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お経の哲学性

 お経とは不思議なものである。私の家では浄土真宗の大谷派のお経が読まれる。京都に総本山がある。先程唱えたのだが、ファーストインプレッションは、物語調で深みがないという感じだった。何度唱えても、大谷派のルーツしか唱えていない気がする。肝心の念仏も、最後の「南無阿弥陀仏」という所のみが重視されている気がした。当然といえば当然なのだろうが、研究のしがいがない・・・こんな事、書いたらバチが当たるかもしれんな。

 まだ般若心経の方が深みがある。偏りが少ない。仏前のお経としてふさわしいのかどうかは知らないが、こっちの方が面白い。『空』というものをいかに捉え、我々の存在根拠とあるべき姿を知らしめているのがいい。親父も仏教徒だったが、「お前の代で宗派を代えてもかまわない」とまで言ってくれていた。

 僕は哲学として考えるのなら禅が最善だと思う。生きているものにも納得がゆく。かと言って、親父には禅僧めいたところはない。言葉ではなく、行動や生き様で私たちを引っ張ってくれた。我々はボーダイサッタを目指して生きているのだ。そこに間違いはない。

 唯識論は疲れる(自分という訳の解らないものを拠り所にするから)。真言密教も疲れる(マナヤ識とかアラヤ識以上の十識を考えたくもない)。聞いていて楽しいのは禅問答であるが、鈴木大拙氏の講演を聴いていて複雑な思いがした。存在論がゼロか∞であるというのだ。同じような講演を坂本龍一氏のArt(YouTube参照)という作品でも聞いた。そこではもっとダイレクトに西洋宗教と現代哲学の葛藤(最後の審判について)が語られていた。何度聞いても耳に残る印象的なものである。と同時に僕が最も疲れる作品でもある。

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