでに、品物は確かだが、異常に安い八百屋にも行く。

 午前九時前に受付の方に挨拶して、診察券と保険証を出し、待合室で待っていると、既に二人来ていた。私の主治医は、アルツハイマーが専門なので、お年寄りの患者も多いのだが、進学校の制服を着た、ひ弱そうな男の子が、じっと下を向いていた。彼にも、誰にも言えない悩みがあるのだろうな、とぼんやり考えた。その子は初診で、独りで来ていた。初診なので随分待ったが、出てきても、うつ向きっぱなしだった。昔の私を観ている様だった。かける言葉もなく、私は主治医と、世間話をしていたが、彼のことがずっと気になっていた。

 人生には様々な苦しみがあるが、人生の全ての行いには意味がある。因果論に近いが、その逆境での行動が、後の自分を決める。別に神経科の薬を飲もうが構わないだろう。別に落第しようが、もっと逞しくなって欲しい。君の人生は『これから』なのだから。

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福井でのボランティア その5

 福井の繁華街は狭いので、店はすぐに判った。集合時間から、かなり送れて行くと、若い男数人と、一人の女がいた。自分の店だと言っていた、議員もいた。そのテーブルの末席に私は座った。すると隣の男が話しかけてきた。私は食事をしながら、そいつの話を聞いていた。かなり偏った奴だな、と思ったが、黙っていた。そいつは私を含め、男ばかりに話しかけていた。隣の女の方を向こうとしなかった。私は、こいつは女と喋れないんだな、と察しがついた。そいつばかりを相手にもしてられないので、いろんな奴と話をした。すると、「だって臭いんだもん」という女の声が聞こえた。山口から来た奴が、わきがだったのには気がついていたが、みんなが黙っている中、このバカ女、と思いながら、私は、咄嗟にフォローを飛ばし、話題を無理矢理変えた。山口の奴も陽気に笑顔で話し出した。こいつ偉いな、と思った私は、店を出る時、彼に握手を求めた。

 道を歩いていると、女と話せない奴がやたらと私に話しかけてきた。収まりがつかないので、ホテルのロビーで一時間位、そいつの相手をしてやった。彼は、「女とは話せないけれど、本当に心から好きになれる人が現れたら、命がけで働きます」と言うので、私は、「そんなの当たり前のことだし、大体、いきなりで、そんなムシのいい話があるわけ無いだろう」と返した。彼は東京の名門大学を卒業したらしいのだが、就職はしなかったらしい。そして彼は僕に、「自分には、出家するか、政治家になるかしか道が無いんです」と言うので、私は、「若いうちから人生をそんな風に決めつけるのはナンセンスだぞ」と言い、「ちなみに支持する政党はどこなの?」と聞くと、「共産党でしたが、今は民主党です」と応えた。私は、「お前は偏りすぎているから、出家した方がいいと思うよ。ただし、坊主の世界も俗なことは知っておいた方がいい」と話した。そして、「お前は送迎車の運転ばかりしていただろ、もっと泥にまみれろ」と言って、別れた。

 疲れてるのに、自分のことしか考えてない奴だな、と思い、気分悪く、離れに戻って、痛み止めの薬を飲んで寝た。翌日、本部でそいつに声を掛けられたので、「軍手やろうか?」と聞いたら、「送迎車の運転なので平気です」と言っていた。こいつは何をやっても駄目だな、と感じた次第である。

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福井でのボランティア その4

 翌日の現場も、決壊した堤防側での床下の泥集めだった。若い衆のグループで、中にはお城の公園で野宿している奴も居ると聞いた。彼も阪神淡路大震災の体験者だった。その日は、腰の痛み止めを飲んでいたので、私は彼らが集めた土嚢袋を外に運ぶ役目をした。

 昼になり、昼食を買い出しに行くことになったが、大阪出身の、いかにも育ちの良さそうな仲間の車で買い出しに行くことになった。車はBMW。彼は、関東から大阪に帰る途中で、何故か福井に寄りたくなり、気ままに来たそうだ。買い出しが終わり、いざ、みんなの所に戻ろうとすると、道に迷ってしまった。彼はガソリンも入れないのにガソリンスタンドの店の人に道を聞いていた。私が笑うと、道に迷うのが趣味なんだ、と彼は真面目に言う。けったいな奴っちゃな、と再び私は笑った。大学の卒論で中国の経済について書いている、とも話してくれ、車の中で、僅かばかりの議論を交わした。まだ中国が大国になる前の話である。

 みんなの所に着き、昼飯を食べていると、山口からやって来たという奴もいた。彼女に振られて、「何かいい事しないか?」と、友達を誘って来たそうだ。さて、午後になると、ペースアップして、土を掻き出した。土嚢袋は道にあふれかえっていた。何とか作業が終わった。

 本部に戻ると、市会議員が来ており、みんなそっちの方へ集まっていた。すると、「俺のやっている店で、今日はみんなにごちそうする」とその議員は言い、私も行くことにしてみた。

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福井でのボランティア その3

 「あの~ボランティアの方ですか?」と聞くと、白髪のおじさんは、「そうだよ」と応えてくれた。私が、「お一人で来られたんですか?」と聞くと、「うん。女房とは離婚した。僕は元々、産婦人科医だったんだけど、躁病になっちゃってね、これから薬を飲むんだ」と穏やかな口調で話された。私は、悪いことを聞いたな、と思い、自分の神経衰弱の持病について話してから、どの地域がどうなっているのかを伺った。すると、川が氾濫した所だけではなく、戦国時代の朝倉氏の遺跡があった、一乗谷の方がもっとひどく、壊滅状態だと聞いた。ひどい所は自衛隊がやっていることを、教えて頂いた。そしてそっちに向かうバスもあるよ、とも教えて頂いた。お休みなさい、と声を掛け合って、自室に戻り寝た。

 翌日、朝食にバナナを食べてから、本部に行った。すると、私を含め四人で、川沿いの民家へ向かう事になった。そこは、昨日ほどひどくはなかったが、四人なので、一日掛かりだった。その時ご一緒した、おじさん達三人は、尼崎の市バスの運転手さん達で、わざわざ有給休暇を取ってまでボランティアに参加していた。私が驚くと、阪神淡路大震災の時に世話になったからなあ、と言って、会社に報告するためだろう、私と一緒にいる写真を撮っていた。後で気がつくのだが、福井のボランティアでは阪神淡路大震災を体験した方の比率がものすごく高かった。

 宿に戻って、風呂に入る時に、フロントで貴重品を預けていたのだが、最初は毎回封筒を替えていたのだが、感じのいいホテルマンの方は、もう覚えました、と顔パスにしてくれた。少し腰に違和感を感じ始めていた私は、ゆっくりとお湯につかった。

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福井でのボランティア その2

 福井に到着した日の午後、市内を流れる川の堤防が決壊した地区に行くことになった。暑い時期だったので、本部にある無料のドリンクのペットボトルを二つ取り、軍手をはめて、送迎バスに乗って、現場へ向かった。着いた途端、七、八人ぐらいで作業に入った。

 そこは、独り暮らしのおばあさんの家で、駄目になってしまった家具や畳などを運び出すことになった。古く小さな家だったが、水を吸った畳などは、結構重かった。その後、床下の泥を書き出すために、板を剥がし、泥集めが始まった。土嚢袋に入れて、バケツリレーの様にして外へ運んだ。一通りそれが終わると、少しの休憩となった。この家は、もう、人が住める状況じゃないと感じた私は、おばあさんはこれからどうなってしまうんだろうと、心配した。おばあさんは、思い出が詰まった家が大変なことになっているのに、自分のことは顧みずに、ボランティアの私達に、涙ながらに、ありがとうございます、と繰り返し繰り返し言ってくれていた。私は複雑な思いを捨てきれなかった。

 休憩中、地元の方が、川が氾濫しそうな時に、市長がただ見ているだけだったらしく、皆から、「そんなとこに突っ立ってないで何とかしろ!!」と罵声を浴びせられた事を聞いた。「あいつは次の選挙で落ちるな」とも言っていた。

 休憩後は家の側溝のガレキ拾いで、結構、腰に来た。泥だらけの服に水を浴びせてもらい、泥を落として、本部に戻ると、既に夕刻だった。軍手は一日で駄目になったが、十組ぐらい持ってきていたので、捨てた。車でホテルに戻り、チェックインすると、離れの方に案内された。着替えて洗濯をし、風呂に入ってから近くの繁華街で夕食を済ませると、一気に疲れがやってきた。離れに戻り、もう、寝ようかと思っていたら、年増だが美人なホテルの従業員の方が、「お疲れ様でした」と声を掛けてくれた。その方はすぐにいなくなったが、離れの洗面所で、白髪頭のおじさんが歯を磨いている。僕は声を掛けてみることにした。

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福井でのボランティア その1

 大学時代の友人が我が家に遊びに来てくれた時、大学の試験前なのに、阪神淡路大震災のボランティアに行ったことを聞いた。何故、行ったんだい?と聞くと、以前、旅行で神戸に行ったことがあり、好きな町だったからだ、と彼は応えた。私はたったそれだけの理由で行った彼を尊敬したし、あの時、何故、自分にはいけなかったんだろうと悩んだ。神戸は父の実家がある街でもあるし、私も日本で一番好きな街であったからだ。

 それから、私はボランティアというものに興味を持ちだし、時間とお金と機会があれば参加したいと思う様になった。条件がそろうまで、かなり時間が掛かったが、ある年の夏、新潟が大洪水だとニュースで知った。私はシャベルや長靴、カッパなどをそろえ、旅支度を始めた。さて、車で出発するかという断になって、新潟の洪水は引き始めたと聞き、肩を落とした。しかし、今度は、福井の街が大洪水になったと聞いた。ネットでボランティアの情報を集めようとしても載っていなかったので、本屋で福井県の地図を買って、迷わず私は車で飛び出した。

 遠いので、途中の高速のS.Aで一泊した。次の日、福井の街中を走っていたが、土地勘がないので、とりあえず、駅に向かった。そこで情報を聞き出し、災害対策本部の場所を聞いた。迷わずそこに向かい、学校のグランドを使った、大きな駐車場に車を駐め、事情を色々と聞き、名前を登録すると、送迎バスがあるので、とりあえず今日は、午後から参加して頂けますか、と言われた。同時に、市内のホテルが、ボランティアに参加している人は、一律素泊まりで3000円の料金設定にしていることを知った。肉体労働であるし、洗濯もしたかった私は、時間もあったので、その日の宿を探した。一軒目は満室だったが、二軒目は、OKとのことだった。ボランティアのバッジを見せると、感じのいいホテルマンの方からお礼を言われたが、まだ何もしてません、これからです、と言って、午後からの作業に備えるべく本部に戻った。

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高僧の憂鬱

 千葉の県立高校で将来的に『道徳教育』を行うと聞いた。教育と道徳について以前、私が書いた論文があったので、紹介してみたい。かなり長いけれど、ご勘弁を。

  「高僧の憂鬱」                               

 ある高僧曰く「仏壇、神棚がある家に育った子とそうでない子とは将来大きな差が出ます」これは、「敬い」という観点からは当を得ており、教育の原点と言っても差し支えないであろう。子は親を観て育つ、ならば「道徳」の基本は、年長者の振る舞い次第によって培われる。親然り、教師然り、全ての大人の責任でもある。    

 教育問題を扱う上で「道徳」が中心になるのは当然であろう。それ無き処に個性の尊重などあり得ないからだ。昨今の教育現場の惨状、家庭の無責任さなどの具体的な嘆きばかりが取りざたされる中、一番根本的な原因である、この問題についてはあまり耳にしない。本来ならば、ここにメスを入れるべきであろう。        

 さて、教育再建というテーマであるが、再建というのは不可能に近い。教育問題も時代の変遷と共に変わってゆくのが必然であるから。例えば、高度成長の頃の教育に戻そうとしても時代が許さない。もはや、量で教育を語れないのは、将来の少子化を考えれば明白である。受験戦争などという言葉が死語になって久しいが、これは価値観の多様化と共に、文化自体の変態を物語っているのではあるまいか。生きる上でのセオリーなど存在しないという本来の仕組みに気付かされた反面、単的なる押し込み教育が通用しなくなった模様。察するに、教育問題は量から質へと変わりつつあるというのが自然な見解ではなかろうか。                    

 世に性善説、性悪説あれども結論は未だ出ていない。天分、努力を語るに、人は皆、ダイヤの原石として生まれてはくるが、その大小は選べぬ。しかし、原石である以上、磨かねば光らず、そうするには本人及び環境に依ることは否めない。さすれば、教育とは研磨石の如きものであって、家庭、学校、様々な外的要因に負うところが大きい。その担い手の一部である、教師の存在は重い。では、果たして、教師の価値とは何をもって量られるべきか。勉強を教えるのがうまいなどというのは必要条件である。もっと、他に規範となるだろう根拠がある筈であった。しかしながら、いわゆる「ゆとり教育」の失敗は、「ゆとりの時間」を有効利用できなかった教師の問題たる部分が大きい。また、ゆとり教育で問題視された円周率「三」がなぜ拙いのかを考えるに、数学的好奇心が育たないからと言えよう。円周率が「三・一四」ならば、何故、「・一四」で止まるのかを不思議と思い考える。そこの辺りに子供の将来的可能性の芽がある。また、一方で若者の読書離れも深刻な問題である。本屋には雑多な本が並べられる現状、文壇の責任もあろうが、それだけではあるまい。しかし、文学廃れるところに文化が廃れる。言葉が思考の基底である以上、やがては、国の文化的存在意義に関わる問題ともなろう。宜しい本は教養の母であるというのに。           

 義務教育を語るに、何を尺度とするべきか。一つは勉強の問題、次に社会性の訓練などが挙げられよう。前者の問題を論ずるに、概ねほとんどの生徒は勉強がつまらないと答えるのではなかろうか。それは、ある意味、素直に正しい。受動的な勉強ほど退屈なものはない。勉強という字は、強いて勉めると書く。しかし、学問という字は、問うて学ぶと書く。学問は能動的であり、そのために勉強する様になると面白くなる。しかしながら、ここに至るまでには熟練と年季がいる。さらに、熟成には一層の研鑽が必要だ。孔子は十五にして学を志し、三十にして立っている。つまりは孔子でさえ、少なくとも十五年という歳月をここに費やしているのだ。義務教育での勉強が将来、役に立つかという問題を考慮する際に、役に立たないという者もいる。しかし、子供の可能性という土壌に種をまき、その萌芽のきっかけになるという意味では、充分に価値がある。子供を導く者は、その先達として、ここを認識せずして存在価値など無い。最優先されるべきは、子供の「何故?」という純粋な好奇心を尊重し、将来的に自分で考え、判断する人材となる手助けなのだ。一方、後者に視点を移すに、具体的悩み、数多あろうが、人間力学を学ぶことと、我慢という訓練に集約されるのではなかろうか。人間力学とは読んで字の通り、表面的社会性の問題である。様々な規模のコミュニティーで形成される我々の社会に於いて、人は一人では生きられない。その中でのルールの基本などが学校のを中心とした人間関係に於いて学ばれる。必然的にストレスも生じよう。そこで、内面的な我慢という訓練が大切になってくる。例えば、ある事象があった際、それを将来の肥やしにする者とそうでない者に分かれるのは、個人の内面的な問題であろう。しかし、将来の可能性を信じられる者ほど、内面的な葛藤にも耐えられるものである。成熟した大人は同じ道を歩み、自らの人格を培っている。ならば、子供にも、その事をせめて示唆するだけでも充分な教育と言えるのではあるまいか。                              

 そもそも、机上には知識のみしか転がっていない。それだけをいくら膨らませても、単なる頭でっかちな世間知らずができるだけだ。「知識」もたしかに肝心であろうが、生きてゆく上では「知恵」の方がはるかに重要である。では、知恵はどうやって得られるか。こればかりは汗を流して体得するより他にない。苦労しなければ知恵など得られぬ仕組みになっている。「狭き門より入れ」という言葉が尊重されるのは、そうでない場合が圧倒的多数であるからのみならず、この過程でしか人は学べないということでもあろう。知恵を学ぶ場合に最もよろしいのは世間に学ぶことである。教育上のボランティアなどは心の成熟に有意義である。また、旅なども同様であろう。自分を耕すという意味に於いては。                        

 ここまで様々な観点から教育について触れてきたが、具体的にどの様に教育を変えてゆくべきかを提示してゆきたい。まず、学校の意味について考えるとき、その定義を単なる「教育機関」としてのみではなく、人生を学ぶ「道場」とするべきではなかろうか。その上で、生徒達に、好奇心の芽である「何故なのか?」という問題意識を常に抱かせ、様々な事柄に対して議論させることが望ましい形態の一つであろう。議論ほど人を伸ばすのに効果的な方法は無い。例えば、情報の氾濫している現代社会に於いて、嘘を見抜く能力が必須なのは明らかである。新聞、雑誌、本、CM、ネットなどに代表されるメディアが流す情報、これら全ての情報を本物だと認識すれば必ず矛盾を生じる。つまりは、どこかに嘘があることになる。或いはほとんど全てが嘘かも知れない。その判断能力を培う上で、もちろん本人の努力も必要だが、教育が果たす役割は大きい。実際に一つの事象について調べる際、数あるメディアが異なる主張をしている場合など、様々な情報を参照して議論することなどは有益なのではないだろうか。思想上の問題ではなく、そこを通じて「論理的思考」を修練できることが、何よりも大きい。また、そのための準備として、自身で物事を調べるということも必要となるであろう。これらの前向きさがあらゆる方向でプラスに働くのである。一例として、将来、あらゆる仕事に欠かせぬ責任意識も育まれよう。また、生徒の「何故なのか?」に対して、教師はノルマだけを考えずにできるだけ応えてゆく姿勢が必要である。教師が最も努力し、その模範とならねばならぬ以上、適応できぬ事は許されない。何も教師だけではなく、様々な方々の協力を仰ぐ方法もあるだろう。しかし、軸はあくまでも教師であることに変わりはない。もしくは、日本の教育現場を根本から変えるには、フランス並みに教師の社会的地位を上げることも必要かもしれぬ。優秀な学生が進んで教師になるというケースが稀過ぎるからだ。日本の大学生の質の低さも重要課題であるが、これらを改善するには、やはり、その前の段階で手を打たねばどうしようもない。                           

 自主性を確立する上で重要な要素は、問題意識を持ち、常日頃から自ら考えて判断する鍛錬を欠かさない事だ。これは勉強のみならずあらゆる事に関してでもあり、つまりは人生の課題でもある。責任は学校、家庭以上に、本人自身に重くのしかかる。人生に卒業が無い以上、人は一生学び続けなければならない。ならば、人生の充実、もしくは幸せを求める場合、それは本人の自覚と努力次第であろう。      

 教育とはそれを本人に強いることではなく、そっと後押しすることではなかろうか。先達は言葉ではなく、行動で示すべき事柄である。教育に於いて最重要なことは、本人を深く信じるということであり、信頼関係が確かであれば、本人も大きくは道を踏み外さない。その上で「道徳」に乗っ取った手本を示せば自然と本人も同様に育つ。「道徳」とは先達の自らへの戒めより生じると同時に、日常の些細な仕草から始まる。挨拶、謝辞、食事の際の謙虚な感謝、これらの基本的な振る舞いをできずして、どうしてそれ以上のことができようか。また、これらのことが家庭で為されるか否かで、その家の空気が変わる。原点はここに有り、その延長線上に他人への思いやりや、社会に還元できるだけの人間的実りがある。これらを皆が意識することによって、社会全体がより円滑かつ温情味を帯び、ひいてはその国の文化レベルの向上へと繋がるのではないだろうか。教育再建の方法及び目的は、ここにあると言えよう。

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blogを書くパワー

 昨日、今日と、出歩かなければならない日々が続く。ネタはたくさんあるのだが、何故かblogを書くパワーが、今日は湧いてこない。こんな日もあるだろう。ちなみに、親父の残した文章は完読した。載せるとしたら、区切り方が難しいと感じた次第。では。

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父の残した文章

 いつも、このblogのためのネタ帳があるのだが、一度印刷されている紙の裏をクリップで挟んで書き込んでいる。何気なく書き込んでいるのだが、昨日の紙の裏を見ると、父が病の後に、入院時や家にいる時に書いていた文章が載っており、猛烈な後悔をした。

 父のパソコンは既にぶっ壊れているのだが、wordファイルだらけの、マイドキュメントだけはCD-Rに保存してあった。blogを書き終わった後に、私の机の棚の、コンピュター関連の引き出しから、そのCD-Rを取りだして、私のパソコンにコピーして、プリントアウトした。

 量が半端じゃなかったので、事あるごとに、プリンターに紙を補充したが、何とか一時間ぐらいで作業は済んだ。その後、父の残した文章を読みふけったのだが、がんについての文章が多かった。まだ全部読み切っていないのだが、若い頃の思い出なども書いている。父の文章は、書き方や漢字の使い方には問題があるものの、段々と上手くなっているのが手に取る様に判った。特にがんの所は壮絶で、これを眠らせておくのはいかがなものか、と悩んだ。このblogに一日に二通という形で載せようかと迷っている時に私の携帯電話が鳴った。

 いつもの友人からである。風邪の話から始まり、この件について話をした。すると、別に載せても構わないんじゃないか、との返事だった。私は、量が半端じゃないし、とりあえず全部読んでから決めるよ、と応えた。彼とは交互に喪中が続き、三年間年賀状交換をしていない。家族のバランスが崩れ始めているのだ。他にもいろんな話をしたが、彼は毎日、私のblogに目を通してくれている。私の文体から、最近は落ち着いてるな、と私の調子のことを語ってくれた。

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毎日ゴミを拾っているおじさん

 私の近所の公園で、自発的に、毎日ゴミを拾っているおじさんがいる。いつも、朝の六時頃から七時半ぐらいまで拾っている。私が家のゴミ捨て当番だったり、愛犬の弥吉君の散歩に行くと、必ずと言っていいほどおじさんを見る。偉いなあと思い、時々手伝ったりもする。もう七十近い方なのだ。手伝いと言っても、おじさんが拾ってきた木の枝などを、バラバラにしたりするだけなのだが…忙しい時には挨拶をするだけだが、いつも見ていて、子供達などの、いいお手本になるような方だと感じる。母もあのおじさんには、町内会で表彰してあげてもいいんじゃないかと言う。私も無論、同感である。そのおじさんは、また、字が達筆らしく、町内会の名簿などの字を書く作業もやっておられるそうだ。当然のごとくボランティアでやっているのだろう。

 ところが、なんと、このおじさんに、わざわざ文句を言う奴がいるらしい。私はそれを聞いて驚いた。何を言っているのかまでは知らないが、誰にも迷惑をかけず、人が善意でやっていることに対して、ごたごた言う様な輩はどうかしている。人の善意を踏みにじる様な奴は、間違いなく悪人である。また、そのおじさんが挨拶しても、無視する様な輩もいるという。そいつは、不幸になるだけだ。どちらも、性格がねじ曲がっている、ただのバカである。

 ゴミ拾いというと、私の友人の親父さんも、東京で近所のタバコの吸い殻を拾い続けているらしい。もちろんボランティアである。そういう方達の姿勢を観ると、最低限、私はゴミを捨てない様にしようと、思い知らされる。お年寄りが頑張っているのに、若者が怠けてはいけない。私に出来ることは何かを考えるよりも、些細な事から行動せねばならない。ボランティアとは素晴らしいことなのだ。もっと私も泥にまみれなくては。

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大学三年生からの就職活動について

 昨日のblogで、大学での勉強について述べたので、今日は一般論的に、それについて考えてみる。まず、最近の就職活動は大学の三年から始められているというニュースを聞き、驚いた。これでは、理系の生徒が文系就職するのは不可能なのではないか、とも考えた。私の頃の理系のカリキュラムがいきていれば、絶対に不可能である。三年生の時の機械科のスケジュールは、前期に材料力学、流体力学、システム工学(ニュートン力学の応用版みたいなもの)の三本柱と、もう一つ機械部品についての必修があった。後期にも、生産加工学という必修科目があり、三年までは、毎週実験があった。他に、三、四年の間に選択科目を十五個取って、シメには卒論があった。

 そんなきついスケジュールだから、文系就職を狙う奴は、三年の間にどれだけ選択科目を取っておけるかが、勝負だった。このカリキュラムだと、卒論をテキトーにしてしまう以外に、三年生での就職活動なんて出来なかった。よっぽど優秀な奴でも文系就職がきついカリキュラムなのに、しのいで単位を取った奴など、大学で何を勉強したのかなんて、解っている筈がない。

 文系はどうなのかは知らないが、三年生からの就職活動なんて、一般教養程度しか身についておらず、短大を卒業したのと変わりがないのではないか。論外である。私は、以前、大学で得た一番の財産は親友であると書いたことがあるが、それも、上の過酷なカリキュラムを真面目にこなした上での話である。

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大学で勉強したの?

 一昨日、久々に母と激論を交わした。その時の会話の一部分…

母:「あんた、大学で勉強してたの?」

私:「二年まではサボってた。でも三年からはそれなりにはした」

母:「あの成績で、よくそんなことが言えるわね」

私:「写させてやったりしていたから、Aがこなかったんだよ。でも、三年の後期にまじめにやったら、テスト写させてくれって言う奴はいなかったな。考えてみりゃ不思議なことだ。だからその時期だけ、まずまずの成績だったよ」

母:「努力している様子なんて無かったじゃないの」

私:「あの頃は忙し過ぎたからなあ…勉強、遊び、バイト。家でなんか勉強してられなかったよ。学校で宿題こなしてた。だいたい、成績悪かったら、院の推薦なんて取れるわけ無いだろ」

母:「あれはまぐれでしょ」

私:「確かに取れるとは思っていなかったなあ。けれど機械科に限ってなら、大学でどんな勉強をしたのかについてなら、今でも説明できるよ。一方で、大学で何やったのか、分からないまま卒業していった奴も結構いると思うよ」

母:「まあ昔の話だし、やましい思いがないなら、別にいいけど」

私:「過去振り返っている場合じゃないよ。よし、blog書いてくる」

母:「blog書く前のあんたは、いつもピリピリしているね」

 と、こんな調子である。

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弥吉君のおもしろさ

 今日は、愛犬の弥吉君(ミニダックス・♂・満一歳半)の耳掃除と、爪切り、匂い袋を処理してもらうために、動物病院に行く予定だ。弥吉君は結構、図太い所があるのだが、先日の祖父の葬式の時に、動物病院で三日ほど預かってもらった際は、精神的に相当コタえたらしく、吠えすぎて喉がかすれていた。動物病院の先生も、うるさかっただろうことは予測がつくし、今日、謝っておこうと考えている。瀬戸から帰ってきて、弥吉君を迎えに行くと、動物病院から半狂乱の状態で出てきた。家に帰ってきたら、大分、落ち着いたみたいだったが、悪いなとは思っても、事情が事情なだけに、やむを得なかった。

 普段の弥吉君は、基本的に吠えないので、番犬にならない。私と母で家を留守にする時も、もう慣れたのか、寝て待っている。先代の弥七君に比べると、圧倒的に図太い。先代の弥七君は、おもちゃなどを自分のものだと主張して、自分の小屋の中にため込んでいたし、靴下が何故か好きで、見付けたら、小屋の中で守っていたが、今の弥吉君は、おもちゃなどを部屋中に散らかしている。そして、気が向いたら、ボールなどを持ってきて、投げて遊んでくれと催促する。投げてやると、何回でも持ってくる。あんまりしつこいと、弥吉君が忘れるまで、隠してしまうのだが、別にいいや、という感じで、弥吉君は拘泥しない。

 また、よく寝る犬でもある。一度、変な夢でも見たのか、犬なりの『寝言』みたいな吠え方をしていた。それを観ていた私は、大爆笑した。すると弥吉君が、「どうしたの?」という様な顔をして起きた。空気を読んだのか、わざとあくびをしてごまかしていた。基本的に、ごはんをくれる母になついているのだが、私にも甘えにくる。そして、『首を揉んでよ』と首を突き出してくる。これって、弥吉君のなかでの犬の順位制では、私が弥吉君より下って事になるのかなあ、と思いつつ、首を揉んでやる。一通り終えると、尻尾を振って、膝の上に乗ってきたりするので、憎めない。

 犬を飼っていると、厄介なことも多いのだが、家の中の雰囲気が丸くなる。弥吉君は、ムードメーカーなのだ。

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ワクチンを打つべきか打たぬべきか

 今月の一日に、整形外科に行ったのだが、月初めのせいか、異常に混んでいた。余りに人が多くて、温気が半端ではなかった。私は立っていたが、嫌な汗をかいていた。手ぬぐいで拭っていると、看護士さんが来て、エアコンを切り、窓を開けていた。すると、それまで調子が優れなかったのが、すぐに治った。

 この時季は、インフルエンザ予防接種を希望する人が多く、私も例外ではなかった。しかし、体調が悪いなら、受けるのを次回にしようと考えていたので、最初は接種をやめておくつもりだった。ところが、体調が回復したので、受けちまおうかと考えが変わった。

 それにしても、いくら混んでるにしても、随分待たされるなあ、と感じていたら、中高時代の友人の叔母さんが、受付から出てきて、「診察を待っているみなさん、ごめんなさい。今、緊急のオペが入っちゃたのよ」とみなさんに説明していた。友人の叔母さんは、そこでずっと働いているのだ。私は、ワクチン接種に関して聞いてみたら、書類を渡された。一通り書き終わって渡す際に、打つか打たないかは、先生と相談します、と話した。叔母さんには体調が回復した話をしたのだ。長いオペが終わってから、二人目に呼ばれた。

 私は先生に挨拶して、痛風の方は順調です、インフルエンザのワクチンを打ってもいいかどうか、先生が判断してください、と言った。先生もオペの後なので疲れてらっしゃる様子だったので、無駄口はたたかなかった。喉を観て、聴診器をあてたら、先生は、これなら大丈夫、と言ってくださり、無事ワクチンを接種することが出来た。診察室を出てから、膝の魚の目の状態を聞き忘れた事に気付いたが、後の祭りである。

 今回は三種混合ワクチンで、A香港型とH3N2のB型、それと、A/H1N1の新型インフルエンザのワクチンが入っていた。効果は二週間後から始まり、約五ヶ月持つと書かれていた。書類を書いていると、卵や鶏肉にアレルギーはないか、という項目が増えていた。また、その先生には、鳥インフルエンザに比べて豚インフルエンザの方が厄介だと聞きますが、と以前質問したら、確かにそうなんだけれども、現時点では、豚インフルエンザは鳥インフルエンザの様に爆発的には広まってはいない。感染力が弱いと言われているよ、と教えてくださり、その上で、あくまでも現時点での事だから、それが変異したりするとどうなるかは、誰にも解らないよ、とおっしゃっていた。

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もう一度教習所へ行け

 昨日は休まさせて頂いたが、一昨日、猛烈に忙しかったのである。床屋、整形外科、買い出し、の三点セットだった。まだ、古本屋、お袋の婦人科(乳がん検診の結果を聞きに行くだけ)、風邪で行った救急病院での会計の差額の回収と、やることは多い。

 スケジュールがすし詰めだったので、床屋は一番手を引くべく8:00に出て行った。風邪のせいで、伸び放題に伸びた頭をどうするのかで悩んだが、じいちゃんの喪中だし坊主頭にした。とめどもない会話が繰り返される中、私は風邪が治りきっていないのか、とめどもないだるさを感じていた。

 床屋から家に向かう途中で、一時停止を無視して入ってきた車がいた。私は親父の形見である車を壊すわけには行かないので、例え優先道路でも嫌な予感がしたら、徐行する様にしている。一時停止無視の車には、クラクッションを鳴らし、すると、相手も気まずかったのか、次の通りですぐに右折した。私が家に帰り、母をひろって、整形外科に向かう途中でも、無理矢理右折してくる車がいた。急ブレーキを踏んで、クラクションを鳴らす。「何考えてやがんだ」と母にもらしたら、「最近ああいう運転が多いねえ」とのこと。私に何かあっても、助手席の母は守ってあげないといけない。これで、私が運転して、相手の過失で事故が起こりそうになったのは三回目である。昔の私の運転スタイルでは、確実に事故になっていただろう。ヘタをすれば私が殺人者になってしまう。そんなことは絶対に嫌だ。運転が下手な上に、交通法規を理解していないドライバーは、爆弾みたいな物である。それにしてもひどい。

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仕込み中

 現在、blogのネタを仕込んでいる。もう少しねかせれば、いいネタも湧いてくるだらふ。

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バカの卒論添削

 どこの理系の研究室も同じだと思うが、四年生になったら卒論を書かなければならない。私もその門をくぐったし、多くの先輩から可愛がられて、色々と世話になった。最低でも、三人以上の院生のサインをもらってから、教授の前に出すという方針だった。そうすると、ハンコがもらえて、発表準備に取り掛かるという体制だった。

 だから、私も修士一年の冬は、出勤しては、下の奴の論文を添削してやっていた。大体の論文は平凡で、『こういう実験をしたら、こういう結果になりました。公式通りです』という様なもので、退屈しきっていた。さっさとおうちに帰りましょう、と思っていたら、私の班の後輩が、「俺のも観てくださいよ」と言ってきたので、断る理由もなく、目を通した。そいつは勝ち誇っていたが、考察の文章が矛盾していることに気がついた。判りやすい様に、ラインA、ラインB,ラインC、という様にアンダーラインを引いて、こことここが矛盾しているという風に伝えた。

 するとその後輩は、自分が一番自信を持って書いた所らしく、帰り支度を始めていた私に突っかかってきた。「どういうことですか!!」みたいな感じで。早く帰宅したかった私は、鞄を置き、一服したいから外で話そう、と言って、研究室の入り口側で、矛盾について説明した。それは、A<B<Cと書いてあるのに、C<Aと書いているという単純な説明だった。しかし、その後輩は、自分が必死に書いたのに、何言いやがるんだコイツ、みたいな表情を浮かべ、文句を言ってきた。これは私が説明しても無駄だと感じたので、そいつの学年で、一番優秀な奴を呼んで、判断させた。すると、そいつも矛盾に気がつき、書き直しとなった。私は、「無い時間さいて観てやってんだから、素直に聞け。あと、お前は論理がおかしい所があるから、もっと本を読んで勉強しろ」とだけ言った。帰宅時間には二時間ぐらい遅れてしまった。無論、そいつの論文も駄作だったが。

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