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如来と菩薩について

 『如来』と『菩薩』と言っても、単に仏教上での仏の位みたいなものである。『如来』が上で、『菩薩』はその次の位である。具体的には、『如来』とは「悟りきった仏」を指す。阿弥陀如来とか薬師如来とか釈迦如来とかいくつかある。それぞれに真言がある。真言とは、元々、サンスクリット語(梵語)で書かれた呪文のようなものを、日本語に音写したような形のものである。教典を調べてみても、ひらがなで書かれてある。例えば薬師如来の真言は「おん、ころころ、せんだり、まとうぎ、そわか」である。真言の最後には「そわか」が多いのだが、これは「そうありますように」というような締めの言葉である。お経などにも出てくる。

 真言が不思議なのは、呪文性が強く、唱えれば唱えるほど、いい流れを呼ぶような、不思議なところがあると、少なくとも、そう、私は思っている。

 一方で『菩薩』とは、簡単に言うと「如来を目指すもの」であり、観音菩薩(真言「おん、あろりきゃ、そわか」)などが有名である。日本では、いろいろな菩薩がいる中でも、特に観音菩薩への信仰が深い。また、(たしか)ある坊さんが、良寛和尚の話をするのに、「私は良寛菩薩と言いたい」と語っておられた。人間に菩薩を付けるのは、一瞬おかしな気がするが、その和尚は、「『菩薩』とは、『如来』(悟りきった仏)になろうとして、永遠に努力するもののことをいう」と語っておられた。私は、宮沢賢治もそんな中の一人だと思うし、そう考えている人も多い。・・・人間で、『菩薩』と称されて、違和感がない生き方をした人は限られている。

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