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2010年5月

坊主の尻拭き

 先程まで、うたた寝していたのだが、サッカーの試合をTVでやっていたので目覚めた。その時、お袋は誰かと電話していた。後で聞くと、お袋の弟に当たる叔父さんからの電話だったらしい。何でも、今日の運動会で、甥が徒競走で一着を取ったとの事。

 叔父さんの息子さんが産まれた時には、私は、丁度大学生であり、母方の田舎に単身帰っていた事もあり、お祝いに短歌を送った覚えがある。五月の端午の節句には、立派な五月人形と共に、祖母が私のへたくそな短歌を、清書して飾ってくれたらしい。祖母も俳句に凝っていたので,そういう事になったのだろう。

 それにしても、私は、短歌は得意だが、俳句はまるで駄目である。川柳と言った方がいいかも知れない。下品だが、私が作った短歌で気に入っているのは、『四光にて 次に望むは ススキ野の カス札引くに 坊主の尻拭き』という一句である。花札を題材にしている。四光とは二十点札四枚を集めている事になる。それでも役にはなるのだが、赤字に白の月がススキ野原で浮かんでいる、最後の一枚の二十点札を取って五光にしようとしたら、欲をかいた分だけツキが落ち、カス札を引いてしまった、というニュアンスである。また、月の二十点札は、別名『ボウズ』とも言う。別に坊さんが便所で尻を拭かなくてもいいのだが、ボウズと坊主を掛けてみた。我ながら、汚い短歌だと、反省している。

 叔父が独身の頃、朝一番の新幹線に乗るために、祖母と私と弟は、広島の叔父のアパートに泊めてもらった。その時、私は、ボロアパートにもかかわらず、「おじちゃんのマンション凄いねえ」などと本気で言っていた。アパートとマンションの区別が付かなかったのである。『まいったなあ』という顔をしておられたが、今では、広島の一軒家の主である。叔父さんも頑張ったのだ。今では某企業の営業成績がトップだとか。

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パパ、いっちょう、くんま

 二歳ぐらいの頃、父が運転する車に乗る時は、私は助手席でずっと立っていた。当時は、シートベルトの着用義務も、チャイルドシートの付着義務もなかった。私は多分景色を眺めたかったのだろう。その際、父が運転している車と同じ車を見つけたら、すぐに感づいて、覚え立ての言葉で、「パパ、いっちょう(一緒の)、くんま(車)」と、いつも言っていたらしい。まだ物心が付く前だから、仕方がない。とにかく助手席で、ずっと立ちっぱなしの私を観て、当時の母は、『足が丈夫な子だなあ』と思っていたらしい。とにかく座らなかったらしいのだ。

 また、父は車の運転が上手な人であったが、助手席の私が暴れるのを止めようとして、ブレーキが遅れ、前のトラックにカマを掘ってしまったとのこと。父はハザードを出して、すぐに降りてゆき、前の小型トラックの運転手に謝罪に言った。すると、その運転手は、「こんなオンボロトラックだからいいよ。それよりあんたの車、大丈夫かい?」と言って許してくれたそうだ。父の車は、たしか右のライトが壊れていたと思う。晴れた日だったので、すぐにディーラーに持って行ったそうだ。父は怒らなかったが、事の重大さに、私はおとなしくしていた。

 私が物心ついたのも車の中の事である。三島由紀夫は処女作『仮面の告白』の冒頭で、「私は産まれたときのことを記憶している」と書いているが、嘘っぱちである。医学・生理学的にあり得ない。まあ、こんなハッタリは、どうでもいい。私の場合、幼稚園に行く前の記憶はほとんど無いのだが、何歳だか判らないが、父の運転する車で、坂道を登っている時に、コーラを瓶を飲んでいたのが、思い出せる一番古い記憶である。

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マリンタワーの思い出

 最近では、東京の『スカイツリー』が話題になっているが、私は東京タワーの方が好きである。と言っても、東京タワーを訪れたのは、私が物心つかないうちに行ったので、大した記憶はない。しかし、外国の旅などから、飛行機で、夜に戻ってきた時、東京タワーの赤い光を見て、祖国に帰ってきたんだなという情感が湧く。

 神戸のポートタワーも美しいが、エレベーターで上に登った記憶しかない。弟夫婦は、近くでフリーマーケットをやっているのを観て、そこに行きたいと言った。私と父と母は遊覧船に乗る事にした。婚前に母が努めていた、某企業のドッグが見えた。私が、「どうせお茶くみだったんだろ」と生意気な口をきいたら、母は、「(亡き父を含めて)七人からはプロポーズされた」と言う。私は疑っているのだが、母は性格がいい。優しさのオーラみたいなものが、にじみ出ている。息子の私が言うのも恐縮だが、こんな女性、今時いないだろうな、と思う。

 タワーの話に戻すと、横浜の中華街で、お金がないのでラーメンを食べ、その後、弟とマリンタワーに行った。連休中だったので、エレベーターは異常に混んでいた。私が中一の頃だから、弟は小学校の五年生である。気合いで足で登る事を決めたのはいいのだが、タワーの八合目ぐらいまで来て、階段が風により、揺れ出した。弟は、「兄ちゃん怖い」というのだが、そこは肝試しである。「もうすぐ展望台に着くから、勇気を出せ」と言ったら、泣き出した。仕方がないので、「お前、一人で降りられるか?」と聞いたら、「うん」と言う。私と弟はそこで別れ、私は展望台に登った。帰りも階段だったが、確かに揺れていた。とび職の人は凄い。

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友人の結婚式のに二次会にて

 もう十年前のことになると思うが、ある友人の結婚式のパーティーで、私が音楽の担当になった。きっかけは、二日前に掛かってきたある友人からからの電話である。「俺が司会をやるから、お前は音楽担当」という要領だった。最初と最後に『Roling Stpnes』の曲を入れてくれとの要望だった。それなら、全部洋楽で攻めようと決めた。しかし、ビンゴの時のチャラい曲を知らなかった私は、友人のアドバイスに従った。TSUTAYAで5000円分借りたのは、これが初めてだった。友人の、「音楽が盛り上がりの九割を占めるんだ」との言葉に奮った。

 客入れの時は、enyaの『Only Time』を掛けていた(後に鎮魂歌だと知ったのだが)。雰囲気は良かった。それから、もう一人音楽担当の奴がいたので、マシンは彼に任せ、僕は場の空気を読む事に徹した。盛り上がる場面で、音が小さかったらワインを飲みながら手を振り上げたものだ。しかし感心するするのは、主催した司会の友人である。Excelを使って、いいスケジュール表を作って直前の打ち合わせにやって来た。少々の変更があったが、軸となった。相手が医者集団という事もあって、司会の友人も心配そうにしていた。

 私は、この時この曲が必要なんだよ、という付箋紙をアルバムごとに張って、使うやつ順に置いていたが、照明の奴もうまかった。途中フりータイムになるとマシーン担当の奴に、、何掛けてもいいぞと言って任せた。私は、何も食べず、白ワインばっかりを飲んでいた。

 追い出しの曲はStonesの『夜をぶっ飛ばせ』を流したが、関係者通し熱い握手。カメラ担当だった一年の時のクラ友は、「ナイス、ミュージック」と評価してくれた。私はその後、司会の友人の家に泊めさせてもらったが、評価は90点との事。最初にしては上出来である。

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ペンネームについて

 このblogを始めるにあたって、自分のペンネームをどうしようか悩んだ。別に本名で勝負してもいいのだが、ネット上で行うという事で、やはり、ペンネームを使う事にした。しかも漢字ではなく、ローマ字で書く事によって、個人を特定しにくいようにした。

 それにしても、ペンネームはどうしようかと悩んだのだが、昔、父方の祖母が、親父とお袋の相性のいい名前を依頼した。その時に、『Takehiro』という名前が出てきた。私jは、そのことを思い出した瞬間に、これにしようと決めた。祖母の魂も、親父の魂も込められている気がしたからである。私自身は何も考えてはいない。

 芸能人などが本名で勝負するのは、気持ちがいいが、相当、危険な事でもある。自宅など抑えられてしまったら、ロクに散歩も出来ない。儲かるかも知れないが、相当、面倒な職業だと思う。よっぽど覚悟を決めていないと、出来ない技でもある。新人芸人などは、芸人とは呼べないくらい、つまらないから、どうでもいいが。

 つまるところ、ペンネームなど、適当に決めてしまって構わないのである。作詞家の阿久悠さんは悪友と引っかけたとか、作家の阿佐田哲也さんが麻雀を打ち過ぎて、徹夜して、朝になってしまった、という様なニュアンスでペンネームを付けている。ペンネームとは、結局、己のプライバシーを守るためにあるのだ。

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道の駅の素晴らしさ

 いつ頃から出てきたものかは分からないが、全国に道の駅がある。道の駅では、昼は地元の特産品を販売しており、地域の活性化に貢献している。そこにしかないものを売っているので、集客効果が強い。また、24時間使用できるトイレなども設置されているので、車の旅で、道の駅で車中泊する事も多かった。

 私は沖縄以外の都道府県は、すべて車の旅で制したが、運転に疲れると、道の駅などで、ストレッチなどして、疲れを取った。昔は道の駅のマップもタダだったが、最近は数百円する。北海道に初めて行った時、最初の道の駅で、道の駅のマップをもらった。車中泊ばっかりだったので、かなり助かった。とある道の駅で、管理人の方に、「北海道には道の駅が多いんですね」と話したら、「電車がなくなって、昔の駅の後を道の駅にしているところが多いからだよ」とおっしゃっていた。私が複雑な気持ち担ったのは言うまでもない。

 また、都会や、高速道路のS.Aなどがあるところには、道の駅はない。そういう時は、地元の方に安い駐車場を聞くか、高速のS.Aがある、一区間だけを狙って、車中泊していた。懐かしい。

 一度、下北半島の陸奥よこはまの道の駅で、どうしようもなく腰が痛くなった時、法政大学出身の何とかさんに、むつ市にある整形外科を紹介してもらった。混んでいるだろうからと、ダッシュで向かったのだが、二時間ぐらい待たされた。私は普通の人より、腰の骨が反り返ってない分、腰を痛めやすいと言われた。幸い保険証のコピーを持っていたので安く済んだ。八年後、再び訪れた、その道の駅で、世話になった、法政大学出身の何とかさんにお礼を言おうと思ったのだが、非番であった。「よろしくお伝え下さい」と言って、多少の買い物をしてから、その人の事を聞くと、その道の駅の代表になったそうである。めでたし、めでたし。

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弥吉君の満一歳の誕生日

 今日、5/25は、我が家の愛犬、弥吉君(ミニダックス・♂)の満一歳の誕生日である。先代の弥七君が去年の7/19に他界し、暫くしてから出会った。丁度、弥吉君が三ヶ月位の時に家に来たので、知り合ってから九ヶ月という事になる。お祝いに、先日買っておいた、おいしい肉の缶詰をやったら、がっついていた。

 弥吉君も家に来たての頃は、気管支炎で、毎週遠くの病院まで連れて行って心配したが、今はもう完治し、立派な体格をしている。性格にも、大分、落ち着きが出てきた。ただ、いつもおなかがへっているみたいだ。気がつくと、紙を食べていたりするヤギ犬だ。

 先代の弥七君に比べると、鈍いところがある。よく言えば、人見知りをしない。むやみやたらに吠えたりはしないのだ。そういえば、家に来た当初は、たまに甲高い声で吠えていたのだが、最近は声変わりしたのか、低い声で吠える様になった。犬にも声変わりがあるのかと、感心したものである。

 家には私と母しかいないので、お留守番することが多い。短時間だったら一緒に連れて行ってやるのだが、基本的には弥吉君が一人で家にいる事も多い。最初は暴れまくっていたが、最近はお利口さんに留守番できる様になった。母だけが出かける時には、二階の私の部屋に連れて上がってやるのだが、これも先代と同じく、大喜びする。最近は、私の布団においてある、縦長の抱き枕に興味を示しだし、ついには占領されてしまった。

 まあ、何はともあれ、弥吉君、お誕生日おめでとう。

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ハコちゃん

 多分生涯で二度と会う事はないだろうけれど、仲良くしていた友人の話を書く。もう、十五年会ってない。大学一年の時のクラ友で、ハコちゃんという友達がいた。一年の時に、ハコちゃんは、髪を伸ばしていたので近付きにくかったのだが、話してみるとやさしい。私が、「朝、駅まで行くのに、原チャリのレースにならないか?そして自分は、原チャリを馬に見立てて、別の原チャリを直線で差したら(抜いたら)、ヘルメットの中で、メジロライアン差しきった!鞍上横山、渾身のガッツポーズ」などと独りで言うんだ、と話したら、ハコちゃんは大爆笑して、「競馬の事はよく解らないけれど、ヘルメットかぶって原チャリに乗ったら、歌を歌わないか?」と言うので、今度は私が大爆笑しながら、「ある、ある」と言って仲良くなった。

 私は機械科で、彼は物理科だったので、二年以降は余り接点はなかったのだが、会う度に何か話をしていた。そして、大学院の面接の日、控え室に行くと、何故かハコちゃんがいた。「ハコちゃんどうしたんだい?」と聞くと、「物理科に限界を感じて転科する事にしたんだ」と話していた。待ち時間に色々と話した。大学院の面接で落とされる奴なぞいないから、気楽に話していた。

 私は途中で院を辞めてしまったが、ハコちゃんは修士号を取った。ハコちゃんが卒業旅行に行くのに、友人がザックを持ってないから、私のザックを貸してくれないか?と言うので、快諾した。モロッコかどっかに行ったらしい。貸りに来る時と、返しに来る時に、私の部屋で飲んだ。お土産にシェリーというお酒をもらった。私がお酒を好きなのを知っているにしても、重たい土産である。その場で開けて、二人で飲んだが、うまかった。また、ハコちゃんのご両親の実家は、佐賀らしく、佐賀ではみんな、鍋島様と言って、鍋島公のことを尊敬しているのだそうである。NTTに就職したが、今では、きっと、いいパパをやっている事だろう。

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仕事のきびしさ

 数年前に、どこの美術館だったかは忘れたが、朝のニュースで『ゴッホ展』なるものをやっていると聞き、母がそれを見て、連れて行って欲しいと私に頼んできた。当時は親父も生きていたので、「夫婦で行ってくれば?」と言ったのだが、段々、私も観たくなってきた。それで、ナビに従い、皇居周辺の駐車場に駐め、母と二人で美術館へと向かった。

 私はいつも、ネットで、東京の美術館情報を見ているのだが、ほとんど上野の国立博物館のものしか観ない。前に興福寺の『阿修羅展』を観に行った時は、異常に混んでおり、母に、スリだけには注意しなよ、と言って、私はさっさと観てしまい、展覧室を出て、さっさとベンチに座り、のんびりしていた。きっと団塊の世代が、目玉の展覧会には大挙して押し寄せる事になったのだろう。昔はもっとすいていた。大した審美眼を持たぬ奴らが、阿修羅像を褒めちぎる事なぞには、嫌気が指す。阿修羅像など大したものではない。

 話を戻すと、ゴッホ展に行った際に、TVの効果か解らないが、行列が出来ていた。中身は大したことはなかった。帰りに、神保町によると、私はある大きな本屋で、「道教の本、もしくは、お経をおいていないですか」と、ある店員に聞いた。すると、彼は右往左往して、一向に埒が明かなかった。しびれを切らした上司が、その人の事をボロクソに言い出した。判らない店員は悔しそうに聞いていた。私が、「もういいですから」と言って、車に戻る最中、母に、「客の前で叱らなくてもいいのにな」と言ったら、「馬鹿ね、ああやって一人前にさせようとしているんじゃない」と返してきた。確かに、自分が勤めている本屋のどこに何があるかも判らないのでは、どうしようもない。

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不東について

 大学時代の一般教養では、誰もが楽勝科目を採りたがっていた。四年間で四つ、計16単位を取らなければならなかった。その当時、他ならぬ私も、天文学以外は、楽勝なものを選んでいた。そんな中で、試験でキーワードを書けば単位が来る、美術の授業があった。美術と言っても、絵を描くわけではなく講義である。内容は、一度も出た事がなかったので知らない。ただ、試験の時のキーワードは『不東』だった。当時の私には意味が分からなかったが、とりあえず答案用紙にめいっぱいに『不東』と書いた。

 それからずっと、そのキーワードからは遠ざかっていたが、大学院をやめた後、旅先で知ったのか、仏教の勉強で知ったのかは記憶にないが、『不東』とは、三蔵法師の天竺に向かう際の覚悟の言葉であると知った。当時の中国では、国外に出る事が禁止されており、しかも命がけの旅であった。玄奘三蔵も、旅立つ前に、占い師に占ってもらう程、旅だつのを悩んだらしい。それでも、本格的な仏教の勉強をしたいという情熱の炎が燃え立つのを抑えられず、無理矢理旅立つ。その時、西の天竺に向かうのに、一歩たりとも東には戻らないという覚悟を表したのが『不東』である。転じて、『真理を求めあくまでも追求する努力を惜しまぬ心』という意味になった。

 玄奘三蔵は無事天竺に着き、必死で仏教の勉強をして、祖国に戻り、その教えの翻訳に取り組んだ。その頃には、皇帝も変わっていて、国禁の罪を免除されていたのである。三蔵法師と言えば『西遊記』だが、日本でも薬師寺が三蔵法師を祀っている。『不東』という概念の確認のために、広辞苑の第四版を観たが、載っていなかった。不思議だ。

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急がねばならぬ

 大分、髪が伸びて来たので、今日は床屋に行くつもりである。しかも、10:00からは歯医者の予約が入っている。もう、親知らずは問題ないのだが、歯の洗浄をして頂くように、前回、先生に頼んだ。食塩水みたいな水を、高圧で歯に当てて、洗浄するのだ。これをやると、歯茎から少し血が出るが、歯がつやつやになるのである。また、歯医者に行った後は、お袋を病院に連れて行かなければならない。今日も長い一日が始まる事になる。

 行きつけの床屋は、平日は、8:45から始まるのだが、店は8:00から開いている。名前を書く紙があってその順番通りに、客がさばかれる。私はいつも8:00に行って、名簿に名前を書き、若マスターと適当に喋って、時間が来るのを待っている。今日もそうするつもりだが、後に歯医者があるので、とりわけ今日は、名簿のポールポジションを取らねばならない。だから、今日は、慌ただしくblogを打っている。8:45から散髪が始まると、9:30頃に丁度終わるのだ。そこから車で歯医者へとダッシュをかける。予定通り行けばいいのだが…

 4:30に目覚ましをセットしていたのだが、寝直してしまったがために、6:00頃、目覚めたので、まだ朝食を採っていない。おにぎりか何かでごまかすつもりだが、歯医者に行くのであれば、歯も良く磨いていかなければならない。また、歯医者の後、母とどこで落ち合うかも決めていない。今からやる事が多すぎる。三年近くblogを書いてきたが、こんなに慌てて打っているのは初めてである。出かける時に、忘れ物をしないようにしなければ。今日のblogは光速blogである。何を書いてるのか、自分でも把握していない。無責任blogかもしれない。

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黒板消し落としの思い出

 小学校五年の時の担任の先生は、女の先生であった。どんな先生か解らなかったが、挨拶代わりに、黒板消しを教室のドアの一番高いところに挟んで、ひっかかるか、クラスの生徒全員が観ていた。しかし先生はすぐに見抜き、「私に黒板消しを落とすなんて十年早い」と、余裕でかわされてしまった。みんながっかりしたが、黒板消し落としを仕掛けても、怒りもせず、ユーモアのある先生だということは、解った。一方で、生徒達は、こうなったら、意地でもあの先生の頭に黒板消しを落とそうと、夢中になって考え出した。

 一度目失敗したから、先生も用心して来るだろうと、見つけられた原因究明を行った。私が、「黒板消しを、普通にドアに挟んだから、廊下から見えたんじゃないだろうか」と言うと、誰かが、「じゃあ、廊下から見えない様に、偏った挟み方をしてみよう」と言って、二度目のトラップを張った。今度はひっかるかなと、クラス中が期待して観ていたら、なんと先生は、教室のベランダから、懲りない連中ね、という様な笑みの中、クラスに入ってきた。またも見抜かれてしまったのだ。私はなんとしても、黒板消しを先生の頭に落としたくなった。こうなったら、もう、知恵比べである。

 扉が開いていたら見抜かれる、と悟った私達は、ドアの脇にあるホワイトボードを利用する事にした。黒板消しをホワイトボードに挟みながら、ドアが開くと摩擦で落ちるという方法を選択した。成功率は50%位だったが、実験してみた後で、私が黒板消しをセットした。間もなく先生が来る段になってクラス中が見守る中、ドアを開けた先生の頭に、黒板消しが見事にヒットした。クラス中が、ワーッと喜ぶ中、先生は、「私が黒板消し落としを受けたのはこれが初めてです」と言って、怒りもせずに、『やられた』という顔をされていた。黒板消し落としはそれっきりでやめた。子供なりに、それが暗黙のルールだろうと思っていたからである。

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ひょっこりと

 私の弟は、中小の肉屋の営業をやっている。日曜日と火曜日の午後が休みである。そんな彼が、昨日の夕方、ひょっこりとやってきた。まずは、相変わらず、母の作ったうどんを食べていた。母の味付けのうどんが好物なそうである。それから、弟の長男の野球の話になったのだが、毎週日曜に試合があるらしい。弟は、子供の投げる球が、最近、受けられなくなったと言っていた。小学校の五年生とはいえ、身長はかなり高い。スナップを効かせて投げられると、取るのが怖いと言っていた。弟の長男は、野球にのめり込んでいるらしい。

 弟も、講義や実地試験を受けて、審判の資格を取った。休みになると、長男と共に、張り切って、リトルリーグの試合に行くらしい。努力の甲斐あってか、レギュラーに選ばれたとか。私と母は、保険が効く様に、勉強もさせなきゃ駄目だと話していたが、塾にも通わせているとのこと。そんな中で、今年の学校別、大学合格者ランキングの雑誌を弟は読み出した。私が、「私立ばっかりで、公立はガタ落ちしてるだろう」と言ったら、「私立に通わせる金がねー」と弟は語っていた。いくら、業績トップでも、給料が増えないらしく、会社の文句を言っていた。

 宮崎で確認された、牛の口蹄疫をはじめ、鳥インフル、豚インフルなどが出てくると、肉の売り上げにも影響するらしい。売れなくなってしまうんだとか…ただ、肉屋に勤めているおかげで、肉は安く買えるので、子供達に食べさせていることができるとも言っていた。子供達がよく食べるとの事で、私と母が、先日、安売りスーパーで買ってきた、米20Kgを持って帰らせた。

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面接担当

 高校時代の友人で、某企業の人事の課長に、最近出世した友人がいる。やり手であるし、友達づきあいもうまい。この友人は、就職当初は、営業所属だったのだが、人事移動で、人事に抜擢された。しかし、人事課の難しさと彼の悩みをを、まだ彼がヒラの時に聞いた。

 その当時は、「同僚と飲みたくない」と言うぐらい、人事情報を握っていたそうだ。彼は、同僚の裏側を知ってしまったのだ。だからといって、口にも出来ない。酷な事だと思う。

 また、私の家に、親父ががんになる前に、休日になると、突然やって来る台風の様に、「麻雀しようぜ」と言う、三人組の一人でもあった。もう、十年以上前の話である。私と弟と親父三人で相手をしたが、ほとんどが私であった。30時間ぐらいぶっ続けで打った事もある。そんな彼の麻雀は、どこまでも点数をを増やしていく麻雀だった。私なぞは、最初にセーフティリードを奪ってしまったら、後は酒を呑みながら適当に打つタイプである。麻雀には性格が出る。僕は彼の事を聞いて、人事にも向いていると思った。しんどい事は解るが。

 彼の就職担当についての話を昔聞いたところ、60数名の募集の所に3000通以上の応募があると聞いた。私が、「どう処理するんだ?」と聞いたら、彼は、「全部目を通すけれど、最終的には六大学に絞っちまう」と応えた。続けて私が、「本当に採りたいっていう人材は、他に行っちまうんじゃないか?」と聞いたら、「そうなんだよな」と言っていた。

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やることだらけ

 ずっと体調が優れず、やらねばならぬいろんな事を先送りにしてきたツケが回ってきた。今日は、目覚めこそ悪かったものの、ここ数日でも、案外、体調がいい方だ。なので、先送りにしてきた事どもをまとめて片付ける日にしようと思っている。しかし、あくまでも、相対的に調子がいいというだけで、必ずしも、快調なわけではない。体にガタが来ているのだろうか。

 まずは、行きつけの整形外科に行って、通風の薬を処方してもらわねばならない。あと二日分しか残っていないのだ。一日一錠、毎朝飲んでいるのだが、昔、薬局の人から、「この薬は一生飲み続けた方がいい」と言われ、従う事にしている。また、月に一度の通院で、院長先生と話すのも楽しみである。

 次に向かうのはガソリンスタンドである。ガソリンも入れなければいけないのだが、前回に入れた時より3円から4円程高くなっている。ギリシャに端を発した、世界同時不況により、原油相場に投機資金が行かない事を祈っている。また、いいかげん洗車してあげないと可哀想なくらい、汚れているので、洗車もする。そろそろワイパーブレードも替えなければ。雨の日に視界が無くなるのである。

 最後に向かうのは、親父の墓参りである。月命日は十五日なのだが、一昨日は、私の体調が悪すぎて、キャンセルした。墓に参ったら、親父に謝らなければならない。まあ、許してくれるだろう。

 以上が本日のスケジュールである。

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タイのタクシーにて

 現在、タイは大変な騒ぎになっているが、私は四年前ぐらいに、まだ、治安が安定している頃に、気ままな独り旅で行ってきた。蒸し暑いのが第一印象で、嫌気がさしたが、三日ぐらいで慣れてしまった。バンコク市内も観光したが、現地のHISで、タイ国内のいろんなツアーにも参加した。北はチェンマイから、南はアユタヤまで、行ってきた。その他にも、隣国であるカンボジアにも繰り出し、アンコールワットやらモナリザ遺跡などにも行った。その時の話を細かく書いてもいいのだが、それはまたの機会にする。今回は、私がカンボジアからバンコクに暗くなってから、空港に到着し、その後乗った、タクシーでの話をする。

 それまでもタクシーには何回か乗っていたが、みんな親切だった。しかし、この、空港からホテルまで私を運んだタクシーの運転手はひどかった。まずメーターをセットしようとしないで走り出したので、私は「メーターをセットしてくれ」と頼んだ。その運転手は、渋々メーターをセットしたのだが、私からボったくろうとしていた様子だった。「500でどうだ」と言うので、私は、「ふざけるんじゃねえ」と言った。

 するとそのタクシー運転手は、ハイウェイを使えばすぐに着くホテルなのに、別の道を使った。疲れ切っていた私は、早くホテルに戻って、シャワーを浴びて寝たかったのに、アクセルを踏んだり、戻したりで、他の車を、自分の車の前に、ワザと入れたりしていたので、私はぶち切れた。「人が疲れ切って早くホテルに戻りたいのに、お前の運転は何だ!!ワザとトロトロ走りやがって、ふざけてんじゃねえぞ、このクソ野郎!!」と私は怒鳴った。ドアを観ると、タイ語でその車のナンバーが書かれていたのでメモに取り、「お前の運転の事は、帰国の時に、空港の責任者に言うからな」と怒鳴ったら、そのクソ運転手は、急にまじめに運転しだした。ホテルに着いた時のメーターは、300バーツ台だったが、余りの怒りに500バーツ札をくれてやった。

 帰国の際に、空港で、そのタクシーの事を、責任者に話した事は言うまでもない。責任者は私の話を聞いて、舌打ちしていた。そして、「教えてくれてありがとう。悪い事したな」と私に言い、そのタクシーを処分する事を約束してくれた。嫌な思い出である。

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みんな必死なんだ

 どんなにくだらないblogだって、どんなに優れたblogだって、毎日書く人は、みんな必死で書いているのだ。維持し続けることの重みなぞ、みんな解ってはくれないのだ。blogに支配されている自分が存在し、毎日、無いネタから、何とかblogを引き出そうとする。こんな事は、自分で始末してもいいのだが、そういう苦しみを知って欲しい。

 blogなんて、みんな、認められないのを覚悟でやっている。凡人は毎日書くしかない。いくら書いても金にならない中でもがく。もがいているうちに、自分に嫌気が指す様になる。何日かに一度、おきらくblogを書く連中とは違うのだ。ネタがない時でも、脳髄のどっかから無理矢理引き出す。

 毎日、話を書くのが楽しい日もあれば、苦痛の日もある。余りにも苦痛な日は、一行blogで済ませてしまうが、そうでなくても、ネタのない時には、呻吟しながら、ひねり出す。これほどの苦痛は、今までに感じた事が無い。毎日書く人とは、みんな必死で書いているのだ。

 夕べ、いつもの友人から携帯のショートメイルが送られてきた。内容は伏せるが、私にとって衝撃的な話だった。今朝、『ゲゲゲの女房』を観ながら、思い出しては泣き、を繰り返していた。別に絶交した訳でもない。彼に言われた事は、深く私の胸に突き刺さり、今でもその傷からは、血が出続けている。

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『悲願千人切り』

 『悲願千人切り』と言っても、京都の橋の上で闘ったとされる、牛若丸(源義経)と弁慶の話ではない。将棋の、米長邦雄永世棋聖の話だ。現在は、好々爺となって、将棋連盟の理事長をしているが、若い頃は、相当の女好きだったらしい。氏は、兄貴三人が東大に行ったが、「馬鹿だから行ったんだ」と公言していた。

 立花隆氏が旬だった頃といえば、七、八年前の事であろうか。当時、東大でゼミを引き受けていた内容が、『東大講義』という本に収められていた。私は購入して、二、三度読んだが東大も大したことはないと感じた。同時に、立花隆氏のことも、知性を疑った。そんな立花ゼミの東大生達が、いろんなジャンルの有名人に会いに行き、二十歳の頃をインタビューするという本があり、丁度、『二十歳の頃』というタイトルで本が出版された。私はバカバカしい本だと思ったけれど、ネタになる話題が多かったので、その本も読んだ。

 すると、有名人の中に、米長先生がいた。そのページを開いて読んでみると、先生は二十歳の頃に、千人の女を抱くという、悲願を打ち立てられたそうである。いわば、東大生達の意表を突いたのだ。ナンパは歌声喫茶(今で言うカラオケ)でなさっていたらしい。でも、先生は、「千という数は、半端じゃないんだ、最初の頃こそメモを付けていたけれど、四百人ぐらいでやめた」。とおっしゃっていた。私は、ジェームス三木を思い出していた。そして、「やったらバイバイでは、駄目なんだ。次の日に朝飯に、トンカツにビールでも一緒に食って別れなければならないんだ」と力説していた。

 東大生相手に燃えたのか、私は氏の貞操観念を疑った。と同時に、何回、性病を伝染されたのかが気になった。

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本日休業

 体調が異常に悪いので、今日はまともにblogを書けない。本日休業なり。

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余命半年

 母方の祖父が、大腸がんで、人工肛門を着ける手術をしたと、母から聞いた。母も広島に住んでいる、母の弟に当たる叔父さんから電話で聞いたらしい。呉の病院で手術したらしいが、大腸がんは散らばっており、リンパにも転移しているかも知れないとの事だった。そこでじいちゃんが受けた宣告が余命半年である。不幸中の幸いなのかも知れないが、じいちゃんは、肺炎で寝たきりになってしまったので、自覚がないのがせめてもの救いだ。

 余命半年と言われたって、僕は信用しない。親父をがんで亡くした時、余命半年と言われながら、二週間で逝ってしまったからだ。親父は死ぬ一週間前まで元気だった。私がネットで落とした温泉宿の情報を楽しみに眺めていた。一回は家族三人で、後の二回はお袋と二人っきりで行くつもりだったらしい。それが、一週間で体調が激変した。肺に水がたまり、親父は、「熱い」と言う中、「納得がいかない」とも述べていたという。余命半年が二週間なんて嘘だろ、という気持ちだったと思う。余命半年と宣告された事は、私には、後から伝えるつもりだったらしいので、当時は突然死にしか思えなかった。

 祖父の話に戻すが、もう、いつ死んでもおかしくはない、という事だろう。母が、私の弟にもその話をしたらしい。弟は幼稚園に行く前の年頃に、「あきぼう、あきぼう」と言って、ことさら可愛がられていた。私にも、同じくらいの愛情で接してくれたので、妬みなぞ無い。弟も含め、ものすごく可愛がってもらった。じいちゃんとの別れは辛い。来年も喪中の葉書を送る事になるのだろう。目頭が熱い。男と男の別れなんて、こんなものなのかも知れない。惜しい。

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映画『ドン・ジョバンニ』を観て

 映画館に行って、二作観ようか一作にしようか迷った。結果一作だけ観ようかという事になり、『ドン・ジョバンニ』を観る事にした。私の腹具合も思わしくなかったし、その後で、買い物に行く事になっていたからだ。

 映画の『ドン・ジョバンニ』は、『天才劇作家とモーツアルトの出会い』という副題が付いていたので、期待して観に行ったが、今ひとつであった。あくまでも、天才なのはモーツアルトであって、『ドン・ジョバンニ』のシナリオをを手がけた、ダ・ポンテは凡人である。

 この映画は、天才劇作家として、ダ・ポンテを観ない方がいい。ドン・ジョバンニがいかにして出来たのかを知りたい方にはおすすめであるが、そうでない人には退屈なだけであろう。いかにも、ハリウッド映画の様に、わかりやすくは出来てはいない。あくまでも、ヨーロッパシネマなのだ。自分で感じろ、というところだ。

 私は昔、『アマデウス』という映画を観て、モーツアルトが、『ドン・ジョバンニ』たる父親の亡霊と闘っているところに気を寄せ、その公演を全て観た、サリエリによって、殺されたのだろうという印象が拭いきれなかったが、この映画の『ドン・ジョバンニ』は脚本家主体で、全く異なる印象を受けた。最初こそ歯切れが悪かったものの、最後には、こういう筋書きがあったのかと、納得を強いられた。圧巻は、当然、『ドン・ジョバンニ』のラストシーンである。迫力に満ち、観る物を圧倒した。けれども、無理してまで観に行く作品ではない。

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母の日だったな

 昨日は母の日であった。カーネーションの花でもプレゼントしようかと思っていたが、近くに花屋がない。30秒で花の絵を描いて、(←カーネーション)と書いて渡したら、30秒で捨てられてしまった。そうだ、私は物書きなのだ、と思って一句、『墓参り 母を背負いて 階段を 余りに重きて 三歩進めず』と書いたら、「石川啄木のパクリじゃない」と言われて、これも30秒で捨てられた。元々母は、花も何にもいらないと言っていたのだが、何かしてあげたくて、晩飯を僕が作る事にした。

 もう、大分、料理をしていなかたので、勝手作法は忘れてしまっていたが、焼きうどんを作ってみた。皿に選り分けて、紅しょうがと一緒に持って行くと、母は、「おいしい」と言って食べてくれた。これでなんとか、普段の恩を形で表す事が出来た。食べた後の皿洗いもやった。

 しかし親知らずを抜いた後というのは、何となくでも、けだるい。今日は映画を一般1000円で観られる日だし、観に行こうか?と誘ったのであるが、けだるい。どうやら風邪は治ったみたいなのだが、体調が芳しくないのは事実である。多分、これは、親知らず効果だろう。

 それにしても、どうして、映画館によって上映期日が異なるのだろう。しかも、よっぽど人気のある作品でない限り、二週間ぐらいで興行は終わってしまう。それにしても、映画を観に行く日には、何故だか四時半頃に目覚める。そして映画が始まったら、睡魔に襲われる。

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二本目の親知らず抜歯成功

 私の口の中に生えていた、二本の親知らずのうち、一本目は、こないだ一時間二十分かけて抜歯したと書いた。その部分の歯茎は、現在、大分、回復した。大きかった傷が、小さな穴にまで縮小した。痛みはもう無い。で、昨日は、左上の二本目の親知らずを抜歯することになったのだが、麻酔を二本しか打たなかったので、大丈夫か不安だったが、麻酔が効いて、いざ抜く段になると、三分ぐらいしかかからなかったので驚いた。ドリルも使わなかった。

 前の歯がでかい歯だったので、今回も覚悟していたのだが、昨日抜いた親知らずは、犬の犬歯のような形をしていた。記念にもらって帰ったのだが、同じ親知らずでも、どうしてこんなに大きさに差があるのかが不思議だった。まあ、先生が「楽勝だ」と言っていた事も納得できたのだが、次回、大きさについて質問しよう。

 歯のレントゲンからみるに、私の他の二本の親知らずは、生えてこないだろうとの事。それを聞いて、ホッと胸をなで下ろした。現在、歯茎の二カ所に穴ぼこが空いているが、昨日抜いたところは、まだ少し違和感がある。しかし、昨日抜いたところの穴ぼこなぞ、前回とは比べものにならないくらい小さい。

 麻酔を打った後、徒歩で家に帰り、暫くすると、何か疲れ切っている自分がいた。止血にもいいだろうと、四時間ぐらい寝た。目覚めると、夕方だったので、本当は禁止なのだが、焼酎をトマトジュースで割ったのを飲みながら、小説の構想を練っていた。ちなみに、昨日も、お目当ての歯科衛生士の女性はいなかった。

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母校からの手紙

 中学・高校時代の母校からの手紙が、先日、やって来た。校長が代わっていたのにも驚いたが、私の通っていた学校の場合、卒業生しか校長や教頭になれない風習がある。また、同窓会の会長を現在やっている、元校長は、私が学生時代に尊敬していた、現国の教師でもある。毎年その先生の文章を読むのを楽しみしているのだが、今年のは強烈であった。

 言いたい事は解るのだが、知らない熟語だらけで、とりわけ難解であった。その先生は、現役の時に、月に百冊は本を読んでいらした。高校の時には、小林秀雄やら森鴎外やらを、主として授業のテーマに掲げていた。もちろん他の作家も多く取り上げられてもいたが。会報の文章を読む限り、ああ、変わってないなあ、と思うと同時に、この先生は易しい事を難しく書いている、と感じた。また、きっと物書きになりたかったのだろうなと、憶測した。

 確かに、難しく書かなければ埒が明かないテーマの物もある。私も初めは熟語などを使いまくって、難解な文章を書いていた。しかし、それでは駄目なのである。師の顔に泥を塗る様だが、文学論に関する限り、私は、難しい事を出来るだけ易しく書く事の方が重要だし、その方がよっぽど難しいと思う。そう考えだしてから、何年か経つが、丁度、こないだ亡くなった、井上ひさしさんが、共感できる事を言っていた。『難しい事を易しく、易しい事を深く、深い事を愉快に、愉快な事をまじめに書く事です』と。同感である。そうでなければ、人の世など、住むに耐えない程、暗いものになってしまうだろう。

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blog本の威力

 今年の誕生日プレゼントに、ココログ出版から、blog本を自費出版してもいいと、母から言われた。母は、老眼で、プリントアウトしても、字が細かいので、blogを読めなかったのである。私は毎日、苦労しながらアイデアをひねり出し、この三年弱、blogを書いてきたのだが、母はパソコンすら使えないので、私の血のにじむ様な思いを、全然理解してくれてはいなかった。

 blog本は、二部づつ申し込んで、一部は友人宛に送ったことは既に書いた。友人は、ほぼ毎日私のblogを読んでくれるのだが、親しくさせてもらっている友人の奥さんは、「このblogは、私の、実体験の話は面白いわね」と言ったそうだ。これは要するに、フィクションを見抜かれている事に他ならない。私はゾッとした。

 もう一部は家に置いてあるのだが、字も大きくなったという事で、母がコツコツ読む様になった。本来、私が過去のblogを検証するために印刷したのだが、私と母とが交互に読む様になった。母は、「あんた、こんな事、考えていたの。でも、この本は一日では読めないけれど、面白い。百冊ぐらい自費出版してみてもいいんじゃない?」と、初めて私のblogを認めてくれた。私は、「それだと家が傾くだろうし、i-padみたいな電子書籍が出てきたら、多くの出版社が潰れるぞ」と言った。哀しいかな、これが現在の出版業界の現実で、本屋も多くが潰れる事だろう。大体、若者が本を読まなくなった。しかし、友人に曰く、「日本人はまだ本を読む方だぞ」と言っていた。確かにアメリカには本屋はほとんど無かったし、ヘミングウェイぐらいしか、いい作家が思い当たらない。哲学がない国なのだ。

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How old are you?

 生まれて初めての海外旅行を、アメリカ横断に決めていた私は、成田で飛行機に乗った際に、アメリカに骨を埋める覚悟で飛行機に乗った。バックパッカーの旅だったので、すべてが行き当たりばったり、飛行機の中でも興奮して眠れず、私は乗務員に、「酒をくれ」と頼んだ。すると、返ってきた返事が、「How old are you?」だった。私は、『こいつ、年齢も判らないのか?』と怪訝な表情をし、「I'm 23 years old.」と応えた。間もなく、ブランデーの小さな小さな瓶を渡された。私が、まずい酒を少量飲んでも、眠れない。がっかりした。

 北米に着いても、晩酌用のビールを夕方頃買いに行った。そこでも、「How okd are you?」の嵐だった。バドワイザーを飲んでいたのだが、何でこんなにまずいビールを買うのに、いちいち年齢を聞かれるのかと、不思議に思った。後から解った事なのだが、東洋人は、どうしても若く観られがちなそうだ。私は23歳の時に渡米したが、アメリカ人に、「Teenagerにしかか見えない」と言われた。そうか、だからみんな、うるさく聞いてくるのかと妙に納得した。

 アメリカと言えば禁酒法の歴史がある。ソルトレイクのユースでも、近くに買い物に行った際、世界一周しているという日本人と近くのスーパーマーケットに行って、カレーを作ろうという事になった。「ビールも買っていこうや」と、私がカゴに放り投げ、巨大なスーパーでの買い物は終わった。世界一周している若者が、米を炊くのに、指で水の目分量を計り、いいカレーが出来た。二人で食べていると、「米の味、懐かしいよな」みたいな話をしていた。美味しく頂いた後、ユースで語りながらビールを飲んでいたが、おっさんに、「あの張り紙が見えないのか!!」と文句を言われた。観てみると、「アルコール、ドラッグ禁止」と書いてある。『そんなもん、日本人が気がつくか』というほど、小さな張り紙だった。仕方がないので、外で月の光を浴びながら、二人して飲んだ記憶がある。アルコールとドラッグを一緒にされてはたまらない。

 またいつか、二人でモルモン教の総本山に乗り込んだ話も書いてみたい。かなり無茶だった。

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しんどかった

 高校時代の友人達と飲むという事で、昨日は銀行にお金をおろしに行った。風邪がぶり返し、脂汗の流れる中、母が「藤の花が見たい」と言うので、道沿いに見事に藤の花の咲いている場所を車で通った。日差しの強い中、しんどかったが、父が存命中に毎年観に行っていたというので、思い出の場所なんだなと、無理をした。

 帰宅後、恐ろしい眠気がやってきたが、私を含めて三人しかいない飲み会だったので、ドタキャンするのも申し訳なく、ひたすら脂汗を拭って、風呂に入って眠気を覚ました。今年に入って、三回目ぐらいの風邪である。すると、母も風邪を引いているらしく、お互いに、「しんどい」という言葉を使わないようにしようと提案した。間もなく待ち合わせ時間が近づいて来たので、私はバスに乗って最寄り駅へと向かった。

 時間通りにみんな集合し、予約してある店に入った。ビールから始まって、近況を話しだした。私は風邪を引いている旨を告げ、伝染らない様にお願いし、鍋には手を付けなかった。前回のblogで紹介した自衛官の友人は、現在、横須賀勤務らしいのだが、喧嘩して奥さんが実家に帰ってしまったそうである。もう二週間経つとか。もう一人の友人は、家族思いで、私が、「女性には七勝八敗で負け越してあげなきゃダメだ」と言ったら、「それは違う。十五戦全敗だ」と語っていた。家庭でやっている事を聞くと、『そこまで気を遣わなくても』と思うぐらい、何でもかんでもやっていた。一方の自衛官の友達は、家庭内で、結構、短気な様子で、その対照的な事に驚いた。

 何だかんだで、五時間飲んでしまったが、今度の土曜日に、奥さんと仲人を務めてくれた方と話すらしい。自衛官の友人が、「決戦だ」と言うので、私ともう一人の友人が、「馬鹿野郎。そんなの無条件降伏だ」と、口をそろえて言った。自衛官なのに、事の深刻さに気がついていない友人の事が心配である。

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電話いきなり

 前回のblogを書き終わって、仏前に参り、お経を唱えてから、下の部屋に降りた。降りる時に携帯を持って降りたのだが、間もなくその携帯が鳴った。昼間だったので、いつも電話をくれる友人にしては、早いなと感じたのだが、連絡元を観てみると、高校時代の友人からだった。何の用だと電話に出る。飲みの誘いだ。

 彼は海上自衛官で、現在、『3佐(少佐)』まで出世した。彼が独身の頃は、僕の部屋で、三人の仲間で飲んでいて、自衛隊不要論を唱える仲間と口論になった。その時は、僕は、肯定論に回って、自衛官の彼と、一緒に布団で寝ていた事もある。そういえば、別の機会に、箱根の温泉に連れて行ってもらった事もある。

 前に一緒に飲んだのは、今年の正月であるが、彼は面白い事を言っていた。昇級試験かなんだかで、仮に沖合に出ていた時、一方で漁船が転覆し、一方で島が噴火した際、どういう決断を下すか?という様な問題が出されるのだという。もちろん正解など無いのであるが、決断力を試す試験としては、面白い。私だったら、すぐに応援を要請し、船を島へ、へりを漁船の方へと送る事にする。

 彼は下戸なのだが、それでも飲みに誘ってくれるのが嬉しい。現在、下北半島の大湊で任務を遂行しているらしいが、恐山には怖くて行けないと言う。お茶目な面も持っているのだが、彼ほど筆まめな友人はいない。結婚する時にも、わざわざ僕の所に知らせに来てくれた。集合時間が夕方なので、そろそろ寝ないとな。

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愛する人へ

 君が初めて作った料理ならば、

「おいしい」って言って食べる。

 僕が作った本ならば、

「面白い」と言って欲しい。

  シンクロしすぎている二人には、

ただ時が過ぎてゆくだけ。

 愛する人よ、

お互いの過去は、忘れましょう。

そして未来へのバトンを受け継ぎましょう。

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夢の中でまで

 一時間程前まで寝ていたが、昨日一日寝たせいか、体調が良くなっている。やっと、風邪が治ったのかも知れない。ところで、人間の睡眠というのはレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返すという。また、睡眠の周期は3時間であるとも言われている。そして、得てして、浅い睡眠の時に夢を見ると言われてもいる。

 夢を見るのは、悪夢でない限り好きなのだが、昨晩は、どちらかというと悪夢の方を観てしまった。起きた現在でも複雑な気持ちである。その夢とは、夢の中でもblogを打っているというものだった。起きてから、ここまで自分の心がblogの方を向いているのかと、唖然とした。どうせだったら、素敵な女の子の夢を見たかった。

 夢は、無意識からの投影図だとも言うが、この『blog病』なる物は、私の無意識を確実に侵略している。しかし、それもやむを得ない事なのかも知れない。あと一月ちょいで、このblogも、満三歳になるのだが、友人の『石の上にも三年』という、激励とも脅迫ともとれる言葉に、なにくそ!と思ってから毎日書いてきたのである。

 もちろん、友人には感謝している。当初の僕だったら、『blogを打っている夢を見た』というだけでは、この様なblogは書けなかった。努力した分だけ、それだけ文章力も上がったと観ている。努力というものは、限りなく続き、終わりの無いものだが、ほんの少しだけだけれど、展望が開けた。

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じいちゃんに捧ぐ

 私の母方の祖父は、瀬戸内海でミカン農家をしていた。私がガキの頃より、毎年、ミカンを送ってくれていた。そんな中でも、美味しいミカンの木と、そうでない物があったらしい。我々親族には、美味しいミカンの木で育ったんだけれど、出荷できない傷物などを送ってくれていた。私の母は、ミカンに育ててもらったと、今でも言う。

 そんな母方のじいちゃんが寝たきりになって一年が経つ。当初、寝たきりは辛いよな、などと母と話していたが、病院が代わって、精密検査をしたところ、大腸にがん性の腫瘍と大動脈瘤が現れたらしい。89歳だし仕方がないかな、と感じた面が大きい。無念だ。

 25年くらい前、山火事が起こった。村中の人が消火活動にあたったらしい。村中の女性達は、支援物資として、おにぎりをこさえたらしい。しかし、最前線にいるじいちゃんには届かなかったとの事。途中でみんなが食べてしまうからだ。その後、狸が里の方に出てきたらしいが、村のみんなは捕まえては、剥製にする時代がやってきたそうだ。じいちゃんの家にはなかったが、動物愛護団体から、クレームが付きそうな話でもある。しかし、狸に畑を荒らされては、食っていけないのである。

 母方の祖父は、現在も入院している。広島にいる、母の弟のおじさんが、よく面倒を見てくれてこれまでやって来れた。母も遺産相続の際には黙ってハンコを押すと言っていた。

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