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薬師寺の坊主との問答

 奈良の薬師寺と言えば、仏教の『唯識論』の総本山である。『唯識論』などと書くと、ややこしそうだが、単純に、『我思う故に我あり』とニュアンスが似ている。そこから展開していく仏教思想の一派だ。そんな薬師寺の坊主に『唯識』について質問したことがある。

 例え話だが、私はこう質問した。「自然科学などでは観測及び実験などによって、十人が十人とも○とした場合に、実証的に、初めてそれが正しい、もしくは、存在すると認められます。十人のうち、一人でも×ならば、それは事実として認められません。こうやって科学は進歩してきました。ところが、世の中は、そんなに解りやすいものだと私は考えません。・・・例えは悪いのですが、もし、その十人のうちの一人に、幻覚ないしは幻聴を生じた場合、他の九人には解りません。ところが、その一人は実際にそういうものを自覚している。こういう場合、その、幻覚ないし幻聴というものは、唯識の立場から考えると、実在するのでしょうか?」

 すると坊さんは、「申し訳ありませんが、修行不足な私には解りません。寺というのは閉じた世界なので、そういう外から入る情報は大変ありがたいものです」と、私にお礼を言った。謙虚な坊さんだと感じたけれど、疑問の解けない私は、その後も独りで考え続けた。

 そうして行き着いた結論は、唯識の立場では『実在しない(というか解らない)』けれど、他の考え方を持ってくると『実在する』というものだった。私が考えたモデルというのは、「庭に十本の花があり、そのうち九本が赤い色をしていて、一本だけが白いと仮定すると、唯識の立場というのは、独立した一本の花そのものだから、この十本には連続性がなく、白も赤も区別が付かない→実在しない。・・・しかし、唯識を超越する考え方をすると、この十本の花の植えられている庭の土を掘り返す様なもので、十本の花の根っこが繋がっているが故に連続性がある→赤も白も実在する」というものだ。

 ややこしく書きすぎたかも知れないが、要するに言いたいことは、いろんな事象には見えないところで連続性があるものだ、ということである。・・・ちょっと行き過ぎた暴論かも知れないが。

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