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2007年7月

嘘っぱち

「女は月に一度よ。そういう意味で、男は楽でいいわね」と言った。私はその女に憐憫を感じてならなかった。

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続・選挙と政治と

二大政党制は重要な政治のテーマでもある。そのためには民主党はもっと大人にならなければならない。一度、与党になってみたらかなり体質も変わるのではないか?また、共産、社民などのストッパーも必要であろう。重要なのは国が右に左に傾きすぎないことだと自分は認識している。

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選挙と政治と

今回の選挙は予想通り、自民党が惨敗し、民主党が議席を大幅に増やした。今回、私は初めて期日前投票を行ったが、何かしっくりこない選挙である観は否めなかった。私は、選挙に行かない人には、政治を語る資格はないと考える。しかし、調べれば調べる程、票を入れるべき候補者も政党も見えなかった。また、今回の選挙の結果で民主党候補者が図に乗るのもナンセンスであるし、これだけの惨敗で選挙責任をとらない安倍首相も潔くない。続投し、これ以上、何をやるというのか。実際に、何はともあれ、国民はNOを突き付けたのだから、退陣するのが筋ではないか。人材がいないと言えば、確かにそうであろう。小粒だったり、軽薄だったりという議員が増え過ぎている。二大政党制を進めると言っても、今のバラバラの民主党に本当に政権運営能力があるのかも疑問符が付く。ナンダカンダで、これからの日本に、暗雲がたれこめている気がしてならない。

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ヒッチハイク野郎

昨日、仙台から平泉に車で向かう途中でヒッチハイク野郎を乗せてあげた。なんでも、自分探しの旅をしているとのこと。なんとなく気持ちが通じあい、・・・ただヒッチハイクしているだけじゃ意味がねえだろと、二人で平泉を巡った。彼は東京から来て5日目。そばとビールをごちそうしたら泣いていた。二日ぶりの食事とのこと。感心したのは、彼がそういう弱音を一切はかなかったこと。ずるさが一切なかった。
昨晩、メールがきて、盛岡までのヒッチハイクに成功したとのこと〓。
彼は27だが、いろんなしがらみの中でもがいている感じだった。励ましながら励まされた。こだわりのある男で、甘えがなかった。 甘えが自分を駄目にする。一期一会だったが、自分も、彼の様な逞しさが欲しいと願わずにはいられなかった。

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携帯買い換えました

 二、三日前、長年使っていた携帯電話をムーバからフォーマに切り替えた。古いのはdocomoのP506ic、新しいのはやはりdocomoのP904i、基本的な機能の使い方は分かるのだが、まだ細かいところまでは分からない。私の場合、ドコモ・エンジニアリングに勤めている友人がいるのと、松下で携帯関係やっていた友人がいるのとで、必然的にdocomoのPになってしまうのである。

 携帯を買い換えたきっかけは、古い方のメールの許容文字数が余りにも少ないからである。ブログを始めて、モブログをする際に不便だと思い、買い換えてしまった。一応、海外からでも使える仕様になってはいるが、本当に電波がキャッチできるかは不安である。日本国内でも不安でもある。

 新しい方の感想は、薄くなったのと、比較的おしゃれに出来ている点で気に入っている。お財布携帯でもあるのだが、万が一、雨の日にでも落としたら、携帯がぶっ壊れるのと、電子マネーの行き先との、ダブルショックで相当へこんでしまうだろうから、多分電子マネー機能は使わないと思う。

 まあ、落としたりして壊さない様に注意しながら、仲良くつきあっていきたいと思う。 

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台湾紀行(最終回)

 ホテルにシングルで泊まっていても退屈だったので、私はしょっちゅう一階のロビーに行っていた。フロントの方々も親切にしてくださり、日本語が喋れる方はちょくちょく日本に来るとのこと。そんな中で(たしか)服務台の係の陳さんにはお世話になった。陳さんはご高齢にもかかわらず、一生懸命仕事をしていた。そんな中で、陳さんは私に中国語を教えてくださり、私は日本語をコーチした。中国語の発音の四声(語音、イントネーション)を教えてもらった。単に「チンウェン(Excuse me?)」と発音しても通じにくい理由がやっと分かった。「チンウェン」は四声で言うなら、「レ点」の様に話すらしい。それを知ってから大変便利になった。また、陳さんは、「ここの店の小龍包は是非食べとけ」と言うだけあって、バスで乗り継いだ末に行ったお店はおいしかった。紹興酒を飲みながら小龍包をつまむ・・・至福の一時である。また、地元のドヤ街みたいなお店の、これは安くてうまいという物も教えてくれた。本当においしかったので、おかわりまでした。

 故宮博物館は改装中であったが世界の四大博物館と言うだけあって、歴代中国の至宝がごろごろしていた。私は時々、団体客のガイドさんの説明に耳を傾けながら、珠玉の瑞宝を目に焼き付けるまで見ていた。台北からメトロとバス一本だったが、私は計三回通った。審美眼が養えたのかどうかは知らないが、帰国後、家にある皿を見て、すぐに価値がないと判った。

 ホテルに泊まっていたある夜、ドアをたたく音がした。なぜだか知らないがポン引きが来た。あれこれ言う相手に、丁度私は坊主頭だったので、「坊さんがそういうのはまずいでしょう」と言って断った。向こうも判るらしく、おとなしく退散していった。

 ある夕方に、時間をもてあましていることを陳さんに告げると、駅へ続く地下街に占い師がいるという。興味本位で行っては見たが、お互い言葉が通じない。参ったなと、あきらめようとした時、占い師の先生(若い女性)が携帯を取り出し、おばあさんへ通訳してもらうように頼んでくれた(その代わり割増料金だったが・・・)。私はその占い師が賢いと見て、あえて哲学的な質問を英文で書き殴った。学問の分野では漢字で興味があることを羅列した。先生は両方とも理解していた。その結果、最後には「あなたの質問は占いのジャンルを超えています」と言われた。手間も掛かったので、チップをはずんで宿に戻った。

 陳さんが日本語で「面白かったかい?」と聞いてくるので、通訳の話やら何やらで「面白かったです」と答えた。陳さんも嬉しそうにしていた。ふと、石ノ森章太郎の「ホテル」を思い出したので、台湾では売ってないのかと尋ねると、みんな知らないという。それなら、親切にしていただいたし、日本に帰ったら送りますよと言って、後にアマゾンで三冊ほど買って送った。陳さんからも日本語の’ありがとう’というニュアンスの手紙が来た。

 やがて、日本に戻らなければならなかった日、陳さんはいなかったが(夜勤なので)、フロントの方に「宜しくお伝えください」と言って空港に向かった。時間まで余裕があったので、免税店でいろんな物を物色したが、友達への土産は、煙草だった。そうして時間になると、機内に移り、短かったけれど密度の濃い台湾への旅行に終止符を打った。

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携帯買い換え

携帯買い換えによる実験メール

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台湾紀行(番外編)

 前回の台湾紀行(その10)で、許君が登場したのだが、彼が語ったことのなかで、印象深いのを載せておく。

「兵役は台湾男子の義務です」

 日本でこの話題はタブーとされている面もあるが、果たして、現在の若者がどれくらい胸を張ってこう言えるだろう?男性が男性らしくなくなった根拠の一つとも言える。

 もう一つは日本に来たときの感想で、

「日本に行ったとき、余りにも茶髪の人が多いので驚きました。言葉遣いも乱暴です。何故、女性が女性らしさを失うようにするのでしょうか?」

 この答えには少し考えさせられた。しばらく後、「複雑な問題だけれど、ファッションと言えばファッション。でも、根底は、文化が廃れていった問題に、俺の場合は帰着する」と答えた。

・・・もちろん見かけだけで人を判断するのは誤りだ。ただ、戦中、戦後を生き延びた母方の祖母に、日本人には廉恥心という文化があったと聞いたことがある。

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心構え

P1000470 このブログを始めてから、毎朝、仏前で経を唱え、座禅することを欠かさなかった。しかし、煎じ詰めると、私は仏に対し、願をかけていたのである。願とは、身内の健康から、経の最後の回向文「願わくばこの功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」まで、幅は広いが、確かに願をかけていた。

 それらの思想自体はかまわないと思うのだが、何分、私は”謙虚に感謝する気持ち”を忘れていた。これでは私利私欲になってしまう。つまり、私は、ここのところで、大きな勘違いをしていたのである。仏に向かう姿勢というか、心構えというものが、欠如していた。

 これからは態度を改めて仏前に手を合わせたいという気持ちになった次第である。

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プリンターがぶっ壊れ

 先日、二年弱使ったプリンターがぶっ壊れた。¥25000で購入したのだが、修理に出すと¥28500(保証90日)掛かるという。補償金額との差額を考えても¥9000弱は自腹、しかも新品が返ってくるわけではない。おかしな話だ。

 私はプリンター会社とは、インクで儲けている物だと考えていた。実際にヤミのインク屋との訴訟沙汰がアメリカでは起きているという。しかし、私が耳を疑ったのは、「プリンターを壊して儲ける」という戦法も行われているということである。もともと、そこに勤めていた奴の言うことだから、信憑性は高い。つまりは疲労試験や安全率などによって、統計的に「ぶっ壊れるよう」にして売っているということか。別の友人などは「プリンターなど使っちゃいけねえ」とも言うが、商売道具である以上、購入せざるを得ない。

 確かに最近のプリンターは高性能で価格も安い。しかし、二年弱でぶっ壊れるプリンターなどいらない。物造りをしているメーカーならば、ユーザーの信頼を勝ち得ないと競争もへったくれもない。

 というわけで、私は近々、プリンターを購入するだろうが、今まで、長年、何代にも渡って購入してきたメーカーの物は購入しないと思う。壊れてからの対応も、金銭的に見て納得がいかない。不条理な対応に猛省を促す。

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台湾紀行(その10)

 翌朝早めに目覚めた私は、花蓮(ファーレン)駅へと向かった。台北に帰るためにである。切符もあり、昼過ぎには台北に着く予定だった。が、何か様子がおかしい。駅員に聞いてみると、台風の影響で電車は大幅に遅れるとのこと。七時過ぎに行った私はそれから四時間待つことになるのだが、まあいい。旅ではこんなことはしょっちゅうだ。遅延の払戻金額を受け取ると、ベンチに座っていた。段々と駅が混み出し、ベンチにも詰めて座るようになった。私の右に老婆と孫がいたので、試しに筆談で、どこに行くのか聞いてみようとした。しかし、あっけなく無視されてしまった。残念と思っていると、左から声がする。

「台北に行かれるのですか?」

日本語だった。よくよく話を聞いてみると、大学で日本語を専攻していたとのこと。なんでも、日本のT.Vゲームで育ったので、英語より親しみやすかったのが理由らしい。彼は当時、兵役中で、久々に台北に帰るとのこと。名字は許(きょ)君と言う。

 十一時過ぎに運行が始まると、電車はすし詰め状態だった。私は席を確保できたが、許君は出来ていない。せめて荷物を持ってあげた。色々と話したが、私が「日本に来たことはあるの?」と聞くと、「あります」 すかさず「物価が高かったでしょう?」と聞くと、幼い頃から貯めていた貯金が半分に減ったそうだ。秋葉原やディズニーランドに行ったと聞いた。私は「いつか、京都や奈良にも行ってみるといいよ」と話した。いろんな話をしたが、彼が聞いてきた質問で記憶に残っているのは、「台湾の女の人はどうですか?」・・・「いいんじゃないかな、素直そうで」・・・「僕は日本の女性の方に惹かれます」との後、どんな女性がタイプかを聞かれた。「趣のある人かな」と私が答えると、許君は「なるほど」と言い、逆に僕も聞き返した筈なのだが、申し訳ないことに、内容をあまりよく覚えていない。・・・時々外に目をやると暴風雨。

 夕刻、台北に到着し、そこからメトロで実家に向かう許君との別れの時がやってきた。地下の広場で、二人の写真を撮ってもらい、メールアドレスを交換して別れた。帰国後のことだが、許君のはhotmailだったが、何度送ってもエラーが出てしまう。アドレス帳には登録しているのだが。

 私は、最初に泊まったのと同じホテルを予約していた。私が一週間ぶりに帰ってくると、フロントの方が「おかえりなさい」と言ってくれた。挨拶が終わると、電話で飛行機のオープンチケットの日取りを確定させた。・・・私が台湾にいれるのもあと数日である。

(つづく)

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尻尾見りゃ分かるだろ

05040707_10_50_1 愛犬「弥七君」(ミニダックス、♂、満九歳)の側では迂闊なことは言えない。信じられないかもしれないが、人間の言葉がほとんど(ある程度?)理解できるのだ。もちろん、雰囲気や空気を読んで(この能力は人間の比ではない)も判断するのだろうが、家族間の会話や、私が話しかけたりすると、ニュアンスはもちろんのこと、内容が解っているとしか思えない仕草をしたりするのだ。幼い頃はそうでもなかったみたいだが、段々と言葉を覚えていったようだ。

 逆に、自分の意思を伝えたいときには、言葉をしゃべれない分だけ、いろんな仕草でアピールする。後ろ足と尻尾で立ち上がる「頂戴」、鼻でつついての「やってくれ(やれ)」、排便がすんだときの後ろ足で砂をかけるような「チャッチャッチャッ」、何か注意されたときの気まずそうな目の動き、とにかく表現力豊かである。

 気まぐれなのも彼の特徴だ。機嫌がいいときは、家族の団らんの中心にいるし、私の足に頭をちょこんと乗っけたりしてくつろいだりする。一方、面倒な気分の時は、呼ばれてもなかなか反応しない挙げ句に、尻尾だけで返事をする。

 よくよく考えてみると、弥七君のご機嫌具合は、尻尾がどれだけ動いているかがバロメーターになっている気がする。 

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究極の精子

 昨晩は親友四人と私で語り合う会の予定だった。それが突如、約束事の会になってしまったのである・・・もちろん語りもあったが(多くは私のブログに関して(感謝))。

 まず、約束事から・・・私と友人一人は今年の新年会での約束を果たした。それはいい。で、次には来年の一月あたりに集まろうかということになったのはいいものの、みんな宿題を抱えた。1)体脂肪率を20強から18%まで落とす。2)体脂肪率14%を維持したまま胸囲を2cm増やす。3)今の(自分の)会社で新たなビジネスを一つ展開する。私)ブログを毎日続ける。そして五番目・・・5)次回までにお子さんを作る。

 五人それぞれが意見を出し合って決めたことで、どれもきつい目標なのだが、独身の私を除く既婚者の中で、唯一、子供がいない友人は子作りがミッションとなった。これが多分一番きついだろう。その彼曰く「誰でもいいのか(笑)?」・・・「そんなわけねーだろ」・・・てな具合。こうなったら、「究極の精子」を作ってもらいたいものである(ユンケルでも送ろうかな・・・(笑))。

 なんだかんだでブログのアドバイスも頂き、今回はコンパクトにまとめてみました。

「易しいことを難しく書くのは楽、難しいことを易しく書くのは大変。でも、意外と世の中、シンプルに出来ていることに気づく」

 感想でした。

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飲みの席

現在、飲みの席で次回までの約束をみんなで取り決め中です。

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親友との再会の日

 今晩、都内の某所で大学時代の親友四人と再会する。そのお店も親友の中の一人が教えてくれた場所で、雰囲気もいい。いつからか、何かの会合の際にはそこに集まるようになった。今までは年に一回、新年会の季節にだけ集まっていたのだが、ある友達の提案で、最低、年二回は集まることになった。皆、同じ大学の理工学部機械工学科出身の同期生である。縁とは不思議なもので、何故、今まで続いているのか解らない。よく考えてみると、今回欠席している友人と私だけ、そのメンバーの中で独身である。また、一人を除いて、普通にサラリーマンをやっている奴がいないのもこのメンバーの特徴だ。メンバーの詳細についてはプライバシーの都合上、明かせないが、みんな第一線でやっている。忙しすぎる連中なので、幹事はいつも私がやることになっている。まあ、メールを回すだけなので手間は掛からないが、私も少しは忙しくならないといけない。

 そのメンバーで話すとき、みんな言いたいことを言う。だからといって、喧嘩討論にならないのは、それぞれの思いやりや配慮からだろう・・・というより、馬鹿馬鹿しいことに対しては、みんな刀を抜かない。仮に討論になって刀どうしが火花を散らしても、みね打ちで止める。そのメンバーは「何でそうなんだ?」と言ったら、必ずなにがしかのものが返ってくる。それで話が膨らむことも多い。なんだかんだで時間の経つのが異常に早く、それだけ楽しいといったところだろう。話のネタも、仕事を離れたものが多く、みんなにとってもいい一時なのだろう。

 そのメンバーのほとんどは、学生時代から誰かの家で同じ鍋をつつきあった仲間であり、根本的にはみんな変わってはいない。あの頃は、何かがあると集まっていた。ある時、友人の一人が「101匹目の猿」という本を読んだと言って、シンクロニシティー(共時性)についてネタを取り上げたが、気がつくと、本を読んでいない私と別の友人で話が盛り上がってしまったこともある。最近はみな、家庭を持って鍋の会からも疎遠になってしまったが、昔は飲みながら、一晩中、討論なんていうのもザラだった。各家庭に地鍋があって、家の鍋は「ほうれん草鍋」と友人に命名された。昆布でだしを取り、電気鍋のスイッチを入れたら、木綿豆腐をスプーンで崩しながら椎茸も入れる。その上にほうれん草を入れて豚肉を乗せてフタをする。後は肉の色加減で食い頃が解り、ポン酢醤油で食べる。ご飯も進む。この鍋は、昔、湯豆腐をやっていたときに、なんか物足りないと感じたのがきっかけで生まれた。友人の奥さんによると、日本酒とニンニクを少し入れたらもっとおいしくなるとのこと。興味のある方はお試しあれ。

 さて、今晩の帰りはおそらく終電であろう。短い時間でどれだけ有意義な会話が交わせるかも楽しみである。ここのところ、超昼型(午後九時には寝て、朝の三時に起きる)にしていたのだが、今回の集まりのために、夜型にしてしまった。朝食を採ったら眠るつもりである。それから、万が一、終電を逃したときのために、寝袋も持って行く予定だ(笑)。

 伴い、明日のブログは公開が遅くなるであろう。どんな話のネタが転がり込むか楽しみである。

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台湾紀行(その9)

 太呂閣(タロコ)では、毎年、車が転落するほどに道が狭いのだ。そこを大型バスで行くというのだから、運転手の方は相当神経を使うだろう。途中、世界最高峰のビル(台北の101)よりも高いという絶壁にも出くわした。これだけの珊瑚をここまで削るのに、一体、どれだけの歳月を費やしたことだろう。なお、私が行った当時は、台北→太呂閣の路は確か通行止めになっていた。

 やがて、太呂閣(タロコ)の最終ポイントまで来た。そこにはお寺があった。お寺の上まで登ろうかとも考えたが、時間的に不可能だと判断した私は、門前に立っている坊さんと筆談した。まず、私が、「何経?」と聞いた。すると「仏教」と返ってきた。そこで試しに「般若経?」と尋ねると、名前は忘れたが、日本にはない宗派だった。私はお布施を渡し、時間になったのでバスに戻った。

 バスは今度は道を降る。少しでも、この景色を目に焼き付けておこうと、必死でまわりを見続けた。私は、台湾に来た中でも、自然の景勝地という点では太呂閣(タロコ)がダントツに気に入った。台北からだと花蓮(ファーレン)まで電車で行き(そんなに時間は掛からない)、二泊予定で巡ってみるのがよいと思う。

 そうして、バスは石売り場へと到着した。営業は年配の男性がやる。いろんな石があった中で、直径20cm位の石があった。「煙草を吸う方はいらっしゃいますか?」というので、私が出て行った。最初に煙草に火を点けて吸う、その後、煙草を5秒間だけその石に付け、再び吸う・・・確実に煙草が軽く感じられた。驚いた。何故かと聞くと、「気」だという。他にも、いろんな宝石の真偽の見分け方まで教えてもらった。そしてお買い物タイムとなるのだが、先程の不思議な石は肩こりにもよいらしく、営業している男性も両腕に着けていた。私は、母が五十肩なのを思い出し、二つほど、その石が数珠のようになって手首に巻けるものを買った。一つ5000円位したと思う。私は煙草の不思議と、営業している方自身が着けていたので購入したのだが、それがなかったら素通りしていただろう。

 買い物が終わると、海辺へと連れて行ってくれた。風強く、一面に広がるコバルトブルーの海。与那国島は見えないかなどと眺めていたが、見えそうにないので、草むらの上にひっくり返った。空と太陽で気分は最高・・・だったがやはり台風の近づいている気配は感じ取れた。そうして、バスは花蓮(ファーレン)へと戻り、約半日くらいのツアーが終わった。

 男子学生はそのまま、駅へ向かい、行ってしまった。私は女性OLと再びワンタンを食べに行った。その方は休みが、この期間くらいしかとれなくて、来ているとのこと。明日は南の方の温泉にでも行こうかと考えていると話してくれた。話題はやはり台風のことで、下手をすると、その方はどこにも動けなくなる可能性がある。帰りの夜道を宿まで送ると、「それじゃあ」と言って別れた。

 少し酔ってから寝ることにしたが、次の日もトラブルに巻き込まれるとは、予想だにしていなかった(だから旅は面白い)。

(つづく)

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モノポリーの不思議

 昔、散々やったゲームの中に「モノポリー」がある。タイトル通り、物件をどんどん買い占め、宿屋、ホテルを建てていくというゲームだ。このゲームはアメリカの不況時に作られたゲームだという。サイコロ二個を振って、駒を動かし、物件を買ってゆく。他人の物件のマスに入ったら、いくらかの金を払う(家を建てたりすることによって、宿泊費(?)は上がってゆく)もちろん、自分のマスに誰かが入っても同様に金が入る。

 このゲームのセオリーは、序盤は可能な限り、物件を買う・・・と言うより買いあさる。序盤にJAIL(刑務所)に入ってしまうと最悪である。そうして、一通り、物件が皆の手に渡ったら交渉しながらゲームを進めてゆく。最後の方は、一人二人と破産者が出る中で、物件に家を建てまくる。ただし、他人もそうしているので、最後は地雷をいかに踏まないかというゲームになってしまう。地雷を踏まない最善の方法は、ゲーム上のJAIL(刑務所)に入ってしまうことである。そうして最終的な勝者が決まる。

 ゲーム上の物件は色で区別され、安い物から高い物まで、規則的に配置されている。どの物件を買えるかはサイコロ次第だが、買うか買わないかは本人が決める。・・・と、ここで、長年モノポリーをしていたことによる経験則なのだが、なぜだか解らないが、「黄色」のマスだけが価格と止まりやすさのバランスが悪いのだ。経験則だから,何ともいえないが、厳密に確率計算してみると、きっと、期待値が小さくなると思う。

 何故、黄色のマスだけバランスが悪いのかをしばらく考えたことがある。すると、あることに気がついた。モノポリーのマス目は一辺10マスの正方形(40マス)で作られているのだが、この中に二つ特異点があるのだ。それは、「JAIL」と「GO TO JAIL」の二つで、これらだけが駒を止めたり、移動させたりするマスなのである。きっと、この二つのマスのせいで黄色のマスに止まりにくくなっているのだろう。

 で、自分が考えた必勝法とは、「黄色の物件」にはよっぽどのことがなければ手を出さない。もし、手持ちになってしまったら、独占されない限り、ニコニコと黙って他の人に売却してしまう。モノポリーをよく知っている方には、この戦法は使えないが、相手が初心者ならば、やっぱり、「黙ってニコニコ」売り飛ばし、その資金を他へ回す。

 それにしても、もう二十年近くやっていないのに、よく思い出せたなと思う。一時期の、のめり込みが激しかったためにイメージが残っているのだと思う。ルールを多少誤解しているかもしれないが、そこら辺は勘弁していただきたい。ゲームのコンセプトは面白いのだが、序盤のサイコロで大方決まってしまうことが、何か深みに欠ける。中盤の交渉がきっと面白いのだろうが、私が中学生の頃に、我が家でやっていた頃には、ワイロだらけで弟か私かが、逆ギレし、ボードをぶちまけて、終わることがよくあった。前の大掃除の時に、多分、捨ててしまって家にはないのだが、なんだかあの頃が懐かしい。

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台湾紀行(その8)

 気が付くと、一瞬、自分がどこにいるのか判らなかった。我に返り、『ああ、俺は今、台湾を旅しているんだな』と確認しながら起き上がり、窓の外を見る。早朝なので、枯れた噴水は石のモニュメントみたいに見える。久々によく眠った。冷蔵庫から水を取り出し、バナナを食べる(私は、一人旅の時の朝食は大体バナナである。便利で安くて栄養があるからだ)。食べながら、夕べ干したTシャツ類の乾き具合を見る・・・今ひとつか、と、今晩も同じ部屋に泊まるので放っておく。別の着替えを用意し、適当に身支度を調えると、集合場所に向かった。宿のばあさんに挨拶すると、まもなく日本人で学生の男と、OLの女がやって来た・・・面倒なので、お互いに名前などは聞かない。女性は初対面だったので、軽く挨拶を交わした。やはり太呂閣(タロコ)へ行くという。大型のバスがやって来たので我々は乗り込んだ。

 出発して程なく、私よりも年上だろう、女性のバスガイドが挨拶をし、予定を話し始めた。驚いたことに、中国語、英語、日本語の三種類を、順番に早口で喋るのだ。バスの中にはカナダから来たというカップルもいた。乗車率は2~3割くらいか。まず、太呂閣(タロコ)が出来た所以から、説明は始まった。遙か昔に海底の珊瑚の層が隆起して出来た物で、そこを、やはり長い年月をかけて河が浸食して出来た深い谷であるとのこと。道中、何カ所かの見所で止まる予定。花蓮(ファーレン)駅より約15km位北に行き、今度は西へ向かう。

 まず最初の停車地は、太呂閣(タロコ)入り口の平野にある、山から切り出した石の加工場だった。一畳位の大きさの板が何枚もあり、表札などに加工したりするらしい。しかしながら、最近は景気が余りよろしくないらしく、相場も安めとのこと。石と言っても色々な種類があるらしいが、掘っても掘っても無くならないのではないかというぐらい、遠望する山の峰々は高かった。再びバスに乗ってまもなく、ガイドさんが、「こんな天候は初めてです」というくらいに遠くの峰が霞み出してきていた。台風が近づいてきているらしいことは聞いていたが、太陽は出ていたのでそのまま進む。

 段々と道が細くなり、河が現れる頃には、車がすれ違うのも大変なくらいの道幅で、見上げる両側は断崖絶壁になっていた。普通に河に削られる谷をV字谷、氷河で削られる谷(フィヨルド)がU字谷とするならば、硬い珊瑚の岩盤を細い河が削った太呂閣(タロコ)の谷は、超U字谷、もしくは、さながら試験管の底にいるといった感じであろうか。河を流れる水も、灰色掛かっている。来てみて初めて心を揺さぶられたが、その圧巻たる展望は、かつて日本の四国で訪れた、祖谷渓の迫力ある濁流よりも、感慨深いものがあった。こういう時、私は遠藤周作の『深い河』をぼんやりと思い出す。何かしんみりした気持ちの中で、バスが停車する。

 しばらくの休憩の間、日陰の橋の欄干に、組んだ両腕を乗せ、過ぎし日のことか何かを、運命の不条理か何かを考えながら、河の流れを、ただ、ジッと見つめていた。すると、背後から声がした。「ここの眺めはいかがですか?」・・・さっきのバスガイドだ。「いいですね。懐かしくなりますよ」・・・「何故ですか?」・・・それ以上、心の奥まで触れられたくなかった私は、背伸びをして、後は適当にしてしまうつもりだった。そのガイドの人は性格なのか、なんでもダイレクトに聞いてくる。年齢、家族、仕事、など。バスに向かいながら応える私。すると、「家族に結婚しろといわれませんか?」と聞いてきた。一瞬で『この人も孤独なのだろうな』と感じた私は、「別に言われませんよ」と笑って答え、「気楽にいきましょうよ、お互いに」と言って、バスの中程の椅子に座った。

(つづく)

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台湾紀行(その7)

 高雄(カオシュン)は台湾南部の港町である。私はそこから反時計回りに鉄道で回り、東海岸の花蓮(ファーレン)に向かうべく前日に切符を購入しておいた。途中で乗り継ぎがあり、そこで二時間くらい待つ予定。朝の8:00頃に出たら、夕方16:00頃には着く予定だった。切符も買えたし、ということで安心して眠りについたのだが、あろう事か、翌日、汽車が発車する時間に目覚めてしまったのである。手っ取り早く荷物をまとめた私は、フロントでキーだけ渡し、速攻で駅に向かった。幸い、泊まっていたホテルが駅前なので、それほど走りはしなかったが。

 駅に着くと、日本でいう、緑の窓口みたいなところに駆け込んだ。私は乗り遅れた電車の切符と、乗り継いだ後の切符とを見せた。私はどんなことを言ったり、書いたりしたのかは、全然覚えてない。乗り遅れた電車の切符は無効になっても仕方がないが、次の列車に間に合う様にしてもらいたかった筈だ。すると、駅長さんは、私の切符にボールペンで何やら書き込み、最後に駅長印を押してくれた。つまり、切符は無効にならずに次発の列車で使ってもいいとのこと。日本ではあり得ないことだ。驚きを隠せないまま、お礼を言うと、ホームで次の列車を待った。幸い、途中での乗り継ぎが二時間かかる予定だったため、何とか二枚目の切符は無事に使える計算であった。

 『無茶なスケジュールのせいもあるけれど、なんだか今回の旅は、寝てばかりだな』、などと反省しながら、次発の列車に乗り込み、指定席に一応行ってみたが、そこにはやはり正式な切符を持っている方がいた。三時間余り立っているのはきつい。私は駅長手書きの切符を見せ、荷物を網棚に載っけてもいいかと聞くと、未だ学生であろう女性は快諾してくれた。それからは何することなく、景色を眺め、到着するまで時間が過ぎるのを待った。列車が台湾の東側を北上する際、海岸沿いの車道と並行して走る区間では花が咲き、海の色も綺麗で、しばらく見とれていた。 女性にお礼を言い、列車を乗り継ぐと、後は窓の外ばかりを追いかけ、ゆとりの中で花蓮(ファーレン)に着いた。

 駅に着いて、ガイドブックを広げる。目標の宿は探す手間もなく見付かった。花蓮駅は降りてすぐロータリーがあり、しばらく直進すると大きな噴水があった。それ以外は、店などが幾らかある、こぢんまりした町なのだ。花蓮は太呂閣(タロコ)という見事な渓谷への玄関町なのだ。泊まる宿ではばあさんが熱心に日本の相撲を観ていた。すると、今回の旅で初めて、中国南部を旅して台湾にやってきたという日本人の男子学生に会った。通常授業の時期ではないかとも思ったが、あえて詮索はしなかった。その彼曰く、「おいしいワンタン屋さんがある」とのこと。よく考えると、私はなにも食べていない。ばあさんに翌日の太呂閣のツアーを申し込むと、早速二人で食べに行った。確かにうまいワンタンだったが、口の中を火傷してしまう位、たくさん食べてしまった。

 町に夜の暗がりが訪れ、翌日の朝食用にバナナを購入した私は、彼と二人で民族の伝統的な踊りを見に行った。ステージを囲んで結構な人がいたが、私は余り関心が無く、彼に「ステージ脇の小屋の、展示物を見てくる」と告げて、中の物を眺めたが、いいと思える物はなかった。元の場所に戻ると彼がいない。大慌てで探すも、見渡す限りではいない。十分間くらい探して、宿に戻ってみたがいない。もう一度、行ってみるがいない。仕方なく宿の入り口で待っていたが、後で聞くと、別の場所に行っていたとのこと。一安心だったが、私も含めて、『独りで海外ブラブラする奴はこんなもんだろうな』位に、いつも軽く考えている。

(つづく)

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モグラじゃねーぞ

05032308_52_43_1愛犬「弥七君」(ミニダックス、♂、満九歳)が我が家にきた頃、なかなか芸を覚えなかった。「お手」「おかわり」を覚えたので「伏せ」を覚えさそうとしたのだが、どうやら、意味もなく「伏せ」をするのは自尊心が傷つくのか、なかなかしなかった。そんな弥七君であるが、しっぽと後ろ足で立ち上がる芸は一日で覚えた。「何か頂戴」などという時は自分からこの格好をする。弥七君にとっても、これはいい意思表示になって、使える、と考えたのか、特に食事の時など、この格好を、しょっちゅうする。一日に、朝と夕方の二回ほど乾燥ドッグフード以外の餌(我が家では「おいしんぼ」と呼んでいる)を食べさせているのだが、時間が近づくと、後ろ足と尻尾で立ち上がり、主に母の方を黙って見つめ続ける。そうして、時間になると「おいしんぼ」をもらえるのであるが、あっという間に食べてしまう。

 また、我々家族の誰かが食事をしているときもやってくる。本当に欲しいときは、やはり、後ろ足と尻尾で立ち上がる。同時に、テーブルの上で誰が何を食べているのか、チェックする。基本的にネギとチョコレートを犬にやってはいけないらしいので、それ以外のものだったら、家族から分けてもらう。それでもなかなかもらえないときは、家族の視線が集まる方にわざわざ行って、立ち上がり、「何か頂戴」という目をする。獣医さんによると、人間の食べ物は味が濃いので、やってはいけないと言われているが、ついついやってしまう。その上、自分のご飯である乾燥ドックフードも一日一杯は必ず平らげる。これでは、太ってしまうのもやむを得ないのだが、弥七君は目の前の食べ物の方が大事みたいで、気にしていない。

 そんな彼だが、体格の割に大きな頭をしているために、首が凝るらしい。いつから始めたのかは覚えていないが、首や腰を揉んでやるのは、私の役割になった。「首を揉め」というときは、のそのそと私の方に歩いてきて、嫌いなはずの「伏せ」をする。コリコリ揉んでやるのだが、私も気が乗らないときは、すぐやめてしまう。すると、鼻で突っつかれる。しょうがないなと、今度は私が加減しながら、本気で揉む。弥七君は気持ちいいけど痛いのか、のけぞって参ったとなる。

 このマッサージも、最初から私に身を預けることはしなかった。最初の頃は痛いのか、かぶりつかれたこともある。でも、弥七君の中で「これはちょっと痛いけれど、なんかコリに効くぞ」ということが、段々解ってきたのか、私が揉んでも、我慢するようになった。ミニダックスの場合、腰がすごく疲れるのか、ものすごく張っている。揉んでやると、時々かぶりつきそうなポーズをしながら、必死でこらえている。

 上述の通り、弥七君はなんでも食べる。空豆を食べたときには驚いたが、意外にも結構、野菜好きみたいなのだ。後は、歯ごたえのいいものも好きな様子。シャクシャクという音をさせて楽しんでいるみたいだ。しかし、家に来てから、長い間、いろんなものを食べたせいか、体重は少しずつだが増えていった。運動不足もあるだろう。しかし弥七君は、運動不足だからかどうかは解らないが、部屋の中を、突然、ダッシュで10周ぐらい走り回ることがある。ストレスの解消も兼ねてやっているのか、私には彼の真意は解らない。

 弥七君はいろんな格好で、くつろぐのだが、寒い日にはホットカーペットの上で「伏せ」をする。その姿を見ていると、とてもミニ・ダックスという気がしない。茶色いモグラが寝そべっているみたいだ。これを書いている現在は、私のベッドの上で横向きに寝そべっているがなんだか鼾をかいている。かわいいものだ。

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台湾紀行(その6)

 ボケっとしててもしようがないので、まず、母娘がどうするかを聞いた。なにやら、知り合いの車がくるらしい。バスのチケットもとれそうにない中、私は母娘に賭けてみた。すると、急ブレーキで止まる車がいる。母娘は乗った。私の立場は微妙である。(西の玄関口の)嘉義に行きたいというと、鉄道より安い料金を請求してきた。白タクかと思ったら、そうでもないらしい。要求される金額を払うと、すぐに出発した。山道も混んでいた。強引なA.M 3:00 のモーニングコールのせいか、私は寝た。助手席で。視界は悪し。

 突然の急ブレーキに目を覚ますと、目前に岩石が落ちていた。それでも、うとうと・・・次に目覚めたのは街中だった。なんでも、この親子連れを何としても今日中に送らねばならないらしい。とりわけ私は荷物の一端というところか。気がついたら、信号無視やら割り込みやら大変だった。ほとんど寝ていたので記憶にはないが・・・。

 嘉義に付いたら、台南へ向かおうと切符を買った。特急だった。確かに乗車した・・・が、気がつくと台南の駅で扉が閉まったところ。次は高雄(カオシュン・台湾第二の街)なので従うことにした。30分位後であろうか、駅に降り立ったのは・・・。私はここで二泊することになるのだが、駅の人は、台南に帰るならそれでいいという態度。日本ではあり得ないとびっくりした。降りる旨を伝えると、乗り越し運賃を取られた。そこでもやはり、日本語達者な、駅前のじいさんに宿の勧誘をされた。私はガイドブックを示して、もっと安いところがあると言うと、値下げした。そこは値段の割に高級で、驚いた。

 高雄(カオシュン)は港町でもある。そんな中、久しぶりに日本の家族に電話したら、「中田英寿選手が引退した」とのこと。驚きを隠せなかった。いろんな憶測が脳裏をよぎったが、彼が決めたこと。私がどうこう言う話ではない。高雄の街中で、日本で修行した人が店を開いていた。夜に訪れると、モンゴルの(きつい)牛乳酒をプレゼントされた。別の日に、高雄の海岸に行ってみたいと言うと、バス乗り場のおばさんが、大学生に案内してくれるように頼んでくれた。私が中田選手の引退をほのめかすと、彼は私の手帳に「中田」と書いてくれた。理系の大学に進んでいるという彼に、どんなことをやっているんだと聞いた。彼は回路の設計を論文のテーマにしたいと語ってくれた。・・・回路設計ならテストで解いたことがあるので、ひねくれたSinカーブなどを書いてみた。彼は、驚き、いつ習ったんだと聞いてきたが、大学か高校の頃かなあと、とぼけた。

 彼の通う大学は中山大学(中国名知らない)というところで、立派なキャンパスだった。彼の学生証でビーチにもタダで入れたが、そこでビールを飲んでるようじゃ仕方がない。丘の上に登ったり、暮れゆく夕日の中、過ぎ去る船の汽笛を聞いたりで、まもなく街は黄昏時を迎え、私も路線バスでホテルに帰った。

(つづく)

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当たるも八卦、当たらぬも八卦

 私は占い師や易者と話すのが好きである。ただし条件がある。いいことしか言ってくれるなと頼むのだ。嫌なことを言われると、後々ボディーブローのように効いてくるので、それだけは避けたいのである。懇意の方もいる。しかし、ある時、待ち合わせでの時間つぶしに新宿を徘徊していると、易者がいた。年は35前後といったところか。女性である。その人は、何言う暇もなく、「あなたはお金持ちにはなれない」と言った。やや不快な気持ちで、『こういう人もいるんだな』と考えながら、根拠を探り寄せようとした。よくよく話を聞いてみると、根拠なんて無いのである。思い付きか、第六感だか知らないが、こういう易者は迷惑である。金など払いたくはなかったが、時間が推していた。金を払ってから後悔したのではもう遅い。その時はたまたま通りがかりで神社の神主さんが話しかけてくれた。その方曰く「気合いは肩に出る」そうだ。捨てる神あれば拾う神あり。大分慰めてもらった記憶がある。

 渋谷のセンター街入り口ののじいさんにも見てもらったことがある。友人が隣の易者と話し込んでしまい、やむを得ず「じいさん、聞きたいことだけでいいから、1000円を500円にまけてくれ」と交渉したが、じいさんは譲らなかった。金を払うと、当時、私が最も知りたかったことについて聞いた。「じいさん、俺はいくつまで生きる?」と。じいさんは「あんたの生命力なら、70までは持つ」と言った。その後、私は何も聞かなかったが、「おぬしは多分、将来、多くの人から信頼されるぞい」みたいなことを言われて、ありがたかった。また、じいさんの観察力からくる洞察にも驚かされた。隣の友達は未だ話し込んでいる。コンビプレーかと思いつつ、終電に走った。

 いろんな方に会ったが、最寄り駅の占い師の先生には、占いの仕組み等、様々なことを教わった。先生の暇な時間(読書されている)に土産を持って行ったりして、よく相手にしてもらった。その先生にもいろんなことを言われたが、多すぎるので、何を選んでいいか判らない。先生と私は大概、世間話をしていたが、いろいろと教わったことには、感謝している。

 全く別の易者に、今後の将来を占ってもらったこともあった。じいさんはサイコロのようなものを振ると、「これは出たぞ」と言って私に結果を教えてくれた。同時に本から引用して、「あなたは臥竜じゃ。今まで土の中に潜っておったが、今は水面を泳ぎ、これから飛び立つ刻じゃ」と教えてくれた。私は嬉しかったが、そのページが使い込まれていることに、すぐ、気がついた。そうしているうちに、易の話で盛り上がる。しかし、段々それとなく気がついた。『この人は俺をスカウトしているんだな』と。その道に興味が無いわけではなかったが、少し寂しかった。

 結局、私の占い(易)についての感想は、アテにならないということだ。例えば、いくつかのH.Pの占い欄だけでも、正反対の結果が出ていることがある。経験的に若い女性の易者ほどキツい感じがする。煎じ詰めると、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」とは、本人の占い師(もしくは易者)を観る眼力にかかっているのではなかろうか、ということだ。

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台湾紀行(その5)

 翌朝、チェックアウトをすませ、八時には駅に着いた。嘉義(かぎ)→阿里山(あーりーさん)の山岳列車の切符はどこで売っているのだろうと、キョロキョロしていたら、側のばあさんが話しかけてきた。どうやら、切符を買わないかと言っているらしい。私はかなりの確率でダフ屋だろうと思ったので、買わなかった。まもなく駅の切符売り場を見つけ、並んでいたら、自分の番がきたので、阿里山行きの切符が欲しい旨を伝えると、売り切れとのこと。私は焦ってさっきのばあさんを探し、話しかけた。するとばあさんは、大人用の切符は売り切れたからと、子供用の切符二枚を差し出した。通常料金である。私は、本当に、子供用の切符二枚で乗れるのか疑問に感じたが、それ以上に不思議だったのは、そのばあさんが何のために切符を買い占めているのか、ということだった。

 子供用の切符二枚でも、何とかなるだろうと思い、ホームで九時発の列車を待った。列車に乗る段になって、車掌に切符を見せても、何も言われない。安心して、昨日、見逃した景色を満喫すべく、窓側の席に座った。すぐに発車し、窓の外を眺め続けていた。頂上へと登り続ける景色は絶景であった。それにしても、よくこんなとこに線路を引いたな、というようなところが何カ所もあった。後で聞いたところによると、台湾には日本統治下の頃に作られた鉄道や山道といったインフラが多いとのこと。雄大な風景が広がり続ける中、木々や雲に時々遮られながら登ってゆく。まもなくスイッチバックの地点に着き、登り終えると阿里山の駅に着いた。やはり寒い。

 宿は離れているので、送迎バスがくるまで、茶店で過ごした。冷えた体を温めるために、フーフーとすすりながら飲んだ。時間になったので、店を出ると、丁度バスがやってきて宿まで連れて行ってもらった。昼過ぎ、天気は雨模様だったが、宿にいても仕方がないので、近隣の散策道を歩いた。森の中で、看板の地図頼りにルートを辿ると、途中には池などがあり、霞んだ空気の中、ある意味、幻想的な風景を私は楽しんだ。やがて宿に戻り、部屋でのんびりしていると、壁の張り紙に何か書いてある。山頂での朝日を見るために、朝の三時にモーニングコールを鳴らすとか・・・暴力的だ。やがて、夕食をすませ、部屋に戻ると、それまで雨だったのが嵐になっている。さすがに、ご来光を見るのは中止だろうと思ったが、翌朝三時に、本当にモーニングコールを鳴らしてきた。

 眠い目をこすり、宿からちょっと行ったところに、山岳鉄道の続きの駅がある。傘を持って、とぼとぼ歩き、ホームで煙草を吸っていると、ぞろぞろと眠たげな人たちがやってくる。頃合いに列車はやって来て、乗客を本当の頂上まで運ぶ。着いたら、雨風が強く、とても朝日など見えようはずはない。戻りたくても、帰りの列車の時間まで相当ある。ふと見渡すと、食べ物の屋台がたくさん出ている。・・・ここでの売り上げのために客を連れてくるのかと気が付いたが、あまりの寒さに、自分も温かそうなものを食べてしまった。・・・やられた。

 雨風の中、霧しか見えず、皆、列車で宿に戻った。寝直したかったが、間違いなく寝坊するだろう私は、朝一番の送迎バスで、阿里山駅に戻った。まだ人は少ない。山を降りる始発まで、まだ相当時間がある。駅の窓口も開いていない。仕方ないのでバス乗り場に行ってみた。すると母親と幼い三人の娘がいる。私はまた、手帳を取り出し、目茶苦茶な漢文でいろいろと聞いてみた。すると、娘さんから恐ろしい事実を聞いてしまった。なんでも、昨晩の嵐で、崖崩れが起こり、汽車は不通。バスも落石のために相当遅れている。復旧のめどが立たないとのこと。・・・私が愕然としたのは言うまでもない。

(つづく)

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様々な色の詩

 赤、・・・煉獄の色

     脈々と流れし

     見はたすべきは

     その河の邑

 青・・・蒼氓の地

     蕩々たる異時間

     かの蒼き竹林より

     かいま見る空間の存在感ぞよし

 黄・・・退屈、彩やか、

     統括の季節には

     フラッグとなって、喜び、振るう

 黒・・・逃れざりし過去

     消すには

     塗りつぶさねばならぬ色

 橙・・・冥界の色

    粗末に触れてはならぬ色

 透明・・・誰も至らない

     近づこうとすれば失うばかり

 自分・・・飾り付けなしの透明を望む

      ゆらゆらと沖に浮かんでいて、

      誰にも邪魔できない。

      見上げれば、空と太陽だけ、

      誰にも邪魔できない。

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台湾紀行(その4)

 台湾中部の阿里山(あーりーさん)はかなり標高が高い。夏でも薄ら寒く、雲の中にいるような錯覚を受ける。阿里山→嘉義(かぎ・阿里山の西側の麓の街)には、日本統治時代に建設された山岳鉄道が、夏のシーズン中、一日に二本往復する。私は駅を探し当て、麓に降りる列車の切符を購入した。三十分ぐらいしてからであろうか、列車が入線し私も乗った。まもなく出発した列車は、森を抜けてゆく。ほどなくスイッチバックでジグザグに降りだした。『よっぽど急なんだな』と思いつつ、車内のぬくもりで再び眠りに堕ちてしまった。

 気が付いて時計を見ると一時間以上が経過している。耳がツーンとなり、唾を呑む。まもなく列車は麓の嘉義という街に着いてしまった。これでは、何のために早起きしたのか解らない。昼過ぎだったが、早速宿探し。ガイドブック片手に宿がありそうな辺りをうろつく。とりあえず一軒見付けたので、中に入ってみる。「ニーハオ」とお互いに挨拶を交わし、宿の交渉を始めるも、中国語だ。仕方ないので手帳を取り出し、「我望此地宿泊(ここに宿泊したい)」みたいに適当な漢文を書いてみた。どうやら通じた様子。宿賃を払うと、部屋のキーをくれた。その後もこの手帳はかなり重宝した。さて、部屋に入り、やはり荷物を下ろし、しばらく、ぼんやりくつろいでいたのだが、街に出てみたくなった。フロントに行くと、鍵を預け、ガイドブックの地図を指さしながら、「何処在食事処?(食事処はどのへんですか?)」みたいに、やはり適当に漢字を並べた。食べる仕草もして聞いてみると、地図の一部を指さしてくれた。「シェイシェイ」と言って、外に出た。

 しっかりと宿の位置を頭にたたき込んでから、ふらりふらりと街を歩く。土地勘を養うには歩くのが一番だ。まもなく、この街は判りやすく出来ていることが解った。それ程大きな街でもなく、路地も比較的狭い。ある露天の店で紅茶を飲んでいると、その店の関係者が何人かいたので、中国語で「チンウェン(excuse me)」と言ってから、英語でいろいろと聞いてみた。たむろしている中の、若い男の店員が、私と同じく、でたらめな英語で応えてくれた。デタラメならデタラメ同士で何故か通じるから不思議だ。夜店の場所や、土地のものを教えてくれた。お礼を言ってから、街の中心部に行くと、夜店などまだやっていない。かといって、夜遅くまで待つ気もしない。適当に歩いて食事を済ませて宿に戻ることにした。

 宿に戻り、荷物をいじっていると、日が暮れた。実は、この時、私は迷っていた。この嘉義の街から南へ向かうか、寝てしまった阿里山にもう一度行くかで。ガイドブックを見ると、阿里山にも宿泊施設がいくつかある。・・・迷ったあげく、ろくに景色を見ていない悔しさから、もう一度、阿里山に上ることに決めた。とりあえずフロントに行くと、先ほどとは違う人が番をしていた。運のいいことに、その人は英語がしゃべれた。まず、阿里山行きの一番列車の時間を聞いた。次に、頂上の宿泊施設に予約を入れてもらった。お礼を言い、近くのコンビニで翌日の朝食用のサンドイッチと、晩酌用のビールを購入した。

 部屋に戻ると、一人ビールを飲みながら、次の日午前九時の登山列車に向け、八時には駅に行こうと決めた。部屋の電気を消し、慌ただしかった一日を振り返る暇もなく、眠りについた。

(つづく)

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台湾紀行(その3)

 元々、食事を残すのが嫌いな私は、全部喰おうと覚悟した。普段、食べる量の優に三倍は超している。しかし、じいさんとの電話での失態があった以上、メンツにかけて食べた。支払いも結構いってたが、食べ過ぎで、黙って、会計を済ませるのがやっとだった。右往左往しているうちにじいさんのカメラ屋か何処かに寄った。暇なじいさんと私とで翌日のプランを練る。じいさん曰く「(湖より西の)下に戻った方が、便利じゃ」と。しかしそこは、私もゆずれなかった。「台湾を全部電車で旅するならともかく、私はリスキーな山岳系にも行ってみたいのです」と言うと、じいさんは「そうか。それなら、自分のやりたいことをやってみろ」と言った。

 するとじいさんは3*3の魔法陣(縦横斜め、足しても一緒)を示してくれた。あんたさんなら、てな具合で5*5の魔法陣を渡されてしまった。部屋に戻った私は、真ん中は多分13だろう事は予想が付いた。しかし、その後いくらやっても矛盾するのである。焦る私に、追う時計。ギブアップしてから時計を見ると、後2時間半しか眠れない・・・。時計は二時を回っている。それでも、無理矢理に寝た。

 翌朝、じいさんに魔法陣がおかしいというと、じいさんは「すまん。足した数の和が間違っておった。これが正解じゃ」と綺麗に魔法陣を解いた。眠い頭で、『それつはめでたしめでたし』と終わらせたかった私だが、じいさんはさらに言う「7*7があるんじゃ。解いてみい」 一瞬、素数なら出来るものかとも考えたが、とりあえず、有り難く受け取っておくことにした。

 台湾中央部を縦断してくれるタクシーはA.M4:30にやってきた。私は魔法陣のおかげで2時間も寝ていない。朝食にカロリーメイトを頬張ると、荷物をまとめて、出て行った。何とか待ち合わせに間に合うと、運転手さんは中国語しか話せなかった。じいさんに、「ありがとう」というと、車が走り出した。柔らかい運転である。懸命にコミュニケケートを採りたいのだが、英語は通じない、日本語も通じない、私が知っている中国語は「謝謝」と、「excuse me?」の意味での「チンウェン」だけだった。いくらアイデアが浮かんでも、お話にならない。

 そんな彼が、あるコンビニに寄ったとき、私におにぎりを差し入れてくれた。私はとても嬉しかった。たしか、煙草のやりとりでコミュニケートした記憶がある。あれは嬉しかった。

 そのドライバーはチェーンスモーカーだった。私も煙草は好きだが、無意識で吸うのを避けている。どのみち、お互いに長生きしたいものだ。

 途中で温泉にも寄ってもらい(パスポート置き忘れるなどの事件はあったが)、リフレッシュさせてもらった。その日、一日中眠かった私はタクシーの中でも爆睡していた。何ともったいないことか!結局目的地の阿里山(あーりーさん)に到着し、ドライバーと握手して分かれたのであった。しかし、阿里山鉄道の恐怖を知るのは二日後だった。

(つづく)

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勘弁してくれよ

05040814_04_07 我が家に弥七君(ミニダックス、♂、満九歳)が来た頃、やたら全身を痒がっていた。ペットショップの人は「時々、フケが出るんですよね」と言っていたが、よもやと思い、毛をかき分けてみると、黒いごま粒みたいなノミがいる。家族、総掛かりで、暇があってはノミを駆除していた。しかし、そんな方法では埒があかないので、動物病院に連れて行き、首周りにのみ取りの薬を塗ってもらった。これで何とかなると考えていたが、甘かった。一向に根治する様子が見られなかった。
 
 これは困ったと、どうしたものかと家族の間で作戦会議が開かれた。いっそのこと、毛をバリカンで刈ってしまおうか、などという案が出たが、せっかく立派な毛並みになってきたのだから、それは止めておこう、という事になった。その頃の弥七君は、獣医も呆れるくらい風呂に入れて、清潔にしていた。風呂に入れる役割は主として母が行っていた。体が小さいので風呂桶ではなく、ベビーバスに入れていた。そんな環境の中、母が思い出したように言った。「熱いお湯につけてるとノミが浮き上がってくる」と。これは、弥七君が聞いていたら、多分、逃げ出していたであろう発言だった。我々は弥七君を「釜ゆでにしよう」という方向性で一致した。
 当然のことながら、九歳にもなった現在、同じ事をしたら、彼はくたばってしまうであろう。しかしその頃は、一歳足らず位で、体もどんどん大きくなり、生命力がみなぎっていた。我々家族は、黙って準備を始めた。風呂桶のお湯は大体、ふつうの温泉くらいの温度にし、ベビーバスにはもっとぬるいお湯を準備した。さて、作戦開始。
 弥七君をいつも通りに洗ってやると、まずベビーバスに入れてやった。掛け湯みたいなものである。次に、思い切って風呂桶に放り込んだ。足が底に付くか付かないくらいかの水位で、弥七君は一生懸命に犬かきをしている。2分、3分、我慢させた後には、ノミが水面に浮かび上がってきた。弥七君とノミとの根比べである。パチャパチャやっている弥七君は「なんてことするんだ」と、目が訴えている。限界近くまで我慢させた後で、風呂桶から出してやると、そのまま風呂場の床にへたり込み、ゼーゼーと息をしている。もちろん火傷などはしていないが、完璧にバテきっていた。
 そんなことを、三回くらい繰り返したであろうか、弥七君のノミはほぼ全滅したらしく、痒がることは無くなった。かなりの荒療治であったが、効果はてきめんであった。九歳の今だと、まず出来ない戦法である。「釜ゆで」にしたのは申し訳なかったが、入浴剤の登別カルルス(白色なので黒いノミがわかりやすい)も入れたことだし、温泉気分ということで許してもらいたい。
 飼い出してからずっと続いている私の日課は、弥七君の目のゴミを取ることである。自分では取れないだろうし、何より、よく眠れているのかの、おおよその目安になる。もう九歳だし、ノミよりも怖い、病気にならないことを願っている。

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台湾紀行(その2)

 バスを降り、宿泊予定のユースに向かおうとした私の前に、老人が立ちはだかった。寝ぼけ頭で話を聞くと、日本語だ!台湾のお年寄りは日本語を話せる方が多いとは聞いていたが、いきなり出会うとは。なんでも、自分の宿に泊まらないかと、私を勧誘している。ユースに予約を入れてある旨を伝えたが、極度に不便な場所らしい。とりあえず、部屋を見せてもらい、日本語が通じる安心感も手伝って、じいさんの宿に泊まることに決めた。そして、ユースに断りの電話を入れてくださいと頼んだ(中国語解らないから)。宿に荷物を置き、じいさんが紹介してくれた、気のいいタクシーのおっちゃんと湖を一周することにした(値段は当然、交渉した)。ズーゲッタンとは日本語で読むなら日月譚(にちげったん)で、台湾中央よりやや北部にある、周囲約25km位の湖と記憶している。タクシーのおっちゃんとは英語で微妙にコミュニケート。いろんなところで止めてくれたが、おっちゃんの言いたいことはよく解った。一番印象的だったのは、湖の島が地震でかなり沈んでしまったということだった。その途中で、あろうことか、日本から持ってきたインチキみたいなカメラがぶっ壊れた。

 一周して元の場所に戻り、おっちゃんにお礼を言うと、じいさんを捜した。じいさんは宿の隣のカメラ屋におり、運のいいことにカメラ職人だったのだ。壊れたカメラを見せると、「これは直らないなあ」と言う。私が「こうしてみましょう」「ああしてみましょう」と言って、二人で試行錯誤している中、じいさんが「私の末の娘が英語の教師をやっとる。掛けてみるから応えてくれんか?」と、携帯を取りだした。私は焦った。電話でのやりとりほど意思疎通の難しいものはないからだ。

 まもなく英語で「とりあえず、お話は伺いましたが、どうしましたか(どうなさりたいのですか)?」という問いかけがやってきた。聞く分には解る。しかし私は、中途半端にぶっ壊れたままのカメラの説明をどうすればいいのか迷った。そもそも何で電話しているのかも解らない。曖昧な返事と「・・・」が続く中、焦りは増す。最後には「聞こえてますか?」とまで言われた私は、メチャクチャに単語を並べて、「日本から来た観光客で、今、ここにいます。カメラが壊れてしまったのですが、@X&%・・・」みたいなことを言って、じいさんに代わってもらった。じいさんは調子よく母国語で話している。カメラも治ったみたいだ。これでは何のために電話したのか解らない・・・多分、じいさんの娘自慢につきあったというところか。

 晩飯の時間になり、じいさんが「どうする?」と聞いてきた。私が「台湾料理は屋台でも食べました。今日は中華料理でも食べたいです」と言うと「そうか」と頷き、店を紹介してくれた。店に入った私は紹興酒を頼み、女将が言うとおりに適当に注文してしまった。気が付いても、時すでに遅し。私のテーブルには、恐ろしい数の皿が並んでしまった。『こんなに食えるわけねーだろ』と思いつつ、どこから箸を付けようか迷っていた。

(つづく)

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台湾紀行(その1)

 ちょうど一年前あたりのこの日、成田から台湾へと飛んだ。海外に行くときは、いっつも割高なカツカレーを食べる。ゲンを担いでいるわけでもなく、お米を食べたい心境からだと思う。便は台北着。あの、離陸の時の加速度のGを受けつつ飛び立った。少し眠った。まもなく着陸とのこと。小さな建物が、やがて現実味を増し、生活圏へと降り立った。

 その後、一服する暇もなくバスに乗り込み、台北市内へと向かった。夕方、宿は押さえてある。ぼんやり台湾の交通渋滞を見物していた。一時間半ほどであろうか、バスは台北のターミナルに着いた。ここで私はやっと煙草を吸い、そのターミナルが電車のターミナルと隣り合わせに建造されていることを知った。暑いのは覚悟していたが、動いたり走ったりすると汗が出る。当初は不快な気持ちで、リザーブしていたホテルに向かった。ペーパーを見せると部屋に案内され、時計の針をずらして眠った。

 もともと、台湾を一週間程度で廻る予定であった。次の朝、朝食券をもらって済ませると、バスのナンバーを控えて、私は故宮博物館へと向かった。改装中だったが、素晴らしい珠宝を目にすることが出来た。目を凝らしただけでも瑞品だらけであった。帰りのバスでは、日本語と中国語と英語を話すお嬢さんに出会い、名物料理などを教えてもらった。屋台のバーゲンで降り、手当たり次第に食べてみた。感想は、おいしいが、全体的に薄味だった気がする。中には、カエル料理の店もあったが、私は遠慮しておいた。

 翌日は世界最高峰のビル101に行ってみた。ちょうどメトロで数駅乗ってから徒歩20分くらい。官庁街の中にあり、入り口がどこか彷徨った。ようやく探したエレベーターは、心地よく、私を最上階へと導いてくれた。展望台にはアイスクリーム屋があり、自分もそれなりに食べてみた。日本の31と同じだった。土地勘のない私は、展望台から見る光景に驚きも何もなく、ビルのてっぺんに付けられた、大きな重しの免震装置を眺めていた。

 ホテルのフロントの方々は日本語を話す人も多く、不便など何一つ無かった。こういうときは居座りたいのだが、スケジュールが許してくれない。翌日、ズーゲッタンという湖に向かった。

(つづく)

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問題は二つあったからだ

 久間防衛相がいわゆる原爆発言で引責辞任したが、何に対して引責したのかに疑問が残る。会見で「今度の選挙で私が足を引っ張ることになっては申し訳ないという気持ちになり、私自身が身を引く決意をした」とあるが、これでは単に党利党益のために、党に対して引責したことになる。また、「あくまで(原爆投下を)是認していないと言っているが、『しょうがない』という言葉をああいう場面で使っちゃいけない」とも語り、本音は発言に関して、どのように考えているのかが見えない。これでは被爆者や被爆地の方々が怒るのも無理はない。もし、『しょうがない』というコメントに「あれで本土決戦が避けられ、戦争終結に向かったのだ」という論理が隠れているならば、実際に陸上戦を行い、多くの犠牲者を出した沖縄の方々には、どう説明するのか。現在でも米軍基地の多くを抱え、本土の犠牲になっているという、沖縄の方々のやるせない気持ちまで考えが及んでいるのか。

 原爆については、幼い頃、友人に「はだしのゲン」という漫画を借りて読んだ記憶がある。その生々しい描写に、しばらくは、ろくに物が喉を通らなかった。現在でも、その地獄絵図を思い出すことが出来るくらいに強烈なインパクトだった。実際に幼い頃、広島原爆によって地面に人の影が焼き付いた話を耳にしたし、原爆ドームにある、有名な峠三吉の「ちちをかえせ・・・」や、被爆した人の話にも耳を傾けた。なんでも、広島では原爆のことを「ピカドン」と呼んでいて、「ピカッと光って、次にドーンという衝撃がやってきた」というのが語源らしい。何より私の母方の故・曾祖父は、原爆を落とされて、まもなく救助に向かったため、「原爆(被爆?)手帳」を持っていた。数年前、長崎にも行ったが、強烈な破壊の痕跡は至る所に残っていた。

 戦前、核分裂が確認された後、ある物理学者が「原子爆弾なんて、一つの国で総掛かりで取り組まなきゃ出来ない」と語っていたらしいが、実際にアメリカがロスアラモスを中心に莫大な金と労力をつぎ込み、現実の物とした。あまり知られてはいないが、日本でも小規模ながら、原爆作成プロジェクトは進んでいた。実現しなかっただけで、もし実現していれば、窮地の日本軍は当然使用したであろう。戦争の恐ろしさだ。

 よく交わされる意見だが、「戦争を終わらせるという名目ならば、何故、長崎にまで落とさなければならなかったのか?」という事を聞く。それに対し、「アメリカの、日本に対しての、原爆は何発でも用意できるという意思表示だった」と何かの本で読んだが、戦争末期の日本の国力を考えると疑問符が付く。これに対し、私が最も妥当だと思われた見解は、「原爆には二種類ある。ウランが原料の物とプルトニウムが原料の物。つまり、問題は二つあったからだ」という(確かアメリカの)どこかの大学教授か専門家が発していた意見だ。伴う根拠は、核によって、戦後の世界に於いての主導権を握ろうとしたことが見え隠れする。核分裂のエネルギーで核融合を起こさせるという水爆の開発まで手がけたことは、意地でも最先端の兵器を所有し、核による影響力を維持し、利用してきたことを裏付ける。

 原爆の父・オッペンハイマーに限らず、多くの物理学者が戦後、核廃絶の運動の中心となった。日本でも「核廃絶を目標に」というスローガンを、よく見聞きするが、そうであってほしいとは思いながらも、それが理想論に過ぎないことは、現在の国際情勢をみれば一目瞭然だ。第三の広島・長崎が生まれないよう、願っている。

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絶対に負けられない

 今年の日本のプロ野球を見ていると、交流戦以後、北海道日本ハムファイターズ(以下日ハム)が好調である。無論、去年の日本一のチームであるが、去年は新庄選手の引退宣言などで一気に波に乗った感じがした。シーズン後に小笠原選手(現巨人)がFA権を取得ということもあって、私の印象では、ワンチャンスをモノにした感じが否めなかった。実際、今年のシーズン前の様々な解説者達の予想によると、ピッチャーの駒不足と、新庄、小笠原両選手の抜けた穴が大きく、決して高い評価は受けていなかった。ほとんどの予想は良くて3位、悪くて4~5位というものだったように記憶している。当初、私も、戦力を考えると、シーズンを通しての順位は、その辺に落ち着くのではないかと、失礼ながら考えていた。

 野球というスポーツを冷静に考えてみると、ピッチャーの出来次第で勝敗が大きく左右される気がしてならない。どんなに強力な打線でも、一流のピッチャーが本当に調子がいいときなどは、まず打てない。学生時代にある友人が、「野球って欠陥ゲームだと思うんだよ。ピッチャーで決まっちまうじゃねーか」と言っていたが、私の場合、そこまで極端でなくても、五割以上は投手力で決まるという意見には賛成だ。裏を返せば、ピッチャーはそこまでの責任を負っている以上、これほど孤独なポジションは無いとも言える。近鉄時代のローズ選手に55号ホームランを打たれ、優勝を逃した松坂投手はベンチ裏で泣いていたという。

 余談が過ぎた様だが、投手力から見ると、シーズン前の日ハムには疑問符が付いた。外国人ピッチャーが素晴らしい働きをするなど、いろんな意味で嬉しい誤算もあっただろう。もちろん現在は、あくまでもシーズンの途中で、これからどうなるかは判らない。しかし、現に首位にいるのも事実である。日ハムの成績が良くなった要因の一つに、本拠地を東京ドームから札幌ドームに移したからというのもあるだろう。東京ドーム時代は巨人の試合が優先され、いわゆる阪神の、死のロードよりも過酷なスケジュールだった事もあると聞く。しかし、それらだけでは、去年と同じく、戦力がダウンした今年も好調である要因とはならないだろう。思うに、今年の日ハムの選手達は「絶対に負けられない」と全員が意識しているのではないか。もし、負けても、戦力ダウンの影響で仕方がないと言われるだけであろう。しかし、選手達にしてみれば、これ以上の屈辱はない。己の沽券に関わる問題である。だからこそ、「絶対に負けられない」のだ。

 能力あるアスリート達が本気になり、目標に向かって一致団結した時ほど、チーム競技というのは底力を発揮する。そんな時に己の実力以上のものが出てくる。これから夏場を迎え、どのチームも必死で優勝争いを繰り広げる。どんなドラマが待っているのか静かに見守っていたい。

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本のオーバーフロウ

 買うことが決まっている本ならば、ネットのアマゾンで購入するのだが、何分、アマゾンでは立ち読みが出来ない。従って、新刊本のチェックの意味でも、周期的に近所の本屋に出かける事になる。まず、入り口の横積みされている新刊本をチェックする。しかし、大概は手に取らず、そのまま次の雑誌コーナーに行く。ここは人が溢れているゾーンなので長居はしない。必要な情報だけを仕入れる。よっぽど必要でない限り、購入することはほとんどない。その後、様々なコーナーを回るのだが、「これは!」という本に出会うと、内容を何度も確認してから、買おうか買うまいかで悩む。大方は頭を冷やすために、とりあえず元の場所に戻す。そうしてまた徘徊を始める。時に本のタイトルに惹かれることもある。そんな時は、まず筆者が誰なのかをチェックする。「はずれ」覚悟で手に取り、斜め読みをする。大方、「はずれ」で、すぐに元の所に戻す。文庫本のコーナーは割合、入れ替わりが少ないので、新しく入っている物を中心に物色する。文庫本の場合、単行本に比べ、比較的、値段が安いのでありがたいのだが、実際に買って、自宅で読むかどうかを考えてしまう。例えば岩波の哲学書などは、その場で面白みを感じても、一晩寝ると、どうでも良くなってしまうケースが多い。そんなこんなで大概はチェックだけで、手ぶらで帰ることが多いのだが、悩んだ末に買うと決めた本はスパッと買ってしまう。もし、買いたい本が多すぎるときは、足が棒になるまで立ち読みを続ける。本屋に数時間居ることも、たまにだがある。

 会計の際に、「ブックカバーはいかが致しますか?」と聞かれるのだが、昔は付けてもらっていた。外で読む時のことを考慮して。しかし、本棚にある本、全てにブックカバーが付いていると、どこにどんな本があるのかが解らなくなってしまい、資料として使いたい時にいちいち確認するのが面倒なのと、整理整頓が難しく、下手をすると同じ本を二度買ってしまう危険性があるのとで、ブックカバーは付けてもらわないにようになった。

 最近、本の購入量がかなり落ちたのだが、これは上述の通り、本当に大切だろう本しか買わなくなったためである。それまで、読むペースの倍以上のペースで本を購入していた。当然、読まなければならない本ばかりが増えてしまい、到底こなしきれなくなったというのが本当のところである。また、私の本の読み方も気ままで、一気に読んでしまうものと、そうでないものがある。一気に読んでしまう物は、大体その後も何度も読む本になる。ちょっとずつ読む本というのは、その時の気分で選ぶため、何冊も並行して読むことになる。現在、並行して読んでいる本は少なくとも二十冊はあると思う。もちろんそれぞれを正確に覚えているわけではない。イメージで捉えているというのが正直なところだ。

 並行して読んでいる本の中には、空き時間の有効利用のためのものがある。一度、サウナで文庫本を読んでいたら、ページを繋ぐ’のり’の部分が溶け出し、バラバラになってしまったことがあった。その時は泣く泣く、買い直した記憶がある。

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バイオリンの神童

 先日、モスクワのチャイコフスキーコンクールのバイオリニスト部門で最優秀賞を取った女性がいると聞いた。新人の登竜門であり、まさに快挙である。・・・そういうニュースを聞く度に、「もしあの人がいれば?」と私は勘ぐってしまう。それは、故・渡辺茂夫氏のことだ。私は氏の演奏に惚れた一人に過ぎない。友人の結婚式の二次会でも流したが何分、音が悪い。戦後すぐの録音だからやむを得ないのかもしれない。しかし、氏の演奏力の方が上回り、会場では事なきを得た。

 氏と出会った経緯は単純であるが奥深い。何かの用事(多分仕事)で出かけようとして、歯を磨いていた私に氏の音は響いた。たまたま付けていたT.Vからのものだった。私の心の琴線が弾かれた。刺激された。即座に私はT.V局に電話を掛け、アルバムのタイトルを聞いた。・・・断言するが、文章の世界では、詩や歌は、心の奥深くを揺すぶられない限り、ものにならない・・・なかなか、ものともならぬ日常に退屈していた私は、強烈なショックを受けた。楽器のその音色だけでショックを受けた事例は他にもある。盲目のバイオリニストが奏でる音にも惹かれた。音だけを聞いて「この人何者だ?」となったのはこの二件だけである。

 渡辺茂夫氏は、幼少の頃から神童と目され、実際に当時の世界的な音楽家から絶賛を浴び、特待生としてニューヨークのジュリアード音楽院に留学する。どんな待遇だったのか、どんな差別を受けたのかは、我々の知る由もない。きっと辛かったのだろう。氏はまもなく、睡眠薬で自殺を計る。発見がぎりぎり間に合い、未遂に終わるも、手遅れで、晩年を寂しく日本で過ごした。

 繊細過ぎるものほど壊れやすいのか・・・?辛い疑問だ。亡くなった今となっては、確かめようもない。ただ悲しい。しかし、その音色が超一流だったことは疑う術もない。私は氏のアルバムの「コルレイの主題による変奏曲」の演奏を聴く度に鳥肌が立つ。その中の、あるメロディの演奏に慈愛さえ感じるのだ。決して誇張しているわけではない、素直な感想だ。数少ない氏のCDの演奏を大事に、大事に聴いている。

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てけてけワンワン

05040813_33_33 愛犬弥七君(ミニダックス、♂、満九歳)は春と秋にしか散歩に行きたがらない。夏は暑いので連れて行っても家の周りを一周したら「もう帰る」と一目散に家に向かって歩き出す。冬は寒いので、基本的に家から出たがらない。今日は寒いなと思って、起きてみると、弥七君の気配がない。そんなときは必ず炬燵の中に潜り込んでいる。立派な毛皮を纏っているのに、これでは犬なんだか猫なんだか解らない。そんな彼が散歩に行きたがるのは春と秋のぽかぽか陽気の日だけである。そんな日に「散歩に行くか?」と尋ねると、大はしゃぎして部屋の中をダッシュで駆け回る。尻尾を振りまくり、ソファーの上、テーブルの下、とにかくはしゃぎまくる。しかし、いざ胴輪(首輪ではなく前足に付ける)と紐を付ける段になると、今度はもったいぶってか、いちびってか、逃げ出す(彼は嬉しいことがあると、もったいぶって、逆に、なかなか捕まらない様に逃げ出す癖がある)。てんやわんやで何とか捕まえて、胴輪を装着するのにだっこしている間も尻尾を振りまくって暴れる。胴輪に紐を付けてやると、一目散に玄関にダッシュして、今度は「早く来い」とせかす。そんなこんなで、やっと散歩に向かう。

 彼がまだ幼い頃、決まった場所でおしっこをするのだが、当初は腰をかがめてやっていたのに、ある日突然、後ろ足の片足を上げてするようになった。教わるわけでもなく、そうなったのだから、本能なのかなと驚いた。今でもそうだが、散歩の間中、紐を持つ私より、どんどん前に行って引っ張られる。当初は楽だからいいかと思っていたが、本当は飼い主より後ろを歩かさなければいけないらしい。躾に失敗したのかもしれないが、彼は何にでも興味を持って、電柱やポールや木などがあると、道を右に左に走り回る。そんな様子を見ると、別に悪気があって自分より前を歩く訳じゃないんだろうからと、好きにさせている。気持ち的には、紐を放して好きなようにさせてやりたいのだが、車が多いので事故に遭う確率が高いし、下手をすると帰ってこなくなって「うちの犬知りませんか」のポスターを貼りまくる状態になるのを危惧して、紐を持つ手だけは離さない様にしている。

 また、やはり彼がまだ幼い頃の散歩では見知らぬもの全てに対して、尻尾を振りながら吠えていた。時に子供が怖がる、私が叱る、子供が逃げる、もっと吠える。これについては何度も叱った。現在では吠えなくなった。また、犬の散歩の時間帯はどこの犬も大体、朝と夕方なので、様々な犬に遭遇する。幼い頃の彼は、チビのくせに大型犬にでも、やはり尻尾を振りながら吠えていた。私は飼い主に何度謝ったか解らない。大型犬の方も「コイツ何にも解ってねーな」という表情。そんな散歩を繰り返して数年が経ったとき、一度、大型犬が本気で怒って彼にかぶりつこうとしたことがある。私は咄嗟に彼を持ち上げてかばい、事なきを得た。それが弥七君にとってトラウマになったのか、見知らぬ犬に吠えなくなったどころか、遠くの方に犬の気配を感じると、「この道はいやだよ」とばかりに方向転換するようになった。家では元気よく吠えるので、「弥七の内弁慶」と家族では認識している。

 家では雷が鳴っても吠える。T.Vの乱闘シーンを見ても吠える。怪しい物音にも吠える。玄関のチャイムが鳴っても吠える。母はこの習性を利用して、しつこいセールスマンなどが来ると、彼をだっこしていく。何でも、吠えまくって相手もお話にならず、早々と退散していくそうだ。自覚しているかどうかは知らないが、番犬の役目は果たしてくれている。

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